東日本大震災の中、生まれた命です。大阪に住む女性は12年前、出産のため宮城県に里帰りしていたところ、大きな揺れに襲われました。無事に生まれた男の子は12歳に。「人にやさしくできる大人になりたい」と話してくれました。
あの日生まれた男の子は12歳に
穏やかな表情で眠る赤ちゃん。

増川由梨さん(当時27):
「こんな日に生まれているから、強く育つと思います」

あれから12年。あの時の赤ちゃんは、小学6年生になっていました。
大阪府東大阪市に住む増川歓汰さん。学校から帰ると、まず宿題をするのが日課です。いま力を注いでいることを聞いてみました。

増川歓汰さん:
「体操、スイミング、トランポリンとかがんばっています。一番上のレベルまでいきたいです。(Qオリンピックとか?)いや…それはたぶん、いかないと思います」
とにかく体を動かすことが大好きだという歓汰さん。「歓汰」の名前は、「多くの人によろこびを与えられる人になってほしい」と両親が名付けました。
「なんてことだ。大地震の日に陣痛がきた」
歓汰さんは12年前、母・由梨さんが出産のため里帰りしていた時、仙台市内の病院で震災直後に生まれました。

仕事の都合で大阪に残っていた父親の泰行さんは、連絡もつかず途方に暮れたといいます。
父・泰行さん:
「産まれているのか産まれていないのかということよりも、生きているのか生きていないのかの方が大きかったですかね。情報がなさすぎて、ずっと祈るだけという、無力な感じでした」

由梨さんが入院していた病院も震災直後から停電、断水、余震も続いていました。

母・由梨さん:
「ベッドにしがみついて耐えていたんですよ。でも、ベッドにタイヤがついているから動いたりして」
そんな状況の中、3月12日の午前2時40分、懐中電灯の灯りを頼りに歓汰さんは誕生しました。3700gの大きな赤ちゃんでした。

由梨さんはあの日の体験を日記に残していました。
【由梨さんの日記より】「なんてことだ。大地震の日に陣痛がきた」

真っ暗な分べん室で陣痛に耐えながら、お腹の赤ちゃんが無事かどうかもわからない。極限の精神状態の中、こう決意を記していました。

【由梨さんの日記より】「あの地震はかなり平常心を失わせた。そしてやりきれない思いがあふれ、泣いた。でも産むんだ、産むしかないってがんばった」
富谷市には由梨さんの両親が住んでいます。
「産声をきくとホッとしましたね」
夜通し、娘の由梨さんのそばにいた由美子さんは、12年前のことをいまも鮮明に覚えています。

祖母・相馬由美子さん:
「電源が落ちて、助産師さんが持っているのはポータブル(携帯用)の心音計、赤ちゃんの心臓の音がきこえるものだけなんです。わたしも懐中電灯係で分べん室に入って、無事、生まれてよかった。産声をきくとホッとしましたね」

祖父・相馬哲之さん:
「自分の古希の(お祝いで)書いてくれた」

哲之さんが昔から好きだという人気漫画の主人公。歓汰さんが書いてくれました。
祖父・相馬哲之さん:
「当時は最大規模の震災でしたから、それを助かって丈夫な体になっていますから喜んでいます」
歓汰さんは病気知らずでここまで大きくなりました。
「人にやさしく接することができるような大人になりたい」
歓汰さんは、料理が好きで、カレーやグラタンを家族にふるまうことも。妹の梢恵ちゃんと料理をするなど、いまではすっかり面倒見のいいお兄ちゃんです。

そんな2人に、由梨さんは“あるもの”を見せることにしました。当時の新聞です。これまで見せることはありませんでしたが、4月からは歓汰さんも中学生。家族が一緒にいるあたり前の幸せを実感してほしいと考えました。

歓汰さんも自分が生まれた日についてじっくりと話を聞いたのは初めてでした。
増川歓汰さん(12):
「結構、驚きました。がんばってくれたんだなという。いっぱい人が亡くなっている中で自分が生まれて、その人たちの分まで生きるというか…。生きたいという意志はあります」

2月、歓汰さんの通う東大阪市の小学校では、防災の授業が行われていました。ハザードマップを確認したり、防災バックの中身について意見を出し合ったりしました。

増川歓汰さん:
「いつどんな災害が来るのかわからないので、日頃からどうやって自分自身を守るかを考えて心構えをして過ごしたいです」
自分が生まれた時もそうだった。災害は、いつ起こるかわからない。だからこそ、「歓汰」の名前の通り、人を“よろこばせ(歓ばせ)”“受け入れられる(歓迎)”そんな人になりたいと思っています。

増川歓汰さん(12):
「周りの人とか家族を大切にしていきたい。人にやさしく接することができるような大人になりたいです」