見た目も仕事も隙がなく、完璧な女。

周囲からは“憧れの的”としてもてはやされるが、そんな人物にこそ、裏の顔がある。…完璧でいるためには、ストレスのはけ口が必要だからだ。

PR会社で多忙を極める28歳の綿谷あんなは、求愛してくるいろんな男のもとを毎晩泊まり歩き、決して自宅に帰らない。

母親の“呪い”に、乱れた生活。そして歪んだ自尊心…。

これは、そんな女が立ち直っていくストーリーだ。



「え、もうお帰りですか?」

その声に、オフィス内でちらほら残っていた数人の視線が集まる。

「うん、間に合ってよかった」

立ち上がった女…あんなは微笑み、コートに袖を通した。

「お先に失礼します」

カツ、カツ。響くヒールの音が小さくなっていくと、どこからともなくため息が漏れた。

「すごいよな。代理店が『明日朝イチまでに企画書ほしい』って言ってきたの、20時すぎだぜ?」
「テッペン回ってるのに化粧もばっちりだし、疲れた感じも全然なくて、綺麗で優しくて」

キーボードを叩く手を止め、男は天井を仰ぐ。

「本当、完璧すぎるよ。…綿谷あんなさん、彼氏いるのかなぁ」

ぼやく言葉に「超ハイスぺ彼氏いるに決まってるから諦めな」と別の男が一刀両断したことで、会話は途切れた。



コインロッカーの操作画面を、あんなは手慣れた動作で弾く。スマホに画面をかざすと、カチャッとロックが外れる音がした。

「よいしょ」

開いた扉から、膨らんだボストンバッグを引っ張り出す。この姿を誰にも見られたくない。そんな思いから、自然と足取りが早くなる。

幸い、タクシー乗り場には誰も並んでいなかった。あんなは乗り込んだタクシーの背もたれに身を委ね、瞼を軽く閉じる。じんと目の奥に痛みを感じ、そこで初めて疲れていることに気づいた。

