高山郁夫の若者を輝かせる対話式コーチング〜第4回

 オリックスのリーグ3連覇を陰で支えた投手コーチ・高山郁夫さんに指導論を聞くシリーズ「若者を輝かせるための対話式コーチング」の第4回。今回は東京の不動産会社で働いていた高山さんがNPBに復帰するきっかけになった、独立リーグでの1年間について振り返る。


愛媛マンダリンパイレーツからソフトバンク入りを果たした西山道隆 photo by Sankei Visual

【独立リーグでの1年】

── 高山さんは2005年に四国アイランドリーグ(現・四国アイランドリーグplus)の愛媛マンダリンパイレーツでコーチを務めています。就任の経緯はどんなものだったのでしょうか?

高山 四国アイランドリーグを設立した石毛宏典さんはプリンスホテル、西武の大先輩なのですが、リーグを立ち上げる前から「コーチをやれるか?」と聞かれていました。行くかどうか迷ったのですが、やっぱり野球が好きなんでしょうね。やってみたかったんです。最後は妻を説得して、単身赴任で愛媛に行くことにしました。

── 独立リーグでの指導はいかがでしたか?

高山 いい1年でした。球団も創設されたばかりで、環境は地元の大学、社会人よりも悪かったと思います。施設、食生活も「どうなのかな......」と思う部分はありました。ただ、それ以上に選手たちがとにかく純粋で、かわいかったですね。私が言うことも真剣に聞いてくれました。

── 同年には教え子の西山道隆投手がソフトバンクから育成ドラフト2位で指名され、四国アイランドリーグから初のNPB選手になりました。

高山 西山はその時点で大卒4年目の年齢でした。彼にとってNPBの挑戦はラストチャンスだったと思います。ボールは速いのですが、上体がそっくり返って、カカト重心になりコントロールが不安定で。「1球1球、漠然と投げる子だな」と感じていました。全部のボールが悪いわけではないし、球速は150キロを超えている。当時の独立リーグの打者なら抑えてしまうのですが、社会人チームにはボコボコにやられていました。すると、西山が「どうしたらコントロールがよくなりますか?」と聞いてきたので、一緒にフォーム修正に取り組むようになりました。

── 具体的には、どう直していったのでしょうか?

高山 当時の彼は、上半身と下半身が連動しない投げ方をしていました。最後にカベをつくって、腕を走らせるような感覚もなく、力が流れてしまうと言っていました。そこで、「左足を一歩クロスするようにステップして、左肩の開きを我慢してみようか?」と提案しました。もちろん、クロスステップすることのデメリットもあるのですが、まずはカベをつくることを優先したんです。すると、テイクバックがコンパクトになり、カカト重心も改善されました。その結果、球威を落とさず、ある程度コントロールできるようになったんです。

── 課題だったコントロールが改善されて、ドラフト指名につながったのですね。

高山 ただし、どうしても右バッターのアウトコース低めのストレートが、シュート回転してしまう弊害がありました。今度はカベをつくったまま、ステップを真っすぐにして、アウトローへストレートが投げられるか......と取り組んでいきました。

【ソフトバンク二軍投手コーチに就任】

── 西山投手はソフトバンクでは1年目に支配下登録を勝ちとり、一軍未勝利ながら通算4回先発登板するなど存在感を見せました。

高山 いいピッチングはしたんですけど、勝ち星はつけられなかったですね。時間をかけてフォーム修正に取り組んで、チャンスももらっていたのですが......。でも、西山はあの年齢からNPBに行って、よく頑張ってくれたと思います。今も裏方として活躍していると聞いて、大変うれしく思っています。

── 高山さん自身も翌2006年にソフトバンクの二軍投手コーチに就任しています。これはどんなオファーがあったのでしょうか?

高山 当時、ソフトバンクの二軍が四国遠征に来ていて、二軍監督だった秋山幸二から電話があり、ふたりで食事をしているなかでコーチのオファーを受けました。うれしかったのですが、同時に不安と緊張が走ったことを覚えています。

── 秋山さんとは、どんな関係だったのですか?

高山 彼とは西武、ダイエー(現・ソフトバンク)でチームメイトとしてプレーしていました。秋山はスター選手で私は二流選手でしたが、同い年ということもあり、野球観が近くてプライベートも本音で話せる仲ではありました。

── 次回はソフトバンク投手コーチ時代のお話をお聞きしていきます。

高山 わかりました。よろしくお願いします。

つづく


高山郁夫(たかやま・いくお)/1962年9月8日、秋田県生まれ。秋田商からプリンスホテルを経て、84年のドラフト会議で西武から3位指名を受けて入団。89年はローテーション投手として5勝をマーク。91年に広島にトレード、95年にダイエー(現ソフトバンク)に移籍し、96年に現役を引退した。引退後は東京の不動産会社に勤務し、その傍ら少年野球の指導を行なっていた。05年に四国ILの愛媛マンダリンパイレーツの投手コーチに就任。その後、ソフトバンク(06〜13年)、オリックス(14〜15年、18〜23年)、中日(16〜17年)のコーチを歴任。2024年2月に「学生野球資格」を取得した

著者:菊地高弘●文 text by Kikuchi Takahiro