日本プロ野球「我が心の最良助っ人」
第5回 マーク・クルーン(横浜、巨人)

 1950年に創設された大洋ホエールズ時代を含め、ベイスターズで最初に大成功を収めた外国人ピッチャーといえば、2005年から2007年にかけて所属したマーク・クルーンではないだろうか。


来日1年目に当時日本最速となる161キロを記録したクルーン

 ことバッターに関していえば、山下大輔や田代富雄に多大な影響を与えたクリート・ボイヤーを筆頭に、ジョン・シピン、フェリックス・ミヤーン、レオン・リー、カルロス・ポンセ、ジム・パチョレック、R.J.レイノルズ、グレン・ブラッグス、そして1998年の日本一の立役者になったロバート・ローズなど、チームの顔となった外国人選手は枚挙にいとまがない。

 ところが外国人ピッチャーは、クルーンが現れるまでほとんど活躍することはなかった。強いて挙げれば、2003年に8勝したドミンゴ、2004年から2年連続して7勝をマークしたセドリックぐらいだろうか。

 だがクルーンは、長い四肢から繰り出される快速球を武器にベイスターズに欠くことのできない存在となった。

 来日1年目の2005年4月30日の中日戦で、当時日本記録タイとなる158キロをマークすると、5月11日の楽天戦では日本記録となる159キロ。さらに7月19日の阪神戦で161キロを叩き出し、甲子園に訪れていた観衆の度肝を抜いた。

 この自慢の快速球はクルーンを語るうえで必要不可欠なものではあるが、それよりも重要とおぼしき出来事に、一時代を築いた”大魔神”佐々木主浩の薫陶を受け、新たなクローザーとして君臨したことが挙げられる。

 2004年にメジャーからベイスターズに復帰した佐々木は、以前と変わらずクローザーを任されていたが、次第にリリーフに失敗する機会が多くなり、2005年8月に地元・仙台での巨人戦を最後に現役引退した。

 その時、涙を浮かべてマウンドを降りる佐々木に真っ先に駆け寄ったのが、クルーンだった。

「僕にとってササキさんは、メジャーの成績を見てもわかるように憧れのピッチャーだった。アメリカ時代に知り合って、いろんな話をしてかわいがってもらった。日本に来ることになって、同じチームにササキさんがいるのはすごく心強かったよ。日本の野球や文化についてアドバイスしてくれたり、オフには一緒に食事やショッピングに連れて行ってくれたり、僕にとってはお兄さんのような存在だった。

 だから、ササキさんの引退試合は悲しかった。投げるたびに鳥肌が立ったし、マウンドからベンチに戻ってくる時は涙が出そうだった。僕は与えられた仕事をまっとうしようと、より強く思ったよ」

 アメリカでは結果を残すことができなかったクルーンだったが、佐々木の存在や当時監督だった牛島和彦のアドバイスにより急成長。ベイスターズには3年間在籍したが、145試合に登板して8勝8敗84セーブ、防御率2.82。リーグを代表するクローザーへと上り詰めた。

 クルーンはニューヨークのブロンクス生まれ。188センチの長身であり、髪の毛をコーンロウに編み上げ、キャップをやや斜めに被る出で立ちは、ヒップホップスターのようだった。

 なぜ、日本の野球にアジャストできたのかと尋ねると、クルーンは首をひねりながら、こう笑顔で答えてくれた。

「なんでアメリカではダメで、日本でうまくいったのか……実際のところ、よくわからないんだよ。ただひとつだけ理由を挙げるとすれば、僕は日本で野球をやるために生まれてきたのかもしれない。自然と日本の野球に合うんだよ。それしか言いようがないね。まあ、食べ物に関しては全然合わないんだけどね(笑)」

 クルーンの右肩には『信』と刻まれたタトゥーが彫られている。聞けば、来日する5、6年前に入れたものだという。

「漢字のタトゥーを入れて、その後、日本に来ることになるんだから不思議なものだよね。自分にとって”信じる”というのは大切なことなんだ。僕は治安があまりよくないブロンクスという土地で育ったんだけど、そこから出るには自分を信じ続けるしかなかったんだ。他人から信じてもらうには、それ以上に自分を信じなければいけない。この漢字にはいろんな思いが込められているんだ」

 その言葉どおり、日本でも自分を信じ抜くことで成功を収めた。

 ブルーのピンストライプのユニフォームがよく似合う選手であり、チームメイトの村田修一(現・巨人二軍コーチ)と内川聖一(現・ソフトバンク)から「タカユキ」というニックネームをつけられ、いつも笑顔を見せていた。

 その後、クルーンは巨人へ移籍するが、ベイスターズで過ごした3年間の記録と記憶は、球団史に残る外国人投手であったことは間違いない。

著者:石塚隆●文 text by Ishizuka Takashi