「令和に語る、昭和プロ野球の仕事人」 第15回 白仁天・後編 (前編から読む>>)

 個性あふれる「昭和プロ野球人」の過去のインタビュー素材を発掘し、その真髄に迫るシリーズ。1960年代に韓国から日本のプロ野球入りを目指した白仁天(はく じんてん、ペク・インチョン)さんにとって、当時の時代背景もあって、その道のりは平坦ではなかった。

 台湾で開催されたアジア野球選手権からの帰路、立ち寄った東京で、東映(現・日本ハム)と電撃的に仮契約を結んだ白さんは、韓国政府要人の口添えもあって、ようやく入団を果たす。そして日本で首位打者などの実績を残したあとは、韓国プロ野球の黎明期に大きく貢献。インタビューでは、日韓をつなぐ野球人としての熱い思いが語られた。


1969年、大杉勝男のサヨナラ安打で豪快に生還する白仁天。元スケート選手で脚力も高かった(写真=共同通信)

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「(東映と仮契約した)あのとき、知り合いの人が前に交渉してたんです。『僕はどの球団でも構わない、お金の問題じゃない』と言ってて。でも、仮契約のことがすぐにマスコミに広がって大変でした。戻ったら大勢の記者がうわっと入ってきてて、バンバン写真撮られて。嫌になってバーンとホテルを飛び出してね、日比谷公園の前まで走って逃げたわけですよ。はっはっは。

 韓国選手団にも、何も言ってなかったんです。選手も、監督も、一緒にいた大韓野球協会の会長も、誰も知らなかったですよ。だから、監督と会長から怒られてね」

 韓国球界としては、代表チームの攻守の要を日本に渡すわけにはいかなかった。一方で当時の韓国は、61年5月に軍事クーデターが起きて以降、軍政が敷かれていた。このクーデター政権は危機的状況にあった経済の再建を目指し、日本からの資金を必要としていたため、日韓の関係改善を推進していく。そうした政治的な背景もあったなか、白さんの日本プロ野球入りが実現することになる。

「李さん、李周一(イ・チュイル)さんいう、軍事政権の最高会議の副議長。この人が、会長と監督と僕ら選手を何人か呼んだんですね。アジア大会で非常に活躍した、いうことで。そのとき、李さんが『何か希望はあるか? 私ができることはなんでもやってやるから』と言うたわけです。日本の新聞を見て、知ってたんでしょう。

 これはチャンスだな、と思って、『僕は日本のプロ野球に行きたいんです。絶対どんなことあっても、日本の選手と同じような選手になりたい。覚悟はできてますから、行かしてください』と。そしたら、会長と監督、慌ててましたわ。はっはっは」

 白さんによれば、大韓野球協会の会長は「これからの韓国の野球のためにも、こういう選手が外国に出るのはあかん」と言った。すると、李副議長が会長に向かって言った。「あんた、考えが間違っとる。どんどん出さんとあかん。まず行って、勉強してきて、後輩たちに教えてもいい。たとえダメでも、いろんなこと勉強してこられるじゃないか」と。

「それで李さんに『できるんかい?』って聞かれたから、『できます。契約もしてきました』と答えたら、『あ、そう』言うて、決まったんですよ」

 この面談のあと、李副議長は、白さんの日本プロ野球入りを国民がどう思っているか、世論を調べたという。結果、大多数が支持している、とわかったそうだが、いわば、国中を巻き込んだ末の東映入団だったのだ。

「李さんに会ったのが1月半ばで、2月の22日に日本に来て。だからものすごく慌ただしくて、羽田にパッと降りたら、カメラのフラッシュがまぶしくて大変ですわ。あれ、100人ぐらいいたのかな。急に怖くなったですね。俺、すごいことしちゃったな。先が見えないのに、あんまりにも自分が先走りしたんじゃないかと。ホント、怖くなって。それからもう今度ね、毎日、悩みですわ」

 目標に向かって猛進してきた印象のある白さんにして、「悩み」とは意外に感じる。が、そこは慣れない環境と、まだ20歳前という若さもあったのだろう。実際、入団1年目は言葉や食事の違いなどで苦労したこともあり、「あっという間に1年が過ぎて」一軍出場の機会は得られなかった。それが2年目の6月、主力捕手の相次ぐ故障離脱によって、一軍から声がかかる。

「ホーム球場の場合、二軍のキャッチャーは一軍の練習を手伝いに行くんです。だから、その日もミットだけ持って行ったんですね。そしたら、監督の水原茂さんに『おい、白。打ってみなさい』言われた。なんだこれ、夢じゃないかな、思って。

 普段はバット振ったりしてたら怒られるから、バット持って来てないし。それで張本さんに借りて打ったら、水原さんが『おまえ今日、試合出るよ』と。試合に出る? 何言ってるんだろう。なんで? どういうことだ? とボーッとして」

