野球日本代表 オリンピックの記憶〜1984年ロサンゼルス大会
証言者・吉田幸夫(1)

 1984年8月1日、ロサンゼルス五輪の予選リーグ。ドジャースタジアムで行なわれた日本の初戦の相手は、強豪・韓国だった。相手の先発は当時、高麗大の4年生だった宣銅烈(ソン・ドンヨル/元中日)。日本の先発は右のアンダーハンド、プリンスホテルの26歳、吉田幸夫だった。


ロサンゼルス五輪の初戦の韓国戦で好投した吉田幸夫

 もう36年も前のことになるんですね。ロサンゼルス五輪といえば、今でも超満員のドジャースタジアムで戦った決勝のことが真っ先に思い浮かびます。ただ個人的な話をさせていただけるなら、私は最初に投げさせてもらった韓国戦のことが強く印象に残っています。

 あの試合の先発は、予定では宮本和知くん(川﨑製鉄水島/現巨人投手チーフコーチ)だったんです。当日の朝、松永(怜一)監督に呼ばれて、急遽、「今日はお前が投げろ」と……うれしくてうれしくて、すっかり舞い上がっちゃいましてね。

だって、日本代表ですよ。日の丸をつけて、しかもオリンピックの初戦に先発でしょ。まして相手はアジアでナンバーワンを争う韓国で、エースがあの宣銅烈でしたからね。そんなチームを相手に投げさせてもらえるなんて、感無量でした。そんな責任あるマウンドを任されて、結果を残せなかったら自分だけじゃなくて、日本の恥になってしまいます。そういう意味でモチベーションも高かったし、すごく強い気持ちでマウンドへ向かいました。

 吉田は和歌山県の南部高校から青山学院大を経てプリンスホテルへ入社。甲子園に出場したわけでもなければ、全国的にその名を知られていたわけでもない。プリンスホテルが行なった強化試合でキューバを相手に好投したことが評価され、全日本入りを果たしていた。

 高校2年の秋、センバツをかけた新宮高校との試合で、延長18回引き分け。再試合でも完投しながら負けて、あと一歩というところで甲子園には出られませんでした。じつはその引き分けた試合の翌朝、肩が上がらなくなりましてね。病院に行ってレントゲンを撮ったら、右の肩甲骨に5センチくらいのひびが入っていたんです。

 それでも再試合がありますから、痛み止めの注射を試合開始の1時間くらい前に打ったら、肩が軽くなって投げられた。さすがに5回を過ぎたあたりからまた痛み出して、結局、最後まで投げたんですけど、試合には負けて……いま思えばむちゃくちゃな話ですけど、当時はそれが当たり前でした。

 高校を卒業して、青山学院大学に進みました。当時は東都の2部リーグでしたけど、3年の春に入れ替え戦で勝って1部へ上がることができました。でも、初めて1部で戦った3年秋、あとひとつ勝てばリーグ優勝というところまでいきながら、勝ち切れなかった。プリンスホテルでも地方大会では優勝するのに都市対抗には出られなくて ……私の場合、そういう野球人生でしたから、大きな舞台でプレーしたいという夢はずっと持っていたんです。

 和歌山県の田辺市で生まれて、小学校も中学校も学年1クラス。だから同い年の23人がずっと同じクラスなんですよ。野球部とバスケットボール部と、あと陸上部があったのかな。でも掛け持ちの子がいっぱいいて、私も野球部でしたけど市の陸上大会に出て、砲丸投げで市の2位になりました。野球のほうは軟式で、優勝経験もなく、どこかの強豪校から声がかかるなんてこともないまま、自分の行ける高校へ行こうということで地元の南部高校へ進んだというわけです。

 そんな田舎の県立高校を出た私がオリンピックで投げられるんですから、当時、ほかの公立高校の人たちにも夢を持ってもらえるんじゃないかと思っていました。甲子園に出られなくても、東京六大学に進学できなくても、あきらめずに頑張っていたらこういう機会に巡り会うことができるんだと、そんなことを感じていた記憶があります。

 吉田はアンダーハンドから繰り出す、威力のあるストレートを武器としていた。高めに浮き上がるようなストレートを投じて、次々と三振を奪う。下から投げるピッチャーはまだ海外では珍しく、国際試合では吉田の球筋に慣れないスラッガーが空振りを繰り返した。

