根本陸夫外伝〜証言で綴る「球界の革命児」の知られざる真実
連載第7回
証言者・松沼博久(2)

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「クラウンライター、江川卓、投手、法政大学」──会議の進行役・伊東一雄の甲高い声が場内に響きわたった1977年のドラフト。巨人入りを熱望する江川は、このクラウンの1位指名を拒否し、作新学院職員の身分で渡米。南カリフォルニア大に留学してプレーする道を選んだ。翌78年10月、クラウン球団(=福岡野球)から西武へ経営権が譲渡された際には、江川との交渉権も付いていた。

 江川を新生西武ライオンズの華にすべく、球団オーナーの堤義明は「交渉権を生かして獲得に向かう」と宣言。まずは監督兼管理部長の根本陸夫が球団社長の宮内巌とともに、江川の後見人で当時の自民党副総裁・船田中(ふなだ・なか)に面会した。

 だが、江川側の入団拒否の姿勢に変わりなく、江川の父親との交渉を試みるも会えずに失敗。11月には宮内が渡米し、江川本人に直接会って強く勧誘するも、翻意させるに至らず。帰国した宮内は無念の獲得断念を発表した。

 それから間もなく、ドラフト前日の11月21日。巨人が”空白の一日”を主張して江川との契約を発表すると、球界は大騒ぎになった。一見、野球協約の盲点をついたようで実際は論理の飛躍でしかなく、セ・リーグは巨人の支配下登録申請を却下。これに抗議した巨人はドラフトをボイコットしたのだが、この異常事態が、松沼兄弟の運命を変えることになる。兄・博久にその真相を聞く。


1年目から16勝をマークし、新人王を獲得した松沼博久

「僕ら兄弟で『東京ガスにお世話になります。プロには行きません』と言っていたので、ドラフトでは指名されなかった。でも巨人がボイコットしたからドラフト外で獲りにくる、争奪戦になる、というような話は耳に入っていました。ただ、それで僕らの気持ちが変わることはなかったんです」

 巨人抜きのドラフトでは江川に対して阪神、南海(現・ソフトバンク)、ロッテ、近鉄の4球団が1位指名で競合し、抽選の結果、阪神が江川の交渉権を獲得。混乱と騒動を経て、1カ月後にはコミッショナー・金子鋭の”強い要望”が出て、最終的に江川は阪神と契約。のちに巨人にトレードされることになるのだが、そのドラフトから2日後、11月24日に時間を戻す。

 その日、都内で行なわれた東洋大の優勝祝賀会の席上で弟・雅之は「絶対、プロには行きません。2年後、自信が持てたら考えますが、兄と一緒にがんばります」と発言。報道されていた巨人の誘いを拒否すると、東洋大OBとして出席していた兄・博久も間近に結婚式を控えていたため、「準備に忙しくて巨人の方と会う暇もありません」とコメントを残している。

「結婚式は12月9日で、その2日後、東京ガスの納会。この時はオトマツ(弟・雅之)も来て『来年、よろしくお願いします』って挨拶しているんだけど、それが変わったのは、会社の方針で江口(昇)監督を代えるっていう話を知った時です。僕はこの人のためにがんばりたいっていう思いがあって、めちゃくちゃ慕っていたから、『え? 江口さん辞めるんか』って。オトマツにも『江口さんがいるからここでがんばろうや』って言ってたんだけど……。そこから僕らの気持ちが揺れ動いたんです」

 話を聞いた雅之も「え? 江口さん、辞めちゃうの?」となり、「じゃあ、プロの話も聞いてみようか」となった。その頃、各球団のスカウトは「松沼兄弟は120%、巨人入り」との情報をつかんでいた。

 西武のスカウト、毒島章一(ぶすじま・しょういち/元・東映ほか)によれば、球団では「巨人が松沼兄弟の”囲い込み”をやっている」と断定。毒島が松沼兄弟一本に絞って担当となり、”反撃”が開始されたという。

「毒島さんはいつも交渉の席にいて、人がよくて、僕たち兄弟をずっと見ている方でした。メインは宮内さんだったり、戸田(博之)さんだったり、堤オーナーの下で三本指に入るような人で、そういう人たちの横についているのが毒島さん。たぶん、球団にいろんな報告はしていたんでしょうけど、決定権はなかったと思うし、口説かれたというイメージはないですね」

