「できれば幼稚舎、ダメなら青山」

夫の一言で始まった息子のお受験。

渋谷区神宮前アドレスを手に入れ、理想の結婚をしたはずの京子だったが、とある幼児教室の門を叩いた日から、思いがけない世界が待っていた。

皆一様にネイビーを基調とした清楚な服装をしているが、そこは高学歴、ハイスペック妻たちの戦場だった。

可愛い我が子のために、全てを犠牲にして挑む、驚愕のお受験物語。



2019年夏の終わり。

間山京子は憂鬱だった。

5歳の息子・隼人の手を引いて歩いているのは、車一台がようやく通ることのできる表参道ヒルズの裏通り。

白いポロシャツに折り目正しい半ズボン、ファミリアで買った木綿のツバ付き帽子の隼人。京子は独身の時プラダで買ったネイビーのワンピースを着ている。当時は背伸びして買ったものだが、34歳になった今、年相応の上品さを演出できるお気に入りだ。

2人の横をベンツがゆっくりと通り過ぎ、少し先で止まった。

隼人と似たような格好の小さな男児とその母親が降り立ち、角の建物に入っていく。入口の小さな看板にはネズミの絵とともに『グリグラ幼児教育研究所』と書かれている。

そして京子達も、吸い込まれるように、その中に足を踏み入れた。


足を踏み入れたお教室は幼稚舎・青山の合格率を誇る有名塾だった。そこで、驚くべきお受験の実態を知る…

ここは夫の春樹が「会社の同僚が子供を通わせていた」という幼児教室で、今日はサマースクールの初日なのだ。

隼人は、年中だから来年2020年の11月が受験本番。そのため、このサマースクールは受験本番1年前の今年11月から始まる新年長クラスに向けての準備講座であり重要な位置づけとなっている。

「ママ、こないだのハワイ楽しかったね」

緊張気味の京子をよそに、隼人が明るく言った。

今年の夏のはじめ、隼人と京子はハワイで夏を楽しんだ。幼稚園のママ友たちと子連れハワイ旅行。

「来年になるとお受験で忙しくて行けない人もいるから」と仲良くしているママに誘われ、ママ友4人プラス子供達と10日ほどコンドミニアムを借りたのだ。

その旅行から戻るやいなや、夫が放った一言が、京子の憂鬱の原因で、こうして暑っ苦しい格好で歩いているきっかけでもあった。

「隼人を私立の小学校に入れたい。できれば幼稚舎、ダメなら青山」

ハワイの土産話を聞くのもそこそこに、春樹は言った。

「幼稚園が一緒のみんなは、小学校はどうするんだ?」

いつもは子供の教育に無関心な夫が、突然小学校の話をふってきたのだ。

「私立と公立、半々くらいかしら。ほらこのあたりは青南小学校や神宮前小学校が近くて学区もいいじゃない?」

「この辺に住んでいる同僚が言ってたけどさ。学区がいいと言っても中学受験が加熱してるから、最近はとりあえずみんな小学校受験させるらしいよ。そいつも娘は青山だって。うちの隼人も受験させよう」

―また始まった。

春樹という人は、仕事以外のことはもっぱら周囲に影響されがちなのだ。

そもそも今の京子の生活だって「俺の周りの人は保育園じゃなくて幼稚園に入れている」と春樹が言い出したことから始まっている。

しかも、神宮前2丁目のマンションをプレゼントしてきた姑から「家賃もなくなるし、子育てに専念するためにお仕事辞めたら?」とチクリと刺され、隼人が幼稚園に入園するタイミングで、しぶしぶ仕事を辞めたのだ。

大手広告代理店「ウィル・ヴェンダーズ」へはコネ入社だが、40歳にして売れっ子コピーライターの名をほしいままにしている春樹。早慶出身でもないのに、同社でもトップクラスの年収2,000万を稼ぎ出している。

そんな彼の才能と仕事への貪欲さを京子は尊敬している。  

それに、春樹は女性にモテる。独身の頃、同じ職場だった京子は、そのことをよくわかっている。

京子自身は早稲田の国際教養学部を卒業し、コネなしでウィルに入社。その上、春樹を勝ち取り、結婚し子供まで産み、神宮前に住んでいる。今の生活は自分の努力で得た人生の戦利品だ。

そのせいか常日頃から、彼が「こうしたい」という意志をついつい尊重してしまう。





教室に入るや、ホワイトボードに向かって並べられた机に子供たちは案内された。

一方、保護者は別室で「お受験説明会」に参加する。平日だからか、父親の参加は2、3名ほどで、ほとんど母親で席は埋まっていた。

皆一様にネイビーを基調とした地味な服装ではあるけれど、バッグのエルメス率の高さといったら…。京子は場違いなところに来てしまったと既に後悔し始めていた。

ほどなくして清楚だが華のある年配の女性が入ってきた。

「お暑い中お越しいただきまして、有難うございます。年中のサマースクールと11月から始まる新年長クラスを担当する東山です」

京子も周りに倣ってお辞儀をする。

受験までのスケジュール、家庭学習の行い方……。東山先生は順序立てて説明を始めた。京子は漠然とメモを取りながら思った。

―子供に本当にこんなことさせるのかしら?

