連載「斎藤佑樹、野球の旅〜ハンカチ王子の告白」第54回

 プロ10年目を迎えた斎藤佑樹。その春を早大のチームメイトだった大石達也は現役として迎えることができなかった。ともに早大を支え、チームを大学日本一へと導いた先発の柱・斎藤と、抑えの切り札を務めた大石。東京六大学のリーグ戦で217の三振を奪った大石はドラフトで6球団競合の末、1位でライオンズへ入団。六大学史上6人目となる通算30勝、300奪三振を達成し、4球団が競合した斎藤は1位でファイターズへ入団した。最後にキャッチボールしようよ──斎藤は引退を決めた大石に、そう声をかけた。


早稲田大でチームメイトだった斎藤佑樹(写真左)と大石達也 photo by Sankei Visual

【キャッチボールしようよ】

 大石とのキャッチボールを映像に残しておきたかったんです。だからプロのカメラマンの方にお願いして、室内練習場で映像を撮ってもらいました。

 大石と最初にキャッチボールをしたのは大学1年の時だったと思います。僕の相手はずっと福井(優也、早大で同学年のピッチャー、ドラフト1位でカープに入団)だったんで、どのタイミングだったのかは覚えていないんですが、大石は最初、野手をやっていたので(福岡大大濠高出身の大石は甲子園とは無縁、大学に入学する際にはショートとして期待されていた)、あまり彼とは一緒にキャッチボールはしていませんでした。

 たしかに、大石の球筋はきれいだなとは思っていました。でも、そういう選手はたくさんいましたし、大石も150キロを投げていたわけではなかった。

 それが1年の秋、ピッチャーに専念することになった大石が試合で投げたら、バッターが真っすぐにバットを当てられないんです。僕は変化球で空振りを取っていたのに、大石は真っすぐで空振りを取る。どんな真っすぐを投げているんだろうって......急に気になりました(笑)。

 大石は感覚派なんです。ずっと年に2、3度は食事に行っていましたが、そういう時に「投球フォーム、見せてよ」って言うじゃないですか。それはもちろん食事の席で見せてくれという意味じゃなくて、自分のスマホでピッチングフォームの動画を見返すのって結構みんなやるじゃないですか。でも大石はそういう動画を一個も持ってないんです。。

 やっと見つけたと思ったら、軽ーいキャッチボールの動画で、これじゃ、全然、わかんないよって(笑)。でも大石は「オレは感覚でやっている人間だから、それでいいんだ」と言っていました。そういう考え方ができるのって、羨ましいですよね。シンプルに考えられれば頭の中がクリアになるんだろうなと思うんです。僕は多角的に状況を捉えて考えたいので、さまざまな要素が頭の中に並んで、何が原因なのか見えなくなることもよくありましたから。。

 大石が引退した時、周りから「大石くんがやめたね」ってよく言われました。そういう時、何て言えばいいんだろうって思っていました。「よく頑張ったよ」なんて言えないし、「僕も頑張ります」としか言えなかった。

 僕は自分のことで必死だったし、大石もそうだったと思うんです。ただ、大石は僕よりも先に次へのスタートを切った。それを僕は、何かの節目だと感じたんです。

 もともと僕は昔のことは気にしないタイプなんですが、時々、ポンと自分の気持ちが熱くなる瞬間が来るんです。もう、大石とはプロ野球選手として一緒に野球をすることはないんだと思ったらキャッチボールをしたくなった。だから大石にLINEで訊いたんです。キャッチボールしようよって。そしたら、「ああ、いいよ」って返ってきたんで、最後のキャッチボールをすることになりました。

 それにしてもキャッチボールの時に大石が投げていたボール、引退するならもう使わないんだから、そのままそっくりオレにちょうだい、と思いましたよ。アニメにあるじゃないですか、そのパーツだけもらう、みたいな(笑)。大石の真っすぐ、低いところから筒の中をシューッと通って、ポンッと出てくる感じなんです。シューッ、ポン、シューッ、ポンって......そのきれいな真っすぐ、オレにドッキングしてくれと、本当にそう思いました。

 あの時の大石はキャッチボールですからスピードはそれほど出ていなかったと思いますが、トラックマンでいうところのエクステンション(ピッチャーがボールをリリースするときのプレートからホームベース方向へのリリース位置までの距離)の数字がかなり大きいと感じたんです。

 つまりリリースポイントがバッターに近くて、とくにフォーシームが特徴的でした。いかにもバッターが芯で捉えにくそうな球筋で、「僕にこのフォーシームがあったら......」と野球の神様にお願いしたくなったほどです。

