サッカー海外組「外国でプレーしてみたら驚いた」話

現在、相当数の日本人選手が、欧州をはじめとした外国でプレーしているが、そこには言葉の壁も含め、数多くの見えないギャップや体験があることが想像される。それをどう乗り越えて、ピッチ上でいいパフォーマンスを発揮するのか。今回は2011〜12年にドイツでプレーした経験のある槙野智章氏に、当時の話を聞いた。

【動画】槙野智章氏の今だから話せる海外移籍裏話↓↓↓

【契約交渉で知ったこと】

 海外組は、必ずその壁にぶち当たる。

「文化ギャップ」

 これを乗り越えている。スタッツやフォーメーション図では、私たちが読み取れないものだ。

 ピッチ上での成功例は人それぞれだが、それ自体は日本サッカーにとっての財産となる。


槙野智章氏が自身がドイツでプレーした時の文化ギャップを語った photo by Ichikawa Yosuke

 2011年1月、槙野智章はドイツの地に降り立った。

 アルベルト・ザッケローニ監督率いる日本代表が、カタールでアジアカップを戦っている最中のことだった。自身は残念ながら左足首の負傷により、1月9日に離脱し、予定より早めにドイツ入りした。

 到着初日、槙野はホームスタジアムのラインエネルギーシュタディオンやその周辺の豊かな森林の風景を見て、決意を新たにした。

「ついにやってきたんだな」

 念願叶った欧州移籍。海外移籍の交渉段階では、新たに知ることも多かった。

「契約条項には現地での家賃、車のクラス、年間の日本との航空券代まで織り込むことができるのは、その時に知りました。住居については、日本から移籍した先輩たちから『最初の数カ月はホテル住まいになるよ』と聞かされていて、大きい荷物を持ってホテルに入ったのを覚えています」

 食事は、パンやパスタの主食へ切り替わったが「今思えば、最近の選手よりも少し食事に対する意識は低かったかもしれません」と、当時は大きく気にはかけていなかった。

 槙野にとって、より大きなものだったのは、出発前からたったひとつ、胸に秘めた思いだった。

「監督の求めるサッカーが何なのか。とにかくサッカーのことばっかり考えて向こうに入ったんですよ」

 ここでチームの力となり、そして生き残るという意気込み。加えて、新しい生活への期待感だった。

【柔らかいピッチの洗礼】

 しかし......ケルンでの初練習で槙野がぶち当たったのは、想像もしない壁だった。それもピッチでボールを蹴る前に起きた出来事だ。

「えっ? おまえ、やる気あんの?」

 槙野が持っていた固定式スパイクに、チームメイトの目線が突き刺さった。

「グラウンドがすごいぐじょぐじょで、ゆるゆるだったんですよ。みんな取替式のスパイクを履いていて......ヨーロッパの環境って、ものすごい綺麗な芝生がいっぱいあって...って想像していたんですけど、違った。日本ってめちゃめちゃ芝とか練習環境が整っていたんだなって。すごいなんか大きなショックというか......」

 ほかの日本人プレーヤーの多くもぶつかる、欧州の柔らかいピッチの洗礼だった。日本で育った槙野には、練習中から取り替えスパイクを履く感覚がなかった。

「雨の日の試合で、仕方なしに履くというチョイスをするものだと思っていました」

 しかも経験したことがないピッチでのトレーニングでは、思わぬ"副作用"もあった。

「1回の練習の負荷がかなりすごかったんです。下半身だけじゃなくて、上半身のところまですごくきた。『うわ、すごいキツイな』みたいな。ただそれは、自分が求めていたものでもありました」

 日本ではまったく経験したことのないものを知る。そういった点も求めて移籍を決意した。柔らかいピッチでの疲れも心地よいものだった。「体に対してどういう影響があるのか」と自分で確かめていくプラス思考で、ひとつずつ克服していった。

【自分はどんなプレーヤーなのか】

 初練習から数日後、槙野は監督からこう聞かれた。

「自分の特徴は何だ? 自分で言ってくれ」

 槙野は当時、フロント主導でケルンに加わっていた。だからなおさら監督のニーズを聞き、そして監督に自分を説明することが必要だと考えていた。監督が望み、監督主導で獲得された選手とは少し違う。その立場はわかっていた。

 欧州らしいエピソードでもある。現地では「自分は何者なのか」が徹底的に問われる。それを周囲に説明できないといけない。

 個人という存在が、日本の想像のはるか上の「尊厳のあるもの」と考えられているからだ。キリスト教は一神教で、個人があらゆるものを超越した神とつながっていると考える。だから自分自身も「めちゃくちゃすごい存在」となる(阿部謹也氏『「世間」とは何か』参照)。

 その個人が尊厳=個性をもって社会(サッカーならチーム)に、責任感をもって加わっていくのだ。

 槙野は、サンフレッチェ広島ユース時代は自チームの監督をして「同世代では誰も止められない」と言わしめ、トップチームでも昇格2年目からポジションを確保した。またU−20日本代表の時代から「調子乗り世代」の中心として知られた存在が、欧州の地で「何者か?」と問われたのだった。

