医者一族に生まれた運命に、どうしても抗えない。27歳女が“安定した幸せ”のためにとった最終手段

医者一族に生まれた運命に、どうしても抗えない。27歳女が“安定した幸せ”のためにとった最終手段

東京には、全てが揃っている。

やりがいのある仕事、学生時代からの友だち、お洒落なレストランにショップ。

しかし便利で楽しい東京生活が長いと、どんどん身動きがとれなくなる。

社会人5年目、27歳。

結婚・転勤など人生の転換期になるこの時期に、賢い東京の女たちはどんな決断をするのか?

東京の荒波をスマートに乗りこなしてきたはずの彼女たちも、この変化にうまく対応できなかったりもするのだ―。

前回は大阪転勤する彼氏を見送り、東京に残る決断をした貴美子を紹介した。今回はー?



<今週の東京女>

名前:春奈
年齢:27歳
職業:無職・既婚(専業主婦)
実家:代々木上原


FILE 2:春奈の場合


「それにしてもさー、春奈、今じゃすっかり落ち着いて、有閑マダム?って感じだよね!」

「ほんとほんと!あの春奈が最初に結婚するとは思わなかったなー。部活忙しいのに、バイトもめっちゃしてたし、誰よりも自立してたし」

「春奈、とがってたよね!先輩に一番はっきり物申しちゃうのも、春奈だったし」

もうやだー、みんな、そんな昔の話、やめてよーっ。

言ったそばから、今の口調は夫・武雄さんといる時用のものではなかったか、ひとりで振り返ってしまう。照れ隠しに、手入れには気を遣っているつやつやの髪を触った。

「おーおー、すっかりおしとやか!」

同期一ひょうきんでムードメーカーの千夏が茶化す。

「みんなそんなに言わないであげてよ、素敵な旦那さんに、専業主婦なんて、今の世の中本当にうらやましいよ。春奈、幸せそう」

キャプテンだった貴美子がみんなを諭すように言った。彼女の言葉はいつも嘘がないから、これもきっと本心だろう。


大嫌いだった、裕福で閉鎖的な実家。春奈が取った行動は?

「春ちゃん、他のお友達みたいに最後まできちんと指先にまで気を張って。ママ、春ちゃんには、どこに出しても恥ずかしくない素敵な女性に育ってほしいの」

「春ちゃん、食事中になると気を抜いて、お膝とお膝が離れちゃってるわ」

「春ちゃんにはそんなぺらぺらしたTシャツより、この絞りのお着物が似合うと思うの。素敵なお医者様のお嫁さんになるんだから、それくらいのものあったっていいわ」

「体育会なんて入ってどうするの?ママ、同好会くらいがいいんじゃないかと思うわ、日焼けしちゃうし、筋肉がついちゃうもの」――

実家は代々木上原。父は開業医。母は専業主婦で、教育ママ。母方の親戚も男性は医者ばかり。兄は何をやっても私よりずっと優秀で、ストレートで名門私立の医学部に進み、今は勤務医。そろそろ父の跡を継ぐことになっている。

つまり、我が家は医者一族だ。

そんな両親の願いは、孫子の代も医者一族にすること。つまり兄を医者にし、私を医者と結婚させることだった。

テニス、フルート、生け花、茶道。幼い頃から習い事で忙しかった日々。でもテニス以外は、どうしても好きになれなかった。

それでも、兄が医学部に受かった途端、母の熱意は「私の医者との結婚」へ、より一心に注がれた。

母が愛しているのは、私じゃない。

そう思った。母が愛しているのは、医者に嫁いでも恥ずかしくない私、医者に嫁いで孫を産む私。

「自分のことは、自分で決めます」

大学の入学式の日、そう書いた手紙が家に届くようにして、家を出た。

その後、母からの鬼のような電話は全て無視するようになった。



バイト、部活、バイト、授業、部活、バイト。

体育会の学生は皆、大学時代の全ての時間を体育会に捧げるのが普通だ。就活でもそれを語り、難関企業の門を突破する武器にする。

でも私は、それと同じくらいの時間をバイトに使った。

時給の高い塾講師や家庭教師、深夜手当の出る深夜の六本木のバーや渋谷のカフェ。

毎日の練習の合間を縫い、家賃と生活費を何とか稼いだ。



わたしはいつも、疲れ、焦っていた。でも、どんなに疲れていても、部活は決して休まなかった。テニスだけは好きだったから。

生活はぎりぎりで回っていった。練習後にみんながスタバに寄ってのんびり過ごしている間にお金を稼ぎ、自立していることで、密かに悦に浸るようになった。

みんなが私を「尖っていた」というのは、私のそんな時代のぎすぎすした雰囲気のことだろう。

当時の自分は愚かだったと心底思う。

人がひとり生きていくのに、こんなにお金がかかるとは知らなかった。

でも、本当に愚かだったのは、そんな自立に対する甘い考えなんかじゃない。

自分がどうして東京生まれ、東京育ちで居られるか、考えが及んでいなかったことだ。


裕福な生活から一転した春奈が気付いた、当たり前のこと。

彼女が生き延びるためにした選択は?