【今も忘れない失望感と焦り】

 そして迎えたプロ10年目、まさかの新型コロナウイルスの感染拡大によって開幕が延期になります。あの期間、ファイターズは鎌ケ谷組と札幌組とに分かれて自主練習になりました。

 僕は鎌ヶ谷組でしたが、ユニフォームを着ることもなく、ジャージのまま、可能な限りの練習を続けていました。コーチもキャッチャーもいない、トレーナーさんは交代でいてくれましたが、基本は個人練習です。ブルペンで投げたい時は事前に伝えて、キャッチャーの誰かとスケジュールを調整するという感じでした。

 そんなある日、僕はブルペンで投げたくてキャッチャーの方に確認してもらったら、石川亮(現在はバファローズ)が受けてくれることになりました。で、僕はジャージのまま、ブルペンに入って、スッと何気なく投げたんです。

 そうしたら、「うわっ、この感覚、いつかのタイミングに似てるな」と......そう、その時の感覚がメチャクチャよかったんです。それこそ高校や大学の時の、肩甲骨がすごく下に落ちていて、肩が上がっていない感じ。力みなく、下にストンと落ちながらそのままストーンと投げられました。「そうだ、これだ」と思いました。

 この感覚はずっと戻らなくて、もうできないんだろうなとあきらめていたのに、「いやいや、こういう動き、今のオレにもできるじゃん」とビックリしたんです。ケガに苦しんでいろいろと模索してきた答えが、このコロナ禍の状況で来るのかと思いました。

 それはネガティブな意味ではなく、この時間を使って思ってしっかり固めようと思えたんです。その2日後、ブルペンに入ったらまたいい感じで、「よし、これは継続できているぞ」とうれしくなりました。

 ところが、その次のブルペンの時、その感覚がどこかに消えて、まったくできなくなってしまいます。きっと感覚だけに頼り過ぎていて、なぜそれができたのか、メカニックをしっかり理解していなかったからなんでしょうね。あの時の失望感と焦りは、今もハッキリ覚えています。

 それからはいったん戻った感覚を何とか取り戻したくて、あれこれ模索しているうちにヒジの張りが強くなりました。ただ、この時も痛みと張りの区別がつかなくて、いい感覚を取り戻すにはボールに指がしっかりかかっていなければダメだから、ある程度の張りはいい兆候なんだと思うようにしていました。パチンと指にかかる時って、右手の小指と薬指がキュッと閉じたまま、尺側手根屈筋がいい感じで働いてくれているんです。だからヒジが張るのはその筋肉が使えているからだと考えていました。

 でも、そうではなかった。ヒジの張りは治りませんでした。そのうち、これは張りではなく痛みなのかなと考えざるを得ませんでした。

 いま思えば、ヒジの痛みは僕の投げ方から来ていたんだとわかります。MER(肩の最大外旋位)における角度をどこまで出せるのか、ギリギリのところのフォームを会得して、なおかつ納得のいくボールを投げる......それができなければ、ヒジを痛めてしまうか、プロでは戦えなくなります。

 僕はMERの角度が出せないまま、ヒジをしならせることだけに頼るフォームで投げ続けて、ヒジに負担をかけていた。それがヒジの痛みにつながってしまった、ということです。

*     *     *     *     *

 コロナ禍、開幕が6月19日にずれ込んだ2020年のプロ野球。斎藤に1軍での登板のチャンスはやってこなかった。2軍では19試合に登板し、1勝3敗、防御率9・31という厳しい数字が残っている。その最後となった10月16日、イースタン・リーグのジャイアンツ戦で、長く苦しみ続けたプロ野球人生、最後の悪夢が、斎藤を襲うことになる。

次回へ続く


斎藤佑樹(さいとう・ゆうき)/1988年6月6日、群馬県生まれ。早稲田実高では3年時に春夏連続して甲子園に出場。夏は決勝で駒大苫小牧との延長15回引き分け再試合の末に優勝。「ハンカチ王子」として一世を風靡する。高校卒業後は早稲田大に進学し、通算31勝をマーク。10年ドラフト1位で日本ハムに入団。1年目から6勝をマークし、2年目には開幕投手を任される。その後はたび重なるケガに悩まされ本来の投球ができず、21年に現役引退を発表。現在は「株式会社 斎藤佑樹」の代表取締役社長として野球の未来づくりを中心に精力的に活動している

著者:石田雄太●文 text by Ishida Yuta