 槙野は通訳を介して、こう伝えた。

「(サイドバックではなく)センターバックでやっぱり挑戦したいし、チームのコンセプトも含めてまだわかりきれていないけど、 残留争いという厳しい状況はわかっている」

 欧州で戦う厳しさを知る、リアリティのある言葉だ。

 槙野自身は「監督がやってほしいこと」と「自分がやりたいこと」のすり合わせだと考えていた。

 監督からは「チームは今、とにかく人数をかけて守ろうとしている」と言われた。基本的にはチャレンジ&カバーよりも、自分のゾーンのところのスペースを開けないでくれ、とも。さらに攻撃時にはボールを奪ったら、ビルドアップではなく、前線のミリヴォイェ・ノヴァコビッチやルーカス・ポドルスキに長いボールを入れて欲しい、という簡単な指示も伝えられていた。

 一方、Jリーグ時代のプロフィールを見た監督からは「なんでこんなに点を獲ってるんだ?」と聞かれ、「そういうスタイルだ。攻撃参加もするし、点も獲りにいく」とも答えていた。しかしそれも「今は、それはやめてくれ」と言われた。

 また、槙野には「自分が得意な角度でボール持った時に、必ず相手をはがせる動き」があった。しかし数日間の練習のなかでこれが通用せず「こんなに難しいんだ」と感じるところもあった。

 槙野は今でも、この時を含めた当時のことを「どうするべきだったか、わからない」という。

「今の自分だったら『自分のプレースタイルはこうだ』というのを言って、貫き通していたかもしれません。現在は海外でプレーをしている選手たちがたくさんいて、自分のプレーを出していく大切さもわかります。ただ当時は、まず自分のポジションを確保してから、自分のよさを出せばいいと考えていました」

【試合後に自分の考えを述べる】

 ドイツでの公式戦デビューは、かなり早い段階でやってきた。練習に合流して2、3日後に監督から「週末の試合、いけるか?」と聞かれた。

「そりゃいける、と答えますよね」

 槙野が合流した時のケルンは、2部自動降格圏ギリギリの16位にあった。5万人収容のホームスタジアムは毎試合のように満員になるが、1998−99シーズン以降は毎年のように降格・昇格を繰り返すような状態だった。

 デビュー戦の相手は、ザンクトパウリ。アウェーゲームだった。

「合流から5日後ぐらいだったかな。はい。しかも、めちゃくちゃ大事な残留争いしてる相手との対戦でした。ザンクトパウリがひとつ下の17位でした。しかもケルンはアウェーでこの相手にほぼ勝っていなかった、と聞かされていました」

 試合前日の夜、ザンクトパウリのホームタウン、ハンブルクに着いた。ホテルでの前日ミーティングでは、部屋を真っ暗にする時間帯があった。

「明日はこういう雰囲気で試合をやるんだぞ、って言われて、ザンクトパウリのスタジアムの雰囲気と音をミーティングルームでスクリーンに映し出したんですよ。ドクロのマークが有名なチームじゃないですか。そのマークもモニターに出して、音をガンガンかける。モニターのなかの世界は、ものすごい雰囲気でしたよ」

 そのデビュー戦は、0−3で敗れた。

 自分自身がどう考えているのか。それを問われる機会は、こういった試合後にも訪れた。

 監督がロッカールームを離れたあと、選手同士で「めちゃくちゃ熱く」話し合った。あのシーンはこうだった、どうだったという風に。

 その後、一人ひとりが「自分の意見を言おう」という話になった。槙野はメンバー全員の前でこう話したことを、よく覚えている。

「今日は戦術がバラバラで、戦う姿勢と気持ちが(プレーで)あまり見られなかった」

 ただし、「僕が話したのは最後のほうだったので、もう意見がほぼ全部出てたんですよ。みんなすでに言っていたことなんで、今さらまだ味方選手全員の名前がわかっていない俺が言っても、みたいな」

 それでも言うことが大事だった。ドイツでは黙っていることは「何も考えていないこと」「考えを言葉にする努力を怠っていること」を意味する。語らずして察してもらえるという以心伝心の概念は、あまり存在しない。

後編「槙野智章が考える『ミスを認めない、謝らない』の扱い方」につづく>>

槙野智章 
まきの・ともあき/1987年5月11日生まれ。広島県出身。サンフレッチェ広島ユースから2006年にトップチームに昇格。DFとして攻守に渡る活躍を見せ、2011年からケルン(ドイツ)、2012年から浦和レッズ、2022年にはヴィッセル神戸でプレー。J1通算415試合出場46得点を記録。Jリーグベストイレブンには3度選ばれた。日本代表では国際Aマッチ38試合出場4得点。2018年ロシアW杯に出場した。2022年の現役引退後は、タレント、解説者、指導者として活躍中。

著者:吉崎エイジーニョ●取材・文 text by Yoshizaki Eijinho