“自分は特別”と錯覚してしまった女の悲劇。一度味わってしまった高揚感に、狂わされた人生

“自分は特別”と錯覚してしまった女の悲劇。一度味わってしまった高揚感に、狂わされた人生

深窓の令嬢が、超リッチな男と結婚。

それは社会の上澄みと呼ばれる彼らの、ありふれた結婚物語。

有馬紅子(ありま・べにこ)もそんな物語の一人として17年間幸せに暮らしてきた。

しかし突然、夫・貴秋が若い女と駆け落ち同然で家を出てしまい、紅子のプライドは消えかける。

しかし就職に成功し、新たな一歩を踏み出した紅子はある日、久しぶりに月城家に呼ばれ、夫の貴秋が、謎の手紙の送り主が涼子であることに気がついた。そして、涼子の目的がわからないまま、紅子は、涼子の家に誘いこまれてしまう。貴秋と執事の西条、会社仲間たち、坂巻、小河、加藤が紅子の救出に向かったが…。

「社会経験、ほぼゼロ」。有閑マダムのレールから強制的に外された女・有馬紅子のどん底からの這い上がり人生に迫る。



「私、月城家にお仕えしている西条と申します。失礼ですが…紅子さまの会社の方々でしょうか?」

黒いスーツの初老の男性が僕たちに話しかけたことで、颯爽と僕たちの目の前を通り過ぎた、“たかあきさま”と呼ばれた男性もこちらを振り返った。

―この人が有馬さんの元ご主人…月城たかあきさん、か。

そう思いながら、はい、と答えた僕の横で、チッ、と加藤さんが舌打ちした。その音に驚き、加藤さんの顔を見た僕は、その表情にまた驚く。

「…なんで、あの人のこと…睨んでるの」

小さな声でそう聞いた僕に、加藤さんは大きな声で答えた。

「だって、浮気したあげく家を出ていって、紅子さんを傷つけた最低なおじさんですよ、この人。くそダサいことですよ?あなたが紅子さんにやったことって。わかってます?」

「…え…じゃあ、離婚の原因は…」

―彼の浮気なのか?

有馬さんの離婚原因を詮索しようとは一度も思わなかったが、それが本当なら…苛立ちと共に、僕も思わず彼を睨んでしまったが、そこで改めて気がついた。

最低なおじさん、と呼ばれたにも関わらず、僕たちに微笑んでみせた彼は。

―身なりがいい、なんてレベルじゃない。

僕たちのように、ラグジュアリーブランドで働く以上、顧客の方々が身につけられるものについての知識はマストだ。

だから彼が身につけているものが、ただのハイブランドのものではなく、ビスポークであることが分かる。

クソダサい、など、おそらく人生で初めて言われたはずだが…。ダサい、という言葉の意味そのものさえわからぬ様子で、月城さんは僕たちを見て微笑んでいる。

そして、彼を睨みつけていた僕と加藤さんに向かって、その優雅な笑みのままで言った。


小河の思わぬ変化。そして紅子がついに涼子の部屋に…。

「あなた方のような…こうやって危機に駆けつけてくれる友人ができたのですね、紅子には。働き始めたと聞いた時はどうなるかと思いましたが…紅子は幸せ者です」

ありがとうございます、と僕たち3人に向かって、月城さんは頭を下げた。

加藤さんへの返答としては、あまりにも見当違いな言葉の内容に、加藤さんの苛立ちが増したのがわかったが、月城さんはその怒りに気がつくこともなく、飄々と微笑んでいる。

「貴秋さま…今はそういうことをおっしゃっている場合ではありません」

厳しい声でそう言ったのは、西条と名乗った男性だった。

「もうすぐこちらの管理会社の方がいらっしゃいますので、田所さんのお部屋へ参りましょう。皆さまも、ご一緒に行かれますか?警察にも手を回してありますので、いざという時には対応していただけると思います」

この時間に、管理会社の担当者を呼びつけ、警察の力を借りることができる。そんな月城家の力は恐ろしいが、今は頼るしかないのだろう。

「…クソダサいおじさんの力を借りるみたいで、なんかシャクに触るけど」

自分の気持ちを代弁されたような加藤さんの言葉にドキリとした時、今度は利佳子の厳しい声がした。



「加藤さん、あなたがこの方に腹が立って許せない気持ちは、私にも十分理解できます。でも今は有馬さんを探すことが先決でしょう。だから落ち着いてください。ご一緒させてもらいましょう」