家を出てから、父は学費を払ってくれていただけでなく、毎月1日に、こっそり私にお金を送ってくれていた。

一度だけ、父が1週間の海外研修に出ていて、入金が遅れてしまった時があった。大学3年の秋、大事な大会の遠征費用振込の直前。でも家賃を払わなくてはいけない。

その時はOGに紹介してもらったスポーツ用品店でバイトをしていたから、まさかバイト代を前借りしたいとは言い出せなかった。

だからやむなく母に電話して、いくばくかのお金を振り込んでもらった。

あんなに意気込んで家を出たのに、みじめだった。

みんなに対して抱いていた「自立」の優越感は、実は羨望の裏返しだった。

部活のみんなが当然のようにしていること――部活に熱中し、恋愛をし、彼を応援したり年上の彼氏から素敵なものを貰ったり、将来に悩み、お茶をして笑いあう――その日暮らしの私には、そんなことをする余裕がなかった。

毎日を必死で生きることは、未来に投資もできず、思いも巡らせられないことでもあった。

家出さえしなかったら、私にだってそういう生活ができたはずだ。

一生、こんなの、無理。
ただ東京で生き延びるんじゃ、嫌。

母に向かって頭を下げた。



「ただいまあ〜」

広い玄関にチャーチの靴が脱いであるのを確認すると、武雄さん用の甘めの声が自然に出る。広尾の3LDK、白い床がまぶしい。

「おかえりー。女子会、楽しかった?」

リビングから夫がひょこっと顔を出し、さっと私の全身に視線を走らせる。

「春奈ちゃん、またそんな恰好して。お出かけの時はスカートにヒールの方が可愛いって、前から言ってたのに」

この秋買ったばかりのゆったりとしたクロエのニットには、細身のデニムとバレエシューズを合わせた。夫の資金力でこそ出来る、上質なカジュアルだ。

夫はコンサバを好む。結婚を前提に付き合いだした頃から、フレアスカートにヒールを履いていると喜び、パンツにフラットシューズを合わせていると分かりやすくげんなりされた。

「だってぇ…」

私は上目使いで夫を見る。

夫の側にすり寄り、夫の右手を取って、私の下腹部にゆっくり、そっと触れさせる。

「ヒールは、体に障るかなって。……やっぱりできてた…10週目、だって」

武雄さんの目がぱっと明るくなり、私を抱きしめる。



土曜日午前の診察を終えた武雄さんの服からは、病院の消毒液の匂いがする。

この匂いはいまだに好きになれないけれど、これが私の選んだ道。

医者一族の家に生まれ、私は医者と結婚した。父の仕事の繋がりで、紹介してもらったのが武雄さんだ。中肉中背のさっぱりした顔立ちで、人畜無害な内科医。武雄さんの家も代々医者で、武雄さんはお義父さんに1軒クリニックを建ててもらい、そこの先生をやっている。



「あれ、春奈、今日はワイン飲まないの?」

「昔から一番よく飲んでたのに!」

うん、ちょっとね、とほほ笑む。

もしかして……とみんなの視線が集まる。

「……赤ちゃんがね、いるから。帰ったら武雄さんに話す」

きゃああっ、と歓声が湧きたつ。美人で、テニスが好きで、東京で華やかに生きているみんなの歓声。

「子供も、お医者さん?」

最近出版社を辞めてフリーランスになった千鶴が、ずっと気にかけていた携帯を置いて、大きな瞳で真直ぐこっちを見ながら尋ねる。

午前中、産婦人科で妊娠を告げられた後。

みんなとの待ち合わせまでの、6時間。

私の足は気が付くと、昔住んでいたアパートに向かっていた。

ボロボロのトタン屋根の軒先からは雨水が滴り落ち、階段は錆びついていた。出勤前のホスト風の男が、頭を掻きながら外の洗濯機でジャージを洗っていた。

私は、決めた。

自分の母と同じように、この子を医者の世界に紐付けよう。どんなに反抗されても。

これでいい。これで良かった。これが、私の選んだこと。これが、私の幸せ。

「うん、きっとね。頑張らなきゃ」

カルティエのエタニティリングをはめた左手をそっとお腹に置き、みんなに向かって微笑んだ。


▶NEXT:11月28日 水曜更新予定
FILE 3:名古屋出身、日香里の場合。家業を継ぐか?東京で夢を追うか?



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