“幸せな夫婦”だと信じていたのは、夫だけ。ある日突然、妻が消えた理由とは

“幸せな夫婦”だと信じていたのは、夫だけ。ある日突然、妻が消えた理由とは

あなたは、誰かにラブレターを送ったことがありますか?

文字に想いをしたためて、愛する人に贈る言葉。

手紙、メールやLINE…方法はいろいろあるけれども、誰かを愛おしいと思う気持はいつだって変わらない。

側にいる大好きな人、想いを伝え損ねてしまったあの人に向けて…。

これは、読むと恋がしたくなる切なくて甘い「ラブレター」にまつわる男女のオムニバスストーリー。

今週の主人公は、前回の主人公田中悠人の別れた妻・遥。あのラブレターの背景にあった妻の切ない思いとは…。



「検査の結果、余命宣告をせざるを得ません。長くて…1年というところでしょう」

医師は、本当に、残念です、と付け加えたけれど、なんというか、とても現実味がなく聞こえた。

私の名前は、井上遥。ちなみに、34歳になったばかりだ。

「よ、めい…というのは、私の?私が、あとどれくらいの時間生きていられるか、という話でしょうか?」

思わず聞き返した私に、医師は頷き、もう一度、残念ですが、と言い、詳しい病状の説明を始めた。

悪性の脳腫瘍。しかも、腫瘍が深い部分にあり、重要な神経を巻き込んで大きくなっている。

無理をして手術をしたとしても、全部は取り除けない上に、余命はあまり変わらず、5年生きられる可能性は、5%以下。さらに手術中に予想外の自体が起これば、何らかの障害が体に出る可能性が高く、最悪、それが死に直結する危険もあるという。

つまり、手術は勧めない、というのが、医師の判断ということなのだろう。

脳腫瘍というものは、体に症状が現れた時には、すでに腫瘍がある程度の大きさになっていることが多いらしい。

”発見が遅かった”と、とても悔しそうに、顔を歪める医師の顔を見ながら、“ああ、この先生は、きっと、とてもいい人なんだなあ”、と思った。

とんでもないことを言われているという自覚はあった。あるのに、他人事のようにも思える、という不思議な感覚のまま、黙っていた私に、医師は、脳のスキャンらしき画像を眺めながら言った。

「自覚症状は、頭痛、吐き気、めまい、手足の異変、でしたね。視界にもやのようなものがかかったり、物がダブって見えたりはありませんでしたか?」

そう言われてみれば、頭痛やめまいが起こった時に、視界が陰ったり、斑点が出ているような気がしたことがあった。

でも、それらは、10代の頃から悩まされてきた、酷い貧血の症状なのだろう、くらいにしか思っていなかった。病院にきたのは、右の手足が、時々痺れるような気がしたからだ。

「はっきりいって、状況は悪いです。でも、余命宣告といっても、あくまでも目安で、1年と思っていた人が、5年生き抜いた、という例もありますから…井上さん?なんで笑ってるんですか?」

怪訝そうな顔をした医師に指摘され、私は慌てて謝った。

「治ります、とは言わない先生が、正直で素敵だな、と思っていただけなんです。つまり、1年であろうが、5年であろうが、私の命に制限がついた、ってことは変わらないんですね。私の人生は…もうすぐ、終わるということですよね?」

医師は、私の視線から逃げることなく、小さく頷き、今の医学では、そう言わざるを得ません、でも、できるだけの処置を考えていきます、と言って、私が、これから選ぶことができる、という治療法の説明をはじめた。


