子どもを性暴力の被害者にも加害者にもしないことを目指し、政府は本年度から「生命(いのち)の安全教育」を全国の学校で始めた。人との関わり方や性暴力について、年齢ごとにまとめた動画などの教材を活用する。だが、具体的な性の知識は扱わず、時間数や内容も現場に委ねられており、専門家や教育現場からは実効性に疑問の声が上がる。

98年の「歯止め規定」が影響

 埼玉県内の小学校で性教育を担う養護教諭の女性(48)は「(生命の安全教育が)始まるのを知らない先生も多い。目の前の仕事に追われる中、性を扱うのは荷が重く、ノウハウもない。教材の内容を一通り紹介して終わりという人も多いと思う」と打ち明ける。

 生命の安全教育が具体的な性の知識を避けた内容になっているのは、1998年の改定で学習指導要領に記載された「歯止め規定」が影響している。小学5年の理科で「人の受精に至る過程」、中学1年の保健体育で「妊娠の経過」を取り扱わないと明記され、多くの教育現場で性交や避妊、中絶は教えられないと受け止められているのだ。

2000年代に処分された教員も

 実際、2003年に東京都立の養護学校での性教育が批判され、教員らが処分対象になった。2018年にも足立区立中学校で避妊や中絶を教えたことが都議会で問題視された。

 当時、足立区で授業を行い、今も現役で教える樋上典子さん(65)は「性教育を自由にできない風潮が続いている。生命の安全教育は、性器の名称や科学的な理解が含まれていない。性暴力は人権侵害であり、妊娠にもつながる可能性がある大変なことだと、どの程度伝わるか」と懸念を示す。

先進国で主流の「包括的性教育」

 性教育に詳しい白梅学園大の水野哲夫講師も「全県挙げて準備する地域もあれば、学校に丸投げの地域もある。性暴力を心構えで防ぐ内容で、性が否定的にとらえられかねない。正確な知識を与えない安全教育は無理がある」と指摘する。

 日本弁護士連合会や日本財団は政府に対し、先進国で主流の「包括的性教育」の導入を求める提言をしている。国連教育科学文化機関(ユネスコ)などが作成した手引に基づき、科学的な性の知識とともに、人間関係やジェンダー平等、多様性など幅広い範囲を発達に応じて学ぶ内容だ。

 5月に長崎市で開かれた先進七カ国(G7)保健相会合では、日本も包括的性教育の推進に取り組むことを宣言。今国会でも、性犯罪に関する法案審議で野党や専門家が性教育の重要性を強調したが、文部科学省は「学習指導要領に基づく着実な指導に努める」と説明するにとどめている。

生命(いのち)の安全教育

 2020年に決定された政府の「性犯罪・性暴力対策の強化の方針」に基づき、文部科学省などが年代別の予防啓発教材や指導の手引を作成し、本年度から全国の児童生徒に実施。幼児期から体の大切さを教え、小学生には嫌な思いをした際の対処法、SNSの注意点、中学生以降では恋人間の暴力などを指すデートDVなども取り上げ、発達に応じて自他の心身を尊重することを目指す。内容は文科省のホームページで公開している。文科省は「性に関する指導と重なる部分はあるが、目的が異なる」として性教育とは位置付けていない。