いつまで経っても、女は女でいたいー。

それは、何歳になっても、子どもができてママになっても、ほとんどの女性の中に眠る願望なのではないだろうか。

いつまでも若々しくいたいという願いや、おしゃれへの欲求、それに少しのときめき。自由やキャリアへの未練。

そんな想いを心の奥底に秘めながら、ママとなった女たちは、「母親はこうあるべき」という世間からの理想や抑圧と闘っているのだ。

出産を機に仕事を辞め、専業主婦として毎日を過ごす川上翔子(34)。

夫と一人息子と、幸せな毎日を送っていたはずだったが、元同僚の結婚式に呼ばれた日を境に、彼女の人生が再び動き始めるー。


◆これまでのあらすじ

専業主婦の翔子は、結婚式に招待され、7年前に辞めた会社の同僚たちと久々に再会する。

自分以外の全員がキャリアアップし最前線で働いている現実を目の当たりにし、なぜか引け目を感じてしまう翔子だったが…。



翔子は、元上司・千尋とランチをするため、表参道の『ブノワ』に来ている。

「本当はシャンパンでも…と言いたいところだけど。昼間からそういうわけにもね」

千尋はおどけてそう言うと、翔子とスパークリングウォーターで乾杯した。

このお店は、近くに会社を設立して以来、千尋の行きつけのランチ場所なのだという。

「翔子、そのピアス素敵ね。よく似合ってる」

「ありがとうございます。結婚5周年のときに夫にプレゼントしてもらったんですが、なかなかこういうピアスをつけて出かける機会もなくて。子供追いかけたりバタバタしてると、アクセサリーもなんだか邪魔ですしね」

憧れの千尋からお気に入りのピアスを褒めてもらい、照れてモジモジしてしまう。

千尋は昔からいつも、身につけているものや些細なことに気を留めては「素敵ね」「すごくおしゃれ」と面と向かって褒めてくれる。そんな細やかな優しさが、翔子は大好きだった。

「そういう揺れるタイプのピアスは、子育て中はなかなか難しいわよね。玲が赤ちゃんだったとき思い出すわ。ネックレスを力任せにちぎられたりね」

「子育てあるあるですね」

砕けた口調で言ったものの、翔子はこのシチュエーションにやはり少々緊張している。同時に、非日常の空間に心は踊っていた。


憧れの女社長とのランチ。緊張と嬉しさが入り混じる中、話は想定外の方向へ…?

玲、と一人娘の名前を出したときに、千尋は愛おしそうに目を細めた。その表情を見て、翔子は微笑ましい気持ちになる。

「玲ちゃん、元気ですか?」

「元気よ。もう中学2年生よ。身長なんてそのうち抜かれそう」

「わあ、びっくり。もうそんなに大きいんですね」

「本当に時間が経つのは早いわね。あんな忙しい頃に小さい子を抱えてたと思うと、当時は体力あったのね。まあ、あのころは夫のサポートも多少はあった気もするけど」

千尋はそう言って肩をすくめた。

翔子たちが千尋の下で働いていた当時、千尋は結婚していた。大恋愛の末、デザイナーの夫と学生結婚したと聞いていたが、離婚したのは翔子が結婚するのと同じ頃だった。

「あのときの玲ちゃんと、今、うちの子が同じくらいです。子育てに手一杯の私にはとても考えられません。本当に千尋さんはすごいですね」

「そんなことないわよ。全然両立なんてできてなかったの。結局玲はほったらかしになっちゃって、寂しい思いもさせたわ。おかげでやけにしっかりした子に育っちゃって、結果良かったかもね」

「私、最近思うんです。子供って意外と親の心配をよそに、しっかり成長していくんですよね…」

翔子がそう思うのにはきっかけがあった。

それは、まさに先日の結婚式の日だ。ママっ子の航太は寂しがっているのではないかとか、いじけてふてくされてるかも、なんて思い込んでいたのだが…。

「この前の結婚式の日も、急いで息子のためにケーキを買って帰ったんです。罪滅ぼしのつもりですよ。そしたらパパとリビングでテレビゲームをやっていて“えー。ママもう帰ってきちゃったの?”って残念そうに言われちゃいました」

「おかえり、寂しかったよって抱きついてくれるの期待してたわけね」

「どうやら、その時期はもうとっくに終わってたみたいです」



翔子が頷いて笑うと、同じように笑顔を見せた千尋が、急に真剣な顔をした。

「ねえ、翔子。単刀直入に言うわ」

翔子は驚いて、千尋の言葉を待つ。

「え?なんでしょう…」

「うちの会社の業務は少し話した通り。大きく言うと、訪日外国人向けのコンシェルジュサービス。要は駐在するための生活基盤から観光までアテンドする何でも屋さんってところなんだけど…あなたの力が必要だわ。うちの会社に来ない?」

「え!?」

「当時、あなたにしてもらっていたことを、またやって欲しいの。翔子の丁寧できめ細かな対応、お客さんから絶賛されていたでしょう。何年も留学していたってだけあって語学は完璧。それにこの間、まだ英語の勉強続けているって聞いて安心もした。ねえ、真剣に考えてくれないかしら」

「え。あの…私、そんな…」

驚きのあまり言葉が出ない。まさかこんな展開になるなんて思いもしなかった。


千尋からの誘いに驚く翔子。じわじわと嬉しさがこみ上げるが、夫の反応は?