「記憶を失いたくない」余命宣告を受けた妻の悲痛な願い

放射線治療、化学療法、などという様々な治療法があること。それらの効果や、体にどのような影響を与える可能性があるのか、という話を、医師は細かく説明してくれた。

私が1番恐れたのは、私に適した治療はあるが、その治療により記憶に障害が出る可能性がある、ということだった。

「認知症のような症状が出ることが、ない、とは言えません」

多少の延命はできても、完治はしない治療ならば。

「私、記憶だけは絶対になくしたくない。何一つ、忘れたくないんです。それにできれば、入院はしたくありません。

医師にそう頼み込むと、では、今後激しくなるであろう、痛みや苦しみを緩和していく治療をしましょう、と、週1、2回の通院を提案された。

「ご家族にも、説明させて頂きたいのですが、お時間を作っていただけますか?ご主人とか…」

医師はそう言ったけれど、私は、その質問を曖昧に誤魔化したまま、診察室を出た。



バスに乗る気分にはなれなくて、タクシーに乗った。

夫の悠人(ゆうと)に連絡を入れるべきか…と、携帯を取り出してみたけれど、LINE画面を開く気になれなかった。

結婚して2年。引っ越してきて、ちょうど1年程が経った、白金の我が家へと入る。同棲時代から住んでいたマンションの更新が迫った時に、夫が子供部屋を考えてマンションを買おう、と言った。

外では、ビシッとクールに振る舞う癖に、家では別人の夫。私の姿が少し見えないだけで探すような、3つ年下の甘えん坊の悠人が、誇らしげに、家を買う宣言した日のことを、今も鮮やかに覚えている。

―洗い物、してた時だったな。

「やっぱり3LDKくらいは欲しいよね。子供が2人くらいできることを考えるとさ。でも今住んでる場所からあんまり離れたくないし…パパ頑張らなきゃなあ」

子供を作ろうという話をしたばかりで、妊娠の気配すらないのに先走り、テンションが上がっていく夫に、私は冷静を装い言った。

「まだ子供ができるかどうか、分からないでしょ?お互いにプレッシャーになっちゃうんだから、はしゃぎ過ぎないで。

それに、3LDKのマンションを白金に買うなんて…。無理しないで。白金でなくてもいいじゃない」

―悠人と一緒なら、どこでも、どんな部屋でも構わないのに。

そう思っていたくせに、照れ臭くて口にできなかった。私はいつも年上の女を気取ってしまうのだ。

でも、悠人はめげることがない。洗い物の手を止めずにいた私を、後ろからぎゅっと抱きしめ、耳元で言った。



「マイホームは、俺の覚悟の証明、ってことで、ちょっと背伸びして買わせてくれない?一応、そこそこ稼ぎはいいじゃん、俺。そのうち遥が頼れる男になるからさ。長い目で見守っててよ」

グッときた。本当に嬉しかった。素直にありがとう、と言えば良いのに、私は悠人の方を振り向きもせず、わかったわ、とだけ言った。

洗い物の邪魔だから離れて、という私を、いやだと離さない悠人。その大きな体に包まれる幸せと安堵感。

―ずっと続くと思ってたのにね。

キッチンのシンクの中に食器が見えて、出がけに慌てていたことを思い出し、近寄っていく。悠人と2人分の朝食に使った食器、トーストとサラダの皿、コーヒーカップを洗いながら、このキッチンを決めた時のことも思い出した。

「デザインはもちろんですが、シンクやコンロの高さも、お好きなように設定できます。ご主人が身長が高くていらっしゃるので、高めがよろしければそのように。キッチンはお2人とも使われます?」

デザイン事務所で、そう聞かれた時、外面のイイ男モードだった悠人は、なるほどねぇ、と相槌を打った後、言った。

「まあ、半々とまではいかないですけど、僕も割と使います。妻の手伝いをする時間が好きですから」

スタッフの女性は、素敵な旦那さんですねえ、と調子よく褒めてくれたけれど、私は呆気にとられた。

―洗い物なんかしたことないし、家事なんて、なに一つできないくせに。

かわいい女の子の前だと、悠人はすぐにカッコつけるのだ。


夫に何と伝えればいいの?最愛の夫の心を思う、妻の葛藤と涙

私は、スタッフに見えない机の下で、悠人の足を、ピンヒールで踏みつけた。うっ、と唸った悠人ににっこりと微笑んで、もちろん、シンクの高さは私が使いやすいように作ってもらったのだけど。

「…ほん、としょうがない男」

しょうがなくて、手がかかって、面倒くさい男だけど。

―かわいい、かわいい私の夫。

悠人は、毎日、毎日、私をぎゅっと抱きしめて眠りにつく。そうしないと眠れないというのだ。だから。

私の異変に、最初に気がついたのは、悠人だった。

「遥、痩せた?」

ちょっとくらいプニプニしてても大好きだからダイエットなんてしなくていいよー、と、私の二の腕を揉みながらふざけた悠人を、私は、なに言ってんの、と否したけれど、そう言われてみれば、自分でも少し前から、気になることがあった。