「すみません、ANAインターコンチまでお願いします」

そう、疲れているのだ。PR会社に入社し6年。花形の部署は、広告代理店とクライアントに振り回されるブラックな部署。

― でも私は完璧でいたい。疲れた顔も余裕のなさも、仕事の失敗も皺くちゃな服も、絶対に見せたくない。

だけど完璧でいるためには、ストレスのはけ口が必要なのだ。


何のためのボストンバッグ?あんなが向かった先は…

『3125』と書かれたプレートを見つけ、ベルを押す。少しの間を置き、ドアが開いた。

「工藤さん、こんばん…」

言い終わる前に、たくましい腕に抱き寄せられる。

「あんな、お疲れ様」

180cmを優に超える長身から額に落とされるキスがくすぐったくて、あんなは身をよじる。工藤は華奢な体に回す腕の力を緩め、髪を撫でてきた。

「こんな時間まで大変だったね。ご飯は?」
「食べてないの。もう今日はいいかなって」
「だめだよ、体は資本。たくさん働いたら、ちゃんと食べないと」

ようやく身を離した彼は、サイドテーブルの引き出しからメニュー表を取り出した。

「ナイトメニューなら今の時間も持ってきてくれるから、よかったら頼んで」
「いいの?」
「あんなのためなら」

彫の深い端正な顔に優しく見つめられ、あんなは小さく笑った。

モデルの経験もある優れた容姿で、年収2,000万の外資系コンサル。34歳で独身の工藤は、誰もが羨み付き合いたいと願うだろう。

「じゃあ頼もうかな。その間にお風呂入ってきてもいい?」

上着の袖を抜きながら言うと、すぐに彼はあんなの後ろに回った。そしてコートを脱がしながら、首筋に唇を寄せる。

「もちろん。スマホは充電しておく?」
「ありがとう、全然充電ないの。…あ、白ワインも飲みたいな」

仰せのままに、と恭しく言う工藤は、悪戯っぽく口角を上げた。





「そうだ」
「ん?」

あんなはクラブハウスサンドをかじりながら、工藤に目を向けた。白ワインのグラスを手にした彼が、ベッドサイドテーブルを指す。

「お風呂入ってる間、スマホ鳴ってたよ」
「そう?」
「うん、何回も」
「へえ」

工藤は諦めたように苦笑し、あんなの左手に手のひらを重ねた。

「まあいいや。来週の金曜も会おうよ」

あんなは咀嚼を止め、顔を上げた。ワインを一口飲んでから「あのね」と言葉にため息を混ぜる。

「工藤さんといつ会うかは、私が決めるの」

言いながら、左手に絡められた彼の指をほどく。

「私が会いたいときに会う。そういう約束でしょ?」
「そうだね、失礼しました」

怒らないで、と工藤は肩をすくめた。あんなは立ち上がり、充電ケーブルがささったスマホを手に取る。LINEが5件。

「…男?」

いつのまにか背後に立っていた彼が、後ろから抱きしめてきた。

「気になる?」

そう言ってあんなは、くすりと笑う。

「いい加減、俺だけのものになってほしいんだけどな」

耳元の囁きが、心地よく自尊心を満たしていく。

LINEはもちろん、男からだ。あんなを求めて止まない医師と、IT企業の経営者。誰もが羨むハイスペックな男に求められている。

何着もの服とメイクセット、スキンケア用品が入ったボストンバッグを抱え、あんなは毎晩違う男のもとに帰る。

『完璧な自分』でいるための、大切な大切なルーティンだからだ。


あんなが家に帰らない、衝撃の理由

翌日、25時半。

上から2番目、左から3つ目。仕事終わりのだるい体でコインロッカーから荷物を取り出し、あんなはルブタンのヒールを鳴らす。

タクシー乗り場に向かいながら、バッグの中で振動したスマホを手に取ると『4件の新着メッセージ』をポップアップが教えてくれた。

うち3件は『ママ』と表示されている。そっと親指で長押しして、既読をつけないようにトークを開く。

“あっちゃん、元気してる?”

“忙しいと思ったから、簡単に食べられるものを送ったよ!受け取ったら感想教えてね♪実家に帰る暇もないくらいあっちゃんを忙しくさせるなんて、ひどい会社だよねー!”

“りんちゃんが全然就活しないから困ってる。声優になりたいから、オーディションを受けるって。このままだとニートまっしぐら。姉のあっちゃんがこんなに働いてるのに妹がニートじゃ、恥をかく。考えてたら昨日も眠れなくて…”

3通目のLINEは、文字数が多くて表示しきれなかった。ぐん、と心が重くなる。

母親に依存されていると気づいたのはいつだったか。

妹のりんがフリーターになってから、従来の情緒不安定さに磨きがかかり、返事をしなくても読み切れない量のメッセージが送られてくるようになった。

そんなとき、脳裏に蘇るのだ。

「あんたなんか、産まなきゃよかった」



薄らぐ幼少期の記憶の中で、母親の呪いのような言葉が今もあんなをとらえている。

何度も繰り返し言われたのだ。幼稚園の頃。小学生になってから。中学校に上がっても。

きっと母に指摘したら「そんなこと言ったっけ」と笑うだろう。年の離れた妹が思い通りに育たないことに気づいてから、手のひらを返してあんなを大切にし始めたんだから。

なんて都合が良いんだろう。そう思いながら、軽く瞼を閉じる。

― でも、今のママは私を必要としている。

あんなもまた、母親の愛を求めて依存していた。

タクシーに乗り込み「西麻布まで」と伝える。今夜の男は、あんなを一番愛している医者。どんな態度でも受け入れてくれて、ギスギスした気持ちを晴らすにはうってつけだ。  

そんなことを思いながらもう1通のLINEを開き、思わず眉間に皺が寄った。まさにその医者から「風邪をひいたので今日はごめん」というメッセージが届いていたからだ。

時刻は25時49分。今から他の男を捕まえられるか…。逡巡するが、確率は五分五分だ。

「…すみません。やっぱり中目黒でお願いします」



『402』と書かれたドアだけ、他の部屋よりも陰鬱なオーラを放っているようだ。あんなは鍵を挿し込み、扉を開ける。

玄関は、足を踏み入れるだけで転がった靴を踏んでしまうほど散らかっていた。足でブーツやパンプスを端に寄せ、ヒールを脱ぎ捨てる。

廊下に積みあがった段ボールの上にバッグを置き、脱いだコートを適当に投げた。

電気をつけると、放置された服や色んなもので、足の踏み場もない。冷蔵庫を開き、かろうじて入っていたミネラルウォーターを口に含んだ。

10畳1Kの、ひとり暮らしの部屋。ベッドに積んでいた衣類と書類を一気に床へ落とし、倒れこむ。

顔を横に向けると、化粧品やいつ空けたか分からないワインボトルの転がるローテーブルがちらついた。

「…こんな部屋、大嫌い」

自分の嫌なところを、ぎゅっと凝縮したような部屋。 横たわったまま、手のひらで目を覆う。頑張っても、どうしても、片づけられない。

― だから私は、男の元を転々とするしかないんだ。


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“完璧”に物事をこなす、ほころびだらけのあんな。そんな彼女に衝撃の出会いが…。