「本当にこんなことしないと受からないのかしら?と思っているご両親さまがこの中にはいらっしゃるでしょう」

突然、京子の心の内を見透かしたように東山先生の声のトーンが上がった。

京子がドキッとして顔を上げると、先生と目が合う。じわっと手汗が滲むのを感じる。

「そこの窓際のお母さま」

東山先生はじっと京子を見ていた。

「何をすればお子さまはご希望の小学校に入れるのでしょうか?」

「お教室での復習をきちんと行うことですか?」

声を振り絞るようにして答える京子だったが、ありきたりの言葉しか出てこない。

「そうね。それも大事ですが。普通に受験したら、普通に落ちます。それが現実です」

京子は苦笑いするしかなかった。

「受験は、“家族のオーディション”みたいなものです。学校に選ばれなくてはなりません。そこで、合格を勝ち取るために、私の考えではやることは3つ。1つは良縁をつかむこと。2つめはお子さまをキラリと光る子供に仕立てること。3つめは……お母さま、あなたが女優になること!」


とんでもないところに足を踏み入れてしまったのかもしれない、と思う京子だったが。とうとうお受験を決意…!?

ー女優?

冗談にしか取れない先生の言葉。しかし、周りを見ると、皆、神妙な面持ちでうん、うんと頷いている。

「つまり、お子さまの前では女優になりきって下さい。学校から求められるのは、自校の教育方針に共感し、子供に溢れるほどの愛情を注ぎ、清楚で、堅実で知的な母親です。そういう母親を演じていただきたいんです」

ー清楚で堅実って…。時代錯誤じゃないの?

思わず鼻で笑いそうになる京子。

「例えば、お食事はUber Eatsや外食はやめて、なるべく手作りを。お掃除もハウスクリーニングをお願いしている方もいると思いますが、お子さまと一緒にお掃除やお片づけをしてみて下さい」

お受験と外食や掃除ってどう関係があるのかしら、と呆気に取られる京子。東山先生の言葉はまだまだ続く。

「四季折々の出来事や変化を大切に。年末はご家族でハワイはやめて、自宅で手作りのおせち料理をいただき、お子さまとカルタや羽根つきを楽しんでください」

大変なところに来てしまった、と京子は思った。

しかし、東山先生の話術と洗練された物腰、グイグイと引っ張る指導力に感心もしていた。

「10年ほど前、私もお受験を経験しまして。うちの子は今、塾高に通っています」

つまり、東山先生はかつての幼稚舎生の母、ということだ。なるほど威風堂々たる「名門私立生の母の威厳」を醸している。

「今日から皆さんには、そういう母親を演じていただきたい。お受験の主役は、お子さまではなくお母さまです」

はじめは疑心暗鬼だった京子だったが、東山先生の物言いにすっかりハマってしまい、この先生についていけば『幼稚舎合格』も夢ではないのかもしれないと思い始めた。その一方で、お教室ママたちの異様な雰囲気に怖気づいてしまったのも事実だった。



「それでね、私一人では難しいのよ。お休みの日には公園で逆上がりや縄跳びを見てあげて欲しいの」

その夜。

神宮前の自宅に戻った京子は、東山先生に言われた通り、手料理を作り絵本を読み聞かせて隼人を寝かしつけた。そして、春樹に今日1日の話を報告していた。家庭での生活が大切なことや、食育、父親との関係性が全て成果となってあらわれること。

「小学校受験ってそんなことしなくちゃ入れないの?俺は忙しいし無理だよ」

「あなたが幼稚舎か青山って言い出したのよ」

言い出した本人がお受験とはなんたるかを全く理解していなかったのだ。

「だいたい年中の夏から受験対策を始めるのだって、かなり遅い方だし、サマースクールだってキャンセル待ちして、たまたま運良く入れたんじゃない」

京子は必死だった。それなのに…。

「俺の先輩は子供が3人いて奥さんが全て1人でやって、1番上は暁星、下2人は青山だって。だいたい月10万も払ってお教室通いさせるのに、なんで教室で全部やってくれないんだ?俺まで協力しなくちゃいけない理由がわからない」

京子は黙って春樹の文句を聞いていた。

「……わかったわ」

言い返しても倍返しになるのはわかっている。やり場のない苛立ちで、頭の芯がチリチリと音を立てているようだった。

「牛乳買い忘れたから、コンビニ行ってきます」

京子はiPhoneと財布を片手に立ち上がった。

「俺のコーラもね」

何食わぬ顔で被せるように自分の用事を言いつける春樹。



1階に降りると、コンシェルジュと目を合わせないように、足早にフロントを通り抜ける。外に出るとじわっと涙が溢れてきた。

すると、春樹からLINEが。

「子育てくらい、1人でやれよ」

京子は空を見上げると大きく息を吸い、無言で歩いた。

―チクショー!ざけんな!

京子は物理的には理想の結婚生活を送っている。

だが実際心の中ではこうした罵詈雑言が時々浮かんでは消えていくのだ。

その時。

手元に振動を感じてiPhoneを見るとLINEのポップアップが。『高野リナ』とある。今日幼児教室で出会った“女の子ママ”だ。

小学校の考査は男女別だから、同性の子供がいるママと仲良くしても結局ライバルになってしまうから“男の子ママ”である京子なら友達になれそう、と言われてLINEを交換したのだ。

『今度、千葉で稲刈りがあるの。子供たちの体験学習のために、一緒に行かない?』

早速、お教室ママたちとの交流が始まってしまったことに、嫌な予感を感じながらも思わず『ぜひ!隼人も喜ぶと思います』と返信してしまう京子だった。


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