元々、貧血で倒れることもあるような体質だったので、めまいや倦怠感とはずっと付き合ってきた。でも、その頻度が高くなり、朝起きると必ず頭痛に悩まされるようになった。それは午後には消える痛みだったけれど、妙に食欲がなくなったりもした。

悠人に痩せたと指摘されたのはその頃で、丁度、右手足にも軽い痺れのようなものを感じるようになっていたこともあって、私は病院に行った。軽い気持ちだったのに、すぐに精密検査が行われて。

その、結果がまさか。

―余命宣告、なんて。

ザァーッ。

とっくに洗い物が終わっているのに、水道の水を出しっ放しにしていたことに気がつき、止める。日が落ちかけ、部屋が薄暗くなってきている。その暗さがなぜか怖くなり、私は慌てて電気のスイッチを押した。

カチッ。

その音と共に視界が明るくなったのに、私はその場に座り込んでしまった。

「…悠人ぉ…」

思わず、夫の名前を呼んでいた。喉から出た自分の声が、弱々しくて、情けなくて、涙が溢れる。泣きたくなんかない。泣いている暇はない。治療のこととか、両親のこととか、考えるべきことはたくさんあるのに。

思い浮かぶのは、悠人になんと伝えればいいか、ばかりだった。

ちょっと私が風邪を引いただけで、側にいようか?会社を休もうか?と大慌てする男。

家にいる間は、できるだけくっついていたいんだけど、と、ふざけたことを口にし、そして、本当にぴったりと寄り添ってくるあの、度を超えた寂しがりやで、甘えん坊のあの男になんと伝えればいいのか。

「おじいちゃんとおばあちゃんになったときさ、俺、遥より先に死にたいなあ。遥がいなくなったら、俺マジで生きていけないもん。遥がいない世界とか、ほんっとに無理。だから、俺より絶対長生きしてね」

それって男としてどうなの、普通は最後まで君を見守るよ、とか言うものじゃないの?と呆れた私に、ヘラヘラと笑って、でも真剣な声で言った。

「俺、遥に見送られてさ、ぎゅっと手とか握られてさ、ほんとに幸せな人生だったなあ、って思いながら死にたいもん。それが人生最大の目標、というか夢」

そんなことをのたまう、最愛のダメ男に、私が、その夢を叶えてあげられなくなった、と
どう伝えればいいのか。

それを知った、悠人がどうなってしまうのか、怖い。怖い、怖い。

「悠人、ごめん、ごめんね」



涙が止まらないまま、どれくらい、その場にしゃがみ込んでいたのだろう。

携帯が着信した音で、私は時計を見た。午後6時を回っている。

―多分、悠人だ。

泣き慣れないのに、泣き続けてしまったせいか、鈍く痛む頭をおさえながら立ち上がり、ソファーに置きっぱなしにしていたバッグから、携帯を取り出す。

『ごめん!ちょっとトラブルが起きて、イスラエルの現地スタッフと、やりとりしなきゃいけなくなって。今日遅くなるかも』

やっぱり悠人からのLINEだった。彼が、会社で頼りにされていることは、元同僚だった私もよく知っている。

『わかった。気をつけて帰ってきてね』

私が選んだ文言は、自分でも驚くほどごく普通の、打ち慣れたものだった。送信ボタンを押してすぐ、また携帯が着信した。ぼんやりと画面を見ると、今度は、萌ちゃんからのLINEだった。

萌ちゃんは、悠人の7つ年下の妹で、今は22歳。私が悠人と付き合い始めた頃に紹介されて以来、何かあるたびに、私はお兄ちゃんより、遥さんの味方だからね!と実の姉のように慕ってくれている。

『遥さん!!ちょっと…相談したいことがあって。会いたいでーす。』

萌ちゃんの、天真爛漫な笑顔を思い出し、張り詰めていた心が、フッと緩んだ。

『いいよ。いつにする?相談ってことは、恋愛の話かな?』

『えへ。明日のランチはいかが?急すぎ?w』

たわいもなく軽いやりとりに救われた気分になり、私は、萌ちゃんに感謝しながら、OKというスタンプを送信した。


夫を遠ざけ始めた妻。すれ違い始めた夫婦だが、妻の本心は…

余命を宣告されて以来、私は入院しないまま、週に1、2回の通院を続けていた。検査と緩和ケアのためだが、医師は、顔を合わせる度に私を戒めた。

「状態は落ち着いていますが、決して良くなったわけではありません。痛みは薬で誤魔化されているだけですし、発作が起これば、すぐに命が断たれる可能性だってある。楽観して無理してはいけませんよ」

