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【頭がい骨を骨折しても決してひるまなかった】

――さて、前回に続いて今回もヤクルト時代のチームメイト・角富士夫さんとの思い出話を伺っていきたいと思います。前回のラストで「忘れられないプレーがある」とおっしゃっていました。ぜひ、その話を教えてください。

八重樫 あれは、土橋(正幸)監督時代のことだったから、1980年代の半ば頃のことだったと思うんだけど、角がサードを守っていた時に、ちょうど打球が芝生と土の境い目で跳ねてイレギュラーしたんです。それが、運の悪いことに角の頭に直撃して、角は倒れて、そのまま病院に運ばれました。


1993年の日本シリーズで、西武の平野謙(左)と談笑するヤクルトの角富士夫(右)

――その後すぐに手術をして、しばらくの間欠場した時期がありましたね。

八重樫 あの時、土橋さんは「角、これぐらい大丈夫だよな?」って言って、ボールが当たった箇所を何度も押したんですよ(苦笑)。でも、トレーナーの勧めで急いで病院に行ったら、当たり所が悪かったみたいで、頭がい骨骨折ですぐに手術。かなり大きな手術だったみたいで、しばらくの間、アイツの頭の中には鉄板が入っていましたね。

――それにしても、「大丈夫だよな?」って、患部を押すのはマズいですよね(笑)。確かに、土橋さんっぽいですけど......。それからどうなったんですか?

八重樫 土橋さんが「大丈夫だよな?」と言っている時は、僕も近くで聞いていたんだけど、「何言ってんだ」と思ってましたよ(笑)。でも、1カ月もしないうちに復帰しました。その後も、どんなに強い打球でも決して逃げることはなかったですね。その姿は立派だったし、「さすが九州の男だな」って感じたんです。

【広岡達朗は角の実力を認めていた?】

――広岡達朗元監督は、水谷新太郎さんをショートとして徹底的に鍛え上げたというお話は聞きました。同時代の角さんに対してはどんな指導をしていたのですか?

八重樫 遠征先で、試合後宿舎に帰ってきてからの練習でも、角も水谷と一緒にゴロ捕球の練習をしていました。でも、気がつくと角の姿はなくて、水谷だけがひとりで黙々とゴロを捕り続けているんです。感覚的には水谷の半分程度の時間で、「角はもういいぞ」と言われていた感じなんだよね。

――広岡さんの求めるレベルに対して、角さんは難なくクリアして、水谷さんはなかなかクリアできなかったということですか?

八重樫 僕もびっちり練習を見ていたわけじゃないから、わからないな。広岡さんの中には「角はもう大丈夫だ」という思いがあったのか、それとも「水谷はもっともっと厳しく接しよう」という思いがあったのか。それは定かじゃないけど、いずれにしてもそういう思いはあったんじゃないかな。

――広岡さんによる「試合後のゴロ特訓」は他には誰かいたんですか?

八重樫 徹底的にしごかれていたのは水谷で、その後が角で、他には羅本(新二)とか、松崎(泰治)とかいましたけど、羅本とか松崎は一軍にいる時期が短かったから、やっぱり、水谷と角がいちばん鍛えられたんじゃないかな?

――広岡さんの角さんに対する評価はどうだったんですか?

八重樫 バッティングに関しては、そこそこいいものを持っていたから、期待はしていたと思いますよ。それ以上に守備は安定感があったし、バントもうまかったですから、監督としては使いやすかったと思うし、広岡さんの好きなタイプの選手ではありましたね。だから、広岡監督時代に角は出場機会が増えていったし、その後の歴代監督にとっても頼りになる選手だったと思います。

――前回お話に出たように、レギュラーポジションをつかんだと思ってもすぐに、サードに新外国人を獲得する。そんなことが繰り返されても決して腐らない。それでいて、地味な役割もしっかりこなす。それは監督としては使い勝手のいい選手ですね。

八重樫 だから、プロ20年間、38歳まで現役生活を続けられたんでしょうね。性格は穏やかだったけど、内面では九州男児のたくましさもあったし、監督としてはとても助かる選手だったのは間違いないです。

【広岡監督、野村監督時代を知る者同士として】

――1994年限りでの現役引退後は指導者へと転身しました。基本的には「内野守備・走塁コーチ」でしたね。

八重樫 角とは二軍で一緒に指導者として活動したけど、コーチになってから少しだけ性格に変化が見られたんです。現役時代は決して怒らず、いつも穏やかなタイプだったのに、指導者になってからは少しずつ怒るようになったんですよね。

――言うことを聞かなかったり、伸び悩んでいたりする若手選手に喝を入れたり、気合いを入れたりするためですか?

八重樫 僕も経験があるけど、コーチになったばかりというのは「何とかこの選手を一人前にしたい」と真剣なのに、その思いに選手がついてこられないと、もどかしくて、ついつい大声を出したくなるんです。真面目な指導者こそ、そうなりがちなんだけど、必ずしも「熱血指導」がいいわけじゃないから、選手によって接し方を変えていく必要がある。コーチになったばかりの角が大声を出したり、イライラしている姿は印象に残っていますね。

――確かに選手の個性に応じて、熱血指導を試みたり、淡々と諭すようにしてみたり、アプローチの方法を変えていく必要はあるでしょうね。具体的にはどんな選手を指導していましたか?

八重樫 コーチ一年目は、確かにイライラしている様子だったけど、二年目ぐらいからは落ちついてきましたよね。角が熱心に指導していたのは笘篠(賢治)でしたね。新人だった関根(潤三)監督時代には出場機会が多かったけど、野村(克也)さんが監督になってからはだんだん出番が減っていった。でも、角は「笘篠を何とかしたい」という思いで、一生懸命に指導していましたね。

――以前、笘篠さんから伺いましたが、野村監督と笘篠さんとの間には「野球観の相違」というのか、確かに確執があったようですね。

八重樫 当時、僕が二軍監督だったんで間近で見ていたんだけど、角は常に「笘篠を何とかしよう」という思いで頑張っていましたよ。でも、結局は広島に移籍することになってしまったんですけどね。あれは残念でした。

――角さんも八重樫さん同様、広岡監督時代、野村監督時代に優勝を経験しました。年齢もキャリアも5年の差はありますが、やっぱり角さんに対しては「同時代の仲間」という感じなんですか?

八重樫 確かに5歳の差はあるけど、角との仲間意識は強いですね。1978(昭和53)年の広岡さん時代、1992(平成4)年、93年の野村監督時代、ともにリーグ優勝と日本一を経験していますから。僕らの中には「広岡さん時代も、野村さん時代も優勝経験があるんだ」という自負があります。現役時代はいつも外国人とのポジション争いを強いられていたけど、それでも、プロで20年間も貴重な戦力として活躍できたというのは立派だったと思いますね。

(第76回につづく)

著者:長谷川晶一●取材・文 text by Hasegawa Shoichi