僕は、驚いてしまった。

加藤さんを制したように聞こえる言葉の中で、利佳子は、さらりと加藤さんの肩をもったのだから。

月城家は、うちのブランドにとって超がつくお得意様だ。その彼を目の前にして、会社の利益を最優先事項にしてきた利佳子が、私も加藤さんの気持ちが理解できる、と言い放つとは。

ふと、数ヶ月間前のあの時のことを思い出した。

組織の利益を優先するため、有馬さんを上流階級のマダムのクレーム処理に利用した利佳子が。今は、有馬さんの気持ちを思いやり、守ろうとしている。

―有馬さんはすごいな。

利佳子は自分でも気がつかぬうちに、有馬さんに影響され、少しずつ変化しているのだろう。

それは僕にもよく分かる感情だった。あのまっすぐな人に向き合っていると、最初は眩しすぎて、うざったいとさえ感じていたはずなのに…いつのまにか魅了されてしまっていたのだ。


紅子と涼子の対峙:2人きりの部屋


「……」

涼子さんに連れられ入った部屋は、一目でわかる異様さだった。

壁のいたるところに、写真、ノートが破られたようなもの、そして新聞や記事の切り抜きのようなものが貼られているのもそうだが、何より部屋の隅に置かれた首のないマネキンが、その異質さを際立たせている。

その首のないマネキンは…見覚えのある制服を着ていたのだ。


首のないマネキンの理由。そして皆が到着するが…。

「…あれは…私たちの母校の制服?」

私と涼子さんは、中高一貫の女子校に通っていた。たしか私が高校3年生の時に、涼子さんは中学に入ったばかりだった。

「これは、高等部のものよね。涼子さんのかしら?随分綺麗にとってあるのね」

私の目的は、涼子さんを救うこと。この異様な部屋が何のためであろうと、この暗い空気に沈まぬよう、努めて明るく問いかけた。

すると、涼子さんが、悲しそうに笑った。

「やっぱり、お忘れなんですね。こんなに華奢なサイズが、あの頃の私に入るわけがないじゃないですか。私のではなく、あなたの制服です。これは…私が、紅子さまに頂いたもの。

あなたが着ていた制服だから、大切に、大切に保存して…」

そう言いながら涼子さんは私の手をとり、マネキンの前まで一緒に歩いた。

「私はこの制服に自分の体を入れることが、生きる目標になりました。どうしてもあなたに…紅子さまになりたくて。見てください、ほら」

私の手を握ったまま涼子さんの視線が壁に動き、私もつられるようにその視線を追った。すると。

― 見たことがあるものばかり。

私の写真、私が取材された記事、そして私の字で書かれたノートの文字。その中の1つを、涼子さんが壁から剥ぎ取ると、私に見せながら言った。

「これが、出会った日。この日が私の始まりの日です。紅子さまにお声をかけていただいた、今から24年前の、学園祭の写真。

2人で撮って頂く勇気が出せずにいた私が、偶然写り込んだだけのものですけど、私にとってはずっと…宝物でした」

まだ痩せる前の涼子さんが、友人とピースサインを決める私の方を、背後から見つめている写真だった。





駆けつけてきた、このマンションを管理する不動産会社の社員だと名乗った男性は、エントランスの鍵を開けて中に僕たちを誘導すると、歩きながら言った。

「月城さまには本当にお世話になっており…会社からもくれぐれも失礼のないように、とのことでしたが、なにぶん今回のことはプライバシー保護の点からもいささか、といいますか、かなり問題のある行為でして…。

月城さまの緊急事態だということで、仕方がないことではありますが、皆さまどうかご内密にお願いできますと…」

もちろん全員が他言は致しません、と西条さんが答え、僕たちの方を向く。その無言の念押しに、僕たち3人も頷いた。

田所さんの物件は、大手デベロッパーの高級賃貸物件で、戸数も100以上と、大きな高層マンションだった。

何機もあるエレベーターの中から、高層階用で上から5つのフロアのみに制限されているエレベーターに乗り込む。目的の階に到着し、ダウンライトのみの廊下を歩き出すと、否応無しに緊張感が高まってくる。



「こちらです」

不動産会社の男性が立ち止まった。


ようやく涼子の部屋の中へ…しかし、驚きの事実が判明する!