入院して2か月ほどが経っていたが、医師によると、私の症状の進行は、ピタリと止まっているという。医師もなぜだかわからないと驚いていたが、それでも繰り返し、入院を勧めてくる。

「僕としては、そろそろ入院してもらえると、安心するんだけどなあ。ご家族は…ご主人はなんとおっしゃってます?」

医師の問いを、私は曖昧な笑顔で誤魔化す。医師に嘘をついているからだ。

家族には病気のことを話して、理解してもらった、と伝えたけれど、私が病を伝えたのは、実家の父と母だけで、実はまだ、悠人には話していなかった。

―正確には、話せていない、だけど。

宣告されたあの日に伝えようとした。でもなぜかどうしても、悠人の顔を見ると、言葉が出なかった。一度勢いをなくした告白は、日を重ねるごとに、言い出しにくくなり、体に決定的な不調が表れないことをいいことに、ずるずると、時が過ぎた。

そして…タイミング悪く、というのだろうか。悠人は、仕事で大きなプロジェクト、入社以来ずっと願ってきて、最大の目標だった中東開発に関わる数年がかりのプロジェクトの責任者になった。

「絶対に失敗できない。俺の全てをかけて成功させる。しばらくは、遥と一緒にいる時間が減っちゃうかもしれないけど、許してくれる?」

喜んでいる悠人を見るのが、本当に嬉しい。もちろんよ、頑張ってね、と、久しぶりに明るい気持ちになれた。でも。

未来の話をする悠人は、キラキラと眩し過ぎた。

それは。

―私がいない悠人の未来。私が見れない悠人の未来。

ドロッとした暗い思いを、一瞬でも抱いた自分にゾッとした。慌ててその気持ちをかき消す。

悠人の夢だった仕事。今、その仕事に集中するべき悠人に迷惑はかけられない。私が余命宣告なんてされたのを知ったら、彼は、混乱し、夢だった仕事を投げ打ってでも、側にいると言いかねない。

―そんなの、嫌だ。

私が、悠人の邪魔をするなんて。何よりも嫌だ。病気が、知られては、バレてはいけない。そして、その日から、私は、悠人を避けるようになったのだ。



私の体は、注射の後だらけ。痩せ細ったわけではないけれど、治らない吐き気のせいで体重は落ちた。少しでも変化を悟られないように、シャツの下にTシャツを重ね着したりして、体のラインをごまかした。

家の中で抱きしめてくる彼をやんわりと拒むようになり、夜中や寝起きに酷い頭痛でうなされることを隠すために、夫婦のベッドを離れ、私は別の部屋で寝るようになった。

「俺のこと、嫌になったの?俺が何かしたなら教えてくれない?」

悠人の問いかけにも、風邪が長引いていて移したくないから、とか、今日はまだ片付けが残ってる、とか下手な言い訳しかできなかった。

悠人が納得するわけもなかったけれど、次第に彼からの接触は減り、わたし達はギクシャクし始めてしまった。



―私、何をやってるんだろう。


夫の浮気に気がついてしまった妻。思いもよらぬ決断につながっていく

悠人に、仕事に集中して欲しくて、病気のことを話さずにいたのに、結局悩ませている。こんなのダメだ。ならば。

―いっそ本当のことを話すべきじゃ?
―いや、今はダメ。悠人の仕事はどうなるの?
ーじゃあ、家を出て、姿を消す?
―それって、悠人から離れるべき、ってこと?