 63年6月26日、神宮球場での対南海戦。0対7と劣勢の7回、白さんはスタメンの丸山公巳(まさみ)に代わって捕手として出場し、ついに念願の日本プロ野球デビューを果たした。

「最初、ピッチャー投げたとき、ミットに入っとるんですけど、入ってないような気がして、ハッと後ろ見たんです。でも、ちゃんとボールはある。そしたら審判がびっくりして、『おい、白。何しとんの?』言うたんで、『いや、なんでもない』言うてから、これ、夢かな、思って、足を後ろにずらして、スパイクで審判の足を蹴ったんです。

 そしたら『あいた! 何しとるの?』『あ、すいません』。ああ、これ、夢じゃないな、って。自分で確かめたわけです。なんでそこまでやったか言うたら、僕は日本のプロ野球、1試合でも出ればやめてもいいと。出るのが夢で、目標だったからですよ」

 1試合でやめるどころか、白さんはその年、20試合に出場。翌年にはレギュラー格となり、65年には14本塁打。外野に転向して2年目の67年には初めて規定打席に達して打率.280。長打力があって、足があって、率も残せる中距離ヒッターとして、入団7年目には東映打線の3番を任されるまでに成長を遂げている。日本でやっていける、と自信をつかんだのはいつ頃だったのか。

「リーグは違ったけど、オープン戦で長嶋さんと一緒に野球できたときですね。たまたま、移動のときに駅のホームで会ったんです。僕はそこで韓国での話をしたんですよ、中学生のときに雑誌で写真を見ていた話を。

 そしたら長嶋さん、『あっ、そう。いやあ、それは素晴らしいね』言うて。ものすごい僕を褒めてくれてね。『いやあ、しかし今年の白はホントいいよ。もう絶対、3割打てるよ』って言われて。で、僕はその年に初めて3割を打ったんです。えーと、あれは何年だったか......」

 入団11年目の72年、白さんは自身初の3割超えとなる打率.315を記録。しかも19本塁打、80打点はいずれもキャリアハイで、33二塁打はリーグトップ。長嶋が"予言"したとおりに好成績を残していた。

「自分が好きで尊敬する人がそう言ってくれたら、信じてしまうんですよ。これが自分を信じること、自信いうものじゃないですか? だいたい当時の長嶋さん、スターなのはもちろん、僕らにとって神様みたいな存在ですからね。そういう人が認めてくれて、『打てる』言うてくれて、非常に自分には力になったから、まず第一に長嶋さんに感謝してるし、それで長く野球ができたんですね」

 白さんは日本で20年の現役生活を送り、実働19年で通算1831安打、209本塁打、212盗塁。太平洋に移籍した75年には首位打者のタイトルを獲得してベストナインに選ばれ、ロッテ時代の79年には.340という高打率を記録している。これだけの数字を残せた技術はどう磨かれたのか、尋ねようとすると、白さんはソファから身を乗り出して言った。

「僕ね、今日、あなたに会ったら聞こうと思ってたことあるんです。というのはね、僕は契約上は、日本人と同じようになっとったけど、韓国で生まれて韓国の学校を出とる。完全な外国人選手ですわ。でも、僕の記録、外国人の記録とは別になっとるわけ。契約と記録は、別じゃないですか?」

 僕は同意しつつ、文献資料の記述を想起した。ある本では白さんが〈外国人〉とされ、他の資料では〈日本人扱い〉となっていた。その点、白さんが兵役義務のため70年オフから帰国し、翌年は5月までプレーできなかった事情を踏まえると、記録上も「完全な外国人」とすべきではないか。

 となると、試合数や安打数は、歴代の来日した外国人選手のなかでトップになる(安打数は当時)。白さんの記録は、外国人の記録としてはこうだ、と明らかにする必要がある。

「そうなんです。これからも韓国の選手がいっぱい日本に来るだろうから、そういうふうにやらなあかんと思ったんですね」

 そうだったのか......。白さんは韓国出身の後輩選手たちのために、記録の扱われ方について考えていたのだ。81年に在籍した近鉄を最後に帰国し、82年の韓国プロ野球創立に参加した野球人とすれば、当然なのだと思う。

「韓国におるときは、日本のプロ野球が夢だった。日本でやってるときは、今度、韓国にプロ野球がいつできるかな、いうのが夢になった。いざできたら、最初は迷ったんです。で、日本におる友だちに相談したら、『もし韓国に行ってダメだったら、また日本に来たらいいじゃないか』言われて行ったんですよ。

 でも、自分の性格的に、突入したらもう終わりなんです。戻ることは考えられなくなる。プロ野球いうもんを知ってる自分が、なんとか先頭に立ってやらんとあかんと思ってね、それでもう一生懸命やりましたよ」