どうやら僕たちは田所さんの部屋にたどり着いらしい。

フロア最奥の角部屋で、隣の部屋のドアまでは結構な距離がある。

「このフロアには、ほかにも5世帯のご家族がお住まいですので…」

「開けてくれ」

おそらく、お静かにお願いいたします、とでも続けたかったのだろう男性の声を遮り、月城さんは、まるで当然のことのようにそう言った。

まずはインターフォンから、と焦りながらボタンを押そうとした男性社員の腕をとっさに掴み、引き止めたのは西条さんだった。

「我々月城家では、誘拐をはじめとする犯罪に巻き込まれた場合の対処法や救出作戦を学んでおりますが、この場合インターフォンを鳴らすのは得策ではありませんので」

西条さんの言葉にも、しかしさすがにそれは…と食い下がろうとする男性社員を月城さんが一喝した。

「全ての責任は、この月城貴秋がとる。そこのお三方が証人だ。君にも君の会社にも迷惑はかけない。だから早く開けなさい」

品格ある家に生まれついた人だけが持つ威厳。

言葉は優しいのに、人の上に立つこと、命令を下すことが当たり前に染み付いた佇まいのようなものが、場を圧倒する。

その空気に男性社員が鍵を取りだし、さっき彼のことをクソダサいおじさんと言い放った加藤さんでさえ、月城さんに見惚れているように見えた。

その時、隣に立っている利佳子が息を飲む音が聞こえ、僕はその顔を覗き込んだ。

「大丈夫か?」

小さく声をかけると、うん、と頷いたけれど、その顔は白い。

『私、田所さんに脅されたことがあるの』

さっきの電話で利佳子はそう言っていた。僕たちが知らない、田所さんの怖さを思い出したのかもしれない。ふと触れ合った彼女の手をこっそり、ぎゅっと握りしめる。



「…大丈夫だよ、きっと」

僕がそう言った時、鍵穴に鍵がそっと差し込まれた音がした。そして西条さんが静かにドアを開けると、飛び込みそうな勢いで中に入ろうとした加藤さんを制し、西条さんがまず、中へ。


そしてそのあとに続こうとした月城さんが、振り向いて言った。

「女性陣は…こちらでお待ちになった方が良いのでは?」

いやです、と即答した加藤さんが、月城さんの横をすり抜け中に入ると、私も大丈夫だから、と利佳子が僕の手を振りほどいて歩き出す。僕もそのあとを追った。

すると…すぐに西条さんの声が聞こえてきた。

「どこにもいらっしゃいません」


紅子は一体どこへ!?そして坂巻があることに気がついた!


「でも、ここが田所さんの部屋で間違いないんでしょ?」

焦りを含んだ加藤さんの質問に、ここは田所家所有のマンションで、お住まいになっているのは田所涼子さんだと届けられています、と男性社員が答えた。

「…そもそも2人が一緒だと思ったのは勘違いだったのかも…」

利佳子の呟きに月城さんが即答した。

「いや、おそらく2人は一緒です。しかも、彼女はきっと、紅子を閉じ込められる場所を選ぶ。店や外では無理だ。君、田所家所有のマンションはあといくつあるか知っていますか?別荘でもいい」

「おそらく、うちの物件では一つかと…。詳しく調べるにも、もうこの時間では…」

田所さんが、資産家一族の娘だという噂は聞いたことがある。ならば、たしかに他にも家がある可能性は高いが。

―何か、手がかりを…。

そう思った僕は、月城さんが男性社員を問い詰める声を聞きながら、3LDKの部屋を見て回り、奥にあった扉を開けた。すると。



「…何も、ない?」

3LDKのこの家で、その部屋だけ、物が極端に少なかった。

ベッドが一つだけ。ということはおそらく寝室だったのだろうが、壁には、何かを剥がした跡…テープや画鋲の跡が荒々しく、無数に残っていた。

―かなり乱暴に剥いだっぽいな。

「…慌てて…」

思わず僕が呟くと、声が。

「引っ越しでもしたかのよう…ですよね。最近ここに出入りした運送会社がいないか、調べてみましょう」

いつのまにか、部屋に入ってきていた西条さんは、そう言うと、どこかに電話をかけ始めた。


紅子と涼子の対峙:2人きりの部屋


ー私になりたかった?