自問自答の繰り返し。理性と衝動が入り乱れ、処理できない矛盾の渦の中で、私と悠人は会話すらなくなっていくうちに、自分のエゴに気がついた。

―悠人のためだ、なんて大ウソね。

真実を伝える勇気も出せないくせに、少しでも長く、悠人の側に…悠人が買ってくれたこの家で一緒にいたい、という、私のエゴ。それが、悠人を傷つけてしまったのだ。



そして、宣告から3か月が経ってしまった、ある日。

もう明け方近い時間になって帰ってきた悠人が、ソファーで眠り込んでいるのを見つけた。

恐る恐る近づくとアルコールの匂いが鼻をついた。酷く酔っ払っているようだった。

こうなると、彼は朝まで起きない。

―プロジェクトは大丈夫なのかな。

そんな心配をしながら、スーツのジャケットを、そっと脱がせた。シワにならぬように、ソファーの背もたれにかけようとした時、ポケットに入っていた携帯が落ちた。

拾った瞬間、携帯のホームボタンに、ラインが着信し、何気なく目に入った文面に目がクギ付けになった。

「ベッドの上に会社用の携帯忘れてたよ。私、会社に持っていくね♡♡大好き♡
今度は朝まで一緒にお泊りしてね♡」

送信相手の登録名は、佐藤里穂。

―これって、浮気、ってやつかな。

鼻の奥がツンとした。

―あれ?

涙がこぼれた。

―私、泣くの?

自分が、あんなにひどい態度をとったくせに。嫌われても、愛想をつかされても当然の態度だったくせに。

―悠人には、ずっと私だけ、なんて自惚れてた。

悠人はモテる。そして、相手が私じゃなくても、こうやって恋に落ちる。それをなぜ、私は忘れていたのか。

佐藤里穂さん。きっと私とは正反対の、ふわふわした可愛らしい、素直な女の子な気がする。

―悠人は、私がいなくても大丈夫なんだ。寧ろ、今の私なら、いなくなった方が…。

私は、自分が悠人のために、できることを見つけた気がした。

眠っている悠人のそばにしゃがみこみ、その顔を久しぶりに至近距離でじっとみつめる。

凛々しい眉に、長いまつげ。スッと通った高い鼻。ああ、どうしよう、無精髭さえ、吐息さえ、愛おしい。愛おしくて、どうしよう。

―私の、かわいい、かわいい、夫。

頰に触れたくなり、おもわず伸ばしそうになった手を、グッと堪え、悠人の体にブランケットをかける。

いつまでも見つめていたい寝顔に背を向け、部屋に戻ったけれどその日は眠れず、眠れぬまま、悠斗の前から消える、覚悟を決めた。

そして、その、3日後の朝。

今日も遅くなるかも、と、玄関に向かった大きなその背中に、私は、声に出さずに呟やく。

―バイバイ、悠人。ごめんね。ありがとうね。

バタンとしまったドアを、いつまでも見つめ続けそうになった自分を奮い立たせ、私は最後の仕上げに取り掛かる。

この3日の間に家中を掃除し、整頓した。自分の荷物は、余命が分かってから少しずつ整理し捨てたこともあって、まとめる作業は楽だった。行く先は病院なのだから、持ち出す荷物は最小限でいい。

ーまた、飲みっぱなし。

キッチンのテーブルに置かれたままの悠人のコーヒーカップに、あまりにもいつもと変わらぬ光景に、思わず笑ってしまう。

そのカップを洗い、シンクを綺麗に磨きあげた後。

私は、離婚届をリビングのテーブルに置いた。

離婚届に貼り付けた、ポストイットに残したメッセージは。


==========

あなたから、離れたい。離婚してください

==========

こんなに一方的な冷たい言葉を残して消えた女を、最低の女だと憎んで、恨んで、忘れて。

そして、絶対に、絶対に、幸せに生きて。

私にはできなかったけれど…あなたが死ぬ時、手を握って、見守ってくれる素敵な人を見つけてね。

悠人。あなたは私に、愛と人生の喜びをくれた。本当に、本当にありがとう。

本当は、ずっとずっと、一緒にいたかったし、離れたくないけれど…。

誰よりも、何よりも、自分よりも、あなたのことが大切だって、今、心から、思えてるのも本当なの。

あなたが私に、人を愛することが、どれだけ幸せなことかを教えてくれたから。

あとはもう…意識が途切れる最後の瞬間まで、あなたのことを忘れないでいれたら…私はもう、十分。

あなたを思う幸せを私にくれて…ありがとう。




▶Next:10月25日 金曜更新予定
悠人の妹萌が登場。彼女の恋の行方は?













東レデート
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