 初年度の白さんはMBC(現・LG)に在籍し、プレーイングマネージャーになった。同年は年間80試合制ながら、選手としては驚異的な打率.412、夢の4割を記録している。

「うーん。それはしかしね、なんで4割打てたか言うたら、まず野球のレベルが違う。ただ、レベルが違っても、どんなピッチャーでもヒット打てるもんじゃないんですね。だから、いちばんそのときに僕がよかったのは心ですわ」

 言うと同時に、白さんは何かをつかむようにして丸めた右手を胸に当てた。

「心、心技体の心ですね。スポーツをやる人は、心がいちばん大事である。これは何か言うたら、まず、自分は何をやろう、と思う気持ちですね。絶対これはやるんだ、という気持ち。僕だったら、小さい頃から野球が好きで、どんなことがあっても野球やって成功するという気持ち。中学生のときの気持ちを貫き通したわけです。

 自分一人の力じゃどうしようもないこともありましたよ。でも気持ち、心は変わらんかった。で、もしも心が曲がっていたら、技術、体力がなんぼよくてもダメ。夢は叶わなかったでしょう。なんでか言うと、体力がなかったら技術を磨く練習もできない。その体力をつくるのは、自分はどんなことあってもやるんだ、という気持ちなんですね。それがあれば我慢して、耐えてやっていける」

 目標に向かって揺れ動かない心。それがあって初めて体力ができて、技術も覚えられる。これは日本のプロ野球を目標にして始まり、成功した白さんの野球人生そのものだろう。

「だから、心技体の3つがそろわんと、野球でも本当のプロになれん、いうこと。これを自分が日本で実際に経験したから、韓国で監督になったときにね、選手に伝えることができた。今こっちに来てるイ・スンヨプなんかでも、まったくそのとおりにやってたんですよ」



取材当時の白さん。日韓のプロ野球を熟知する貴重な野球人だ

 話はそれからイ・スンヨプとの出会いへとさかのぼり、白さんの指導を受けてホームランバッターに成長していく過程が解説された。その原点は「下がっていたバットの位置を高くすること」だったそうで、僕は解説を聞くほどにひとつの言葉に思い当たっていた。 

 韓国から日本のプロ野球に飛び込んで成功した白さんが帰国し、母国のプロ野球発展に貢献するなか、監督となって指導したイ・スンヨプが韓国を代表するスターとなった。そのスターが今は日本で活躍している──。ならば、白仁天=ペク・インチョンには[日韓プロ野球の架け橋]という言葉がふさわしい、と。

 では、その野球人の目に、決勝まで合計5試合も行なわれた第2回WBC日韓戦は、どのように映っていたのだろうか。

「僕が韓国の選手と日本の選手を見た場合に、力の差いうのは確かにあるけど、あそこまで行ったら力じゃないです。気持ちの差なんです。最初、日本の選手はちょっと気持ちが浮いてたと思う。まだ必死になってなかった。韓国は、『ウチは日本に勝てっこない。しつこくやろう』という気持ち。で、パッとやってみたら、三度目にね、反対になったわけ。

 日本の選手が『これは絶対、ナメたらあかん』いうふうに変わって、それが五度目の試合、決勝の結果につながった。だから、これから韓国が日本と戦う場合には相当、心の持ち方が変わってくると思うんですよ。だって、韓国は負けたわけですから。自分たちで反省して、気持ちも入れ替わるでしょう。ということは、次はもっといい勝負するんじゃないかな。ね?」

 日韓を熟知する野球人の言葉だから、リアリティーがある。これから、韓国のプロ野球がよりよく変わっていくとしたら、どう変化するだろうか。

「今度のWBCでは韓国の若い選手がかなり自信をつけてきとるから、野球レベルをアップさせて、ファンたちを喜ばすプレーができると思うんですね。ということは、国際大会でつかんだものを持っておるだけじゃなくて、自分たちのチームで、球場で見せてやらんとね。そしたら、後輩たちみんなの刺激になるだろうし。

 で、何よりよかったのは、子供らです。今、韓国のスポーツ店ではグローブが売り切れなんですよ。WBCで子供らに夢を持たせてくれたんです。これは優勝した日本だってそうでしょう。韓国も日本も、子供らに夢を持たせたんですよ」

 そのとき、部屋に備え付けの電話が鳴った。白さんは韓国語で話しているから、おそらくは韓国のテレビ局の人なのだろう。気がつけばもう12時前、球場入りの時間が迫っていた。僕は長時間になったことを詫びて、手早く帰り支度を始めた。

 白さんは晴れやかな顔で「韓国に来ることがあったらいつでも連絡ください」と言って、僕をドアの外まで見送ると、右手を差し出した。出迎えてくれたときよりもずっと力強く、固い握手だった。 

(2009年4月4日・取材)

著者:高橋安幸●文 text by Takahashi Yasuyuki