 私の真っすぐ、当時からすれば、かなり速かったみたいです(笑)。だからキャッチャーも困った時のサインはいつも真っすぐでした。私もかなり向こうっ気の強い方でしたから、真っすぐはインコースの高めをめがけて、どんどん投げ込みました。

 アンダースローで投げるようになったのは高校3年生になる前です。高校2年の秋、延長18回を投げて疲労骨折をしたあと、しばらく投げられずにいたんですけど、ようやく治ったと思ったら、当時の監督が「よし、今日からお前は下から投げてみろ」と言うんです。「上から投げてダメだったんだから、今度は下から投げるしかないだろ」と……じつは私の高校の先輩に阪神タイガース、南海ホークスでプレーしていたアンダースローの上田次朗さんという方がいましてね。ちょうどその頃、阪神で活躍されていたので、監督にはそのイメージもあったのかもしれません。

 ただ、私にはその投げ方が合っていたようなんです。アンダースローで投げるようになってからは一度も故障したことがありません。晩年、右ヒジはくの字に曲がってしまいましたけど、それは投げる時には何の影響もなかったので、気になりませんでした。上田さんのほかに、阪急ブレーブスの山田久志さんの(ピッチングフォームの)分解写真を見たりしながら、見よう見まねで自分なりのアンダースローのフォームをつくっていきました。

 ロサンゼルス五輪、予選リーグ、韓国との初戦。先発した吉田は好投を続けた。日本が4回表に犠牲フライで奪った1点を、吉田は6回まで守り続ける。7回表、ワンアウト一、三塁のピンチで左腕の宮本に交代するまで、吉田は韓国打線をわずか1安打に封じ込めたのだ。

 オリンピックに出てきた国にアンダースローのピッチャーが誰もいなかったので、相手が私のピッチングスタイルに慣れていなかったということはあったと思います。ただ、私も逃げませんでした。相手のデータもないし、ぶんぶん振り回してくる韓国のバッターを相手に、インコースで勝負するのは勇気が必要なんですけど、それでも真っすぐを中心にインコースで勝負しました。インハイに真っすぐをどんどん投げ込んでおけば、アウトコースは私のあんまり曲がらないスライダーでも手を出してくれたんです。

 韓国に限らず海外のバッターというのは、右バッターだったらどんどん踏み込んできて、左足がどんどん前へ出てきます。そうするとアウトコースいっぱいに投げてもど真ん中になってしまうので、踏み込ませないようにインコースをかなり意識して使わなくちゃいけないんですけど、そのあたりは同郷の嶋田宗彦(箕島高校で甲子園を春夏連覇。

 当時は住友金属のキャッチャーで後に阪神タイガースに入団)がうまくリードしてくれました。アウトコースはストライクゾーンに投げる必要がありませんでしたから、インハイに速い真っすぐ、アウトローのボールゾーンにスライダー……この組み立てがちょうどいい緩急差になったんでしょう。韓国のバッターにはほとんど打たれませんでした。

 7回に守備のミスもあったりして一、三塁のピンチを迎えたら、松永監督がベンチから歩いてきて、「お疲れさん」の一言でボールを取り上げられてしまいました(苦笑)。私は自分の仕事を十分に果たしたと思っていましたから、「お疲れさまでした、ありがとうございます」と言ってマウンドを宮本くんに託しました。でも宮本くんも肩が痛いはずだったので「お前、投げられるのか」と言ったら、「投げているうちによくなってきたんです」と……ちょっと不安でしたけど、あとは任せたぞ、と彼に託してマウンドを下りました。

 宮本はこの回のピンチを凌いだ。しかし韓国は9回裏、ノーアウト一、二塁と宮本を攻め立て、日本は伊東昭光(本田技研)を投入する。ここでキャッチャーの嶋田が牽制で二塁ランナーを刺し、さらにツーアウト一塁からのセンター前ヒットで三塁を狙ったランナーもセンターの熊野輝光(日本楽器=現ヤマハ)が好返球で刺して、2−0でゲームセット。日本は韓国との初戦を制した。日本はその後、ニカラグアに勝って予選リーグ突破を決めた。そして、準決勝の相手はチャイニーズ・タイペイ――先発はまたも吉田に託された。

つづく

著者:石田雄太●文 text by Ishida Yuta