翔子の様子を見て、千尋は先にフォローをした。

「急に言われても困るわよね。でも、少しでもその気があるなら、旦那さんに相談してみてほしいの。あなたの実力を最大限発揮できる場所だって知れば、きっと応援してくれると思う。

実はうちの会社、子持ちスタッフが中心なのよ。だからそこの融通については大丈夫。シングルマザーの私が求めていた環境を自ら作ったって言えば、少しは安心するかしら」

「あの…私、今まで働くなんて考えてもいなくて…」

「もちろん返事は急がなくていいの。ゆっくり考えて。…とにかく、連絡待ってる。良い返事を期待しているわよ」

千尋はそう告げると、次のアポの時間が迫っているからと言って、翔子の分のデザートだけ頼み、パッとお会計を済ませて去って言った。

タイトスカートとピンヒールが似合う、相変わらず完璧な後ろ姿を、翔子は目で追った。

一人取り残された翔子は、しばらく混乱に陥ったままだった。いつしかテーブルに運ばれてきた美しいデザートを見つめながら、心が温まっていくのを感じる。

今さら社会に出るということは現実的ではないかもしれない。なにより家庭の都合があるので、一人で決めるわけにはいかない。

それでも、そう声をかけてくれる人がいるという事実が、ただ嬉しかった。しかも、憧れの千尋がまだ自分を評価してくれていたのだ。

小学校に入った息子は、昔ほどはもう母親に甘えてこないと先日痛感し、寂しく感じたばかりだ。だからこそ「あなたが必要」と言われる状況に、胸が熱くなる。

思わず、笑ってしまう。まるで恋に落ちたようなときめきを、翔子は感じたのだ。



その夜、航太が寝たのを見届けると、オンライン英会話のサイトを開いた。圭一が帰ってくるまで、まだ少し時間がある。

このオンライン英会話は定額制のサービスで、主婦のお小遣いでも十分楽しめる。それに、ときおり英語に触れると頭がすっきりする気がするのだ。

翔子は帰国子女でもハーフでもない。それでも英語を仕事にしようと奮闘した。

日本のごく一般の家庭で生まれ育った翔子が、語学堪能といわれるレベルまで達するのには苦労もあった。高校、大学時代に留学もし、帰国後も勉強を怠らず、前職についたのだ。

誇らしかったし、仕事にやりがいも感じていた。大変だったけれど、クライアントに喜ばれ、そして上司の千尋に評価されることが嬉しかった。

―私、どうして仕事を辞めたんだっけ…。

はじめてふと、疑問に思う。

―結婚して、それでも精一杯働いて…妊娠して、それで…。

翔子は急にあることを思い出し、ぱっと画面から顔を上げた。

ーそうだ。私、夢があったんだ。

そのとき、玄関の鍵が開く音がする。間も無くして、圭一がリビングに現れた。

「おかえりなさい。何か食べてきた?」

翔子は、立ち上げている途中のオンライン英会話のサイトを閉じた。

「ああ。食事は大丈夫」

圭一はそう言いながら冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、上着も脱がずにプルタブを開ける。

「ねえ。パパ」

「ん?ママも飲む?」

いつしか、パパ、ママと呼び合うのが当たり前になった二人の関係。

だけど今は、ママでも妻でもない居場所が翔子を待っている。

圭一は小さなグラスにビールを注ぐと、翔子に差し出した。

「今日、千尋さんに会ってきたんだっけ?すごいな、女社長だなんて」

「ねえ。その話なんだけど、私、千尋さんに誘われたの」

グラスを持つ手に、自然と力が入る。

「千尋さんの会社に、ぜひきてほしいって」

「え?」

「圭一、私、仕事してもいい?」

もう少しタイミングを見てから相談するつもりだったのに、いきなり切り出してしまったことに自分でも驚く。でも翔子はそれほどに、希望のようなものを見出していた。

圭一は、なんと答えるだろう。シミュレーションさえしていなかったので、想像もつかない。

夫の表情を伺うのが怖くて、視線を上げられなかった。翔子は、グラスの中で消えていく小さな泡をひたすら見つめていた。


▶NEXT:12月18日 水曜更新予定
「働きたい」と夫に告げた翔子だったが、その答えは?一歩を踏み出すために奮闘するが…。