涼子さんに手渡された写真を見ながら、私は記憶を遡ってみる。涼子さんは、私を慕ってくれる可愛らしい後輩の1人だったことは確かで…。

「これは、私が中学1年、紅子さまが高校2年生の時の写真です」

涼子さんの声に、私は写真から顔を上げた。


涼子、ついに最後の作戦に出る!?紅子の運命は?

「私は太っていて醜くて。だから目立たぬように、教室の隅っこにいたのに。それでよかったのに。高等部の先輩たちが、サークル活動の勧誘にいらっしゃったんですよね、この日。クラスまで」

涼子さんの誘導に、少しずつ、あの頃の記憶が戻ってくる。通いなれた母校の風景が脳裏に浮かび始めた。

「紅子さまは、中等部でも有名でしたから。あなたとあなたの華やかなグループがクラスに来た時は、クラス中が色めき立った。でも私はそんな華やかな騒ぎが嫌で、自分の机に座ったまま本を読むふりをして下を向いていました」

声に興奮が混じり始めた涼子さんの言葉の意味が分からず、私は、ただ聞き入っていた。

「あなたは、隅っこでひとりぼっちの私を見つけてしまった。そして、わざわざ私のところまで歩いてきて、声をかけてくれた。優しすぎる声で。

『ねえ、あなたも私たちの社交クラブに入らない?乗馬がメインだけれど、お茶とお華も学べるのよ』っておっしゃった」

私の表情から、私がそれを覚えていないことを察知したのだろう。

「紅子さまは、覚えてらっしゃらなくても、私にとっては、大事件でした。紅子さまに声をかけられた私にクラスメートたちが驚いて、紅子さま、その子はそんなに太ってるのに乗馬なんてしたらお馬さんが潰れちゃいますよ!って笑い始めた。そしたら紅子さまは、何ておっしゃったと?」

自分のことのはずなのに、人ごとのように質問されて戸惑う私を笑うと、涼子さんの口調が強くなった。

「まず、私に名前を尋ねられた。そして涼子という名前が凛として素敵ね、とおっしゃった後、クラスメート達を見渡して宣言なさったんです。

『今後、この涼子さんを笑う方たちがいらっしゃったら、この紅子が許しませんよ。涼子さん、告げ口は嫌かもしれませんけど、いつでも私を頼ってらして。そしてもし宜しかったら、私と仲良くしていただける?』って」

そこまで言い切ると、涼子さんは声を上げて笑いはじめた。

「紅子さまにとっては記憶にもないその一言、誰に対してもおっしゃるお得意の一言なのに。その頃の私は、自分が特別になったかのような生まれて初めての高揚感を覚えました。

これで、あなたに憧れるなという方が無理な話だと思いませんか?

この日から、あなたは私にとってスーパーヒーローであり…たった1人のアイドルになりました。自分もそうなりたい、あなたが私の方だけを向いてくれれば…と…。

私は、目立たなくてよかった。なのに、それをあなたが引きずり出したんですよ。一度日の当たる場所を知ると、もう日陰には戻れない。想いが強すぎると壊したくなる。そんな気持ちも初めて知りました…でも、もう限界です」

そう言うと言葉に詰まったように、涼子さんは黙りこんで俯くと、しばらくの沈黙が続いた。

「…涼子さん?」

私の言葉に、ハッとしたように顔を上げた涼子さんが、にっこりと笑って言った。



「私以外の、全てを失って欲しかった。あなたが壊れれば、今度は私があなたにとっての紅子さまになれる。だから今から…貴秋さんの恋の真相を…あなたが信じていたあの男の秘密を、教えましょう」

▶NEXT:11月25日 日曜更新予定
ついに涼子が全ての計画を語る…そして紅子は!?



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