 戸田は堤にとって早稲田大の後輩であり、「ナンバーワンの腹心」であり、球団運営実務のトップ。のちに西武の球団社長となって根本のプランを後押しすることになる。この戸田、根本、毒島の3人で松沼兄弟獲得作戦が練られた時のこと。兄と弟、どちらを先に口説くかが議題になると、「おっちょこちょいなのは弟のほうだから、弟を口説こう」と決まった。

 兄・博久に「口説かれたイメージ」がないのは、ある意味、必然だった。さらに彼が明かしたとおり、ずっと兄弟を見ていた毒島は、弟・雅之が巨人との交渉の話をした瞬間を聞き逃さず、インプットした。その上で雅之だけを呼び出して一対一で面会。対話のなかで毒島が契約金の額を提示しつつ「ウチはこうなっているんだけど、来るか?」と問うと、雅之はすぐ乗り気になったという。

 そして、その後、12月24日に巨人との交渉の席が設けられた時。当時の球団代表・長谷川実雄とともに、監督の長嶋茂雄が初めて同席した。兄弟と父親、3人で向かい合った。もともと野球自体が好きではなかった弟・雅之はそれほどでもなかったが、子どもの頃から巨人ファンだった兄・博久は憧れの人を目の前にしてオーラを感じていた。

「長嶋さんに『来いよ。オレの胸に飛び込んで来いよ』って言われたんです。大きく両腕を広げて、笑顔でね。普通はだいたい、長嶋さんがそこまでやったらコロッといくじゃないですか。そこでいかないところが、僕たちの少し変わったところで。もちろんすごい人だっていうのはわかっているんだけども、オーラが強すぎて、入り込みづらいところがあって……」

 プロ野球の新人獲得が自由競争だった時代。巨人がその選手を獲りに来たら、他球団は手を引いた。その”力関係”はドラフトで解消したようでいて、ドラフト外という名の自由競争では不変だった。

 だがその時、巨人の大スターが口説いても決め手にならない選手が出現した。長嶋は約1時間、ほぼひとりでしゃべり、巨人がいかに兄弟ふたりを必要としているか力説したそうだが、本来、交渉は監督の仕事ではない。話し終えて去ったあと、代表の長谷川が条件面の説明を始めた。

 仲のいい兄弟がふたり一緒に入団できるのは条件に見合っていた。しかし、「社会人出身のお兄さんは即戦力として、大学出身の弟さんは1年間、二軍で鍛えて。特別扱いはしないから、しっかりはい上がってきなさい」との方針が伝えられた。長嶋のオーラが消え、現実に戻った印象があった。

「ファームは嫌だったんです、オトマツは。それに、片方が一軍で片方がファームだとすると、僕にとってはキャッチボールの相手がいなくなる。いや、あの、うちは4人姉弟でお姉ちゃんふたりいるんです。だから僕は3番目の長男で、いつもお姉ちゃんにくっついていて。性格的には”お姉ちゃん子”で、どちらかというと弱虫なんです。人見知りもするし、キャッチボールの相手を選ぶのも面倒くさいから、オトマツがいつも一緒だったら楽でいいなと思っていたんです」

 兄弟はじつは姉弟であり、巨人入団後の現実は兄も弟も本当に望むものではなかった。父親もどちらかがファームに落ちている状況を嫌がった。

 すると、翌25日、西武との交渉が行なわれることになり、宮内、戸田、毒島に加え、根本が初めて同席。東京・新宿区の魚料理店で向かい合ったなか、兄弟にとって最もインパクトがあったのが、根本の言葉だった。

「頼むから、新生西武ライオンズを手伝ってくれ。オレが監督で、お前らふたりを使うから」

 派手な長嶋に比べれば根本は地味で、見た目も華やかではなかった。だが、親分のような雰囲気があって貫禄は十分。そんな男が発した言葉は、決して大風呂敷を広げるものではなく、切実なお願いであり、明確な起用の方針だった。

「なにしろ『手伝ってくれ』ですからね。ああ、この言い方は絶対にふたりとも『一軍だ』と思ったんです。そもそも僕ら、プロとして、仕事として、試合に出なければ何にもならないという考えがあった。だから華やかなところに行くよりも、仕事として行くんだったら、根本さんのとこだよねって話したんです。で、どうせ行くんだったら、契約金を比較してもいいほうに行こうとなった。ただ、西武を選んだというより、根本さんに口説かれたから、っていうほうが強かったんです」

つづく

(=敬称略)

著者:高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki