大抵どんな夫婦にも、互いに“秘密”があるものだ。

『愛しているからこそ、全てを知りたい』

そう考えた一人の男がいた。

愛しすぎることは、罪なのか……?

◆これまでのあらすじ
里紗の最愛の夫・毅は、出会う前は里紗のストーカーだった。毅の提案により、里紗は離婚を決意するが、離婚届を提出することができないまま…。

▶前回:「そんなこと言うから、別れたくなる…」夫がウンザリする、妻の絶対NG発言とは?



里紗が区役所に行くことを躊躇してから1週間。離婚届はいまだに提出できないまま、リビングテーブルの上に置かれている。

― 毅さんとやり直したい。

そのためにはすぐにでも毅と連絡を取り、もう一度話し合うべきだ、と里紗は頭では理解している。しかし、この1週間それができないでいる。

理由は分かっている。

怖いのだ。

毅と向き合うことが怖くなっていた。

しかし、なぜ怖いのか、その理由が里紗は自分でも分からない。

― 最愛の夫と向き合うことが、どうして怖いの?

里紗は自分自身に問いかけるが、答えは出なかった。心の中の大事な一室に鍵をかけられているような感覚だった。その部屋に、毅と向き合うことに恐怖を抱く理由が、眠っているはずなのに。

シャワーからあがり、夕飯も食べずにソファにうずくまり途方に暮れていると、床に置いていたスマホが震えた。

麻友からのLINEだった。

『元気?久しぶりにランチでもしない?』

気が置けない友人からの誘いは、今の里紗にとって渡りに船だ。

― 毅さんとのこと、相談してみようかな。

美容皮膚科に医師として勤める麻友は、火曜日が休みだ。月火をフードデリバリーの定休日としている里紗と、予定が合いやすい。

だが約束の日、指定された代官山の老舗カフェに行くと、里紗は頭が真っ白になった。先に店に着いた麻友が、サプライズゲストを呼んでいたのだ。その人の顔を見て、血の気が引いていく。

「え、なんで…?」


里紗の前に現れた人物とは…!?

「いつも、お世話になってます」

ニコリと笑って頭を下げたのは、梓だった。

麻友は、梓が毅との離婚問題の発端となった人間だとは知らないのだろう。

梓の隣に座る麻友は、サプライズ成功とばかりに笑っている。

「ビックリしたぁ?」

聞けば、麻友は最近になってヨガスクールに通い始め、そこで梓と知り合い、仲良くなったそうだ。

「梓ちゃんが、里紗の下で働いてるって聞いて。私、驚いちゃって!」

「私も驚きました。こんな偶然、本当にあるんですね、って里紗さんにも早く、お伝えしたかったのですが」と梓が言う。

それはおかしい、と里紗は思った。梓とは毎日のように仕事で顔を合わせているのだから、いつでも言えたはずだ。

梓は、里紗の疑念に気づいたのか、先回りして言う。

「仕事ではプライベートの話はほとんどしないので、言いそびれてました」

「…そうなんだ」

里紗は、愛想笑いで返す。

その後、ランチメニューを見ながら楽しそうに話し始める麻友と梓を見て、里紗は心に決めた。

― 余計なことは言わずに、今はただこの場をやり過ごそう。

しかしオーダーを終えると、梓が口火を切る。

「最近、里紗さんはご主人と、どうなんですか?」

梓は含みのある笑みを見せる。

「仕事中にはプライベートのお話って、ほとんど聞かないので、せっかくのこういう機会で、聞いてみたかったんです」

「うまくいってるでしょ〜」

里紗が答える前に、麻友が言った。

「だってインスタで見たよ?みんなの前で『今の自分があるのは里紗のおかげだ』ってスピーチしてたんだよ?」

里紗は気まずくなり俯いた。しかし麻友はそれに気づいていないようで、梓に同意を求める。

「梓ちゃんも、そう思わない?」

「インスタですか。それは私も見ました」

里紗が少し顔を上げると、すべてを見透かしたような目をしている梓と目が合った。

「本当に素敵なご主人ですよね。そしたら結婚生活は、やっぱり、うまくいってるんですね。良かったです」

まったく心がこもっていない声で梓が言う。

里紗はいたたまれなくなった。なんだかんだ言っても、梓とは、週に5日も顔を合わせている。1週間前の発注漏れなど里紗の仕事ぶりを見て、梓は勘付いているのだろう。

そのうえで、里紗と毅の結婚が破綻していく様を楽しんでいるようにみえる。

― どうせ、うまくいっていないことがバレてるんだから、これ以上隠しても意味ないわよね…。

梓には絶対に言うまいと思っていたが、里紗は真実を告げることに決めた。

「それが実は…離婚しそうなの」



「えっ?」と言ったきり麻友は言葉を失っている。一方の梓は、口角がクイッと上がっていて、笑みを嚙み殺しているように見える。

「この前、麻友に相談した直後はうまくいってたんだけど…。その後、彼に『離婚したい』って言われたの…」

「毅さんのほうから?なんで?どうして?」

困惑した様子で尋ねてくる麻友に、里紗は一つひとつ答えながら経緯を丁寧に説明した。

「二人ともハンコを押した離婚届は私が持ってて…私が出すはずだったんだけど…出せないまま家にある。離婚したくないの」

気づけば麻友は、里紗の背中をさすってくれている。その時になって初めて、里紗は自分が体を小さく震わせながら話していると気づいた。

「私は離婚したほうがいいと思いますよ」

飛んできた冷たい声に、うつむいていた里紗は思わず顔を上げる。

梓が深刻そうな表情を大袈裟に作って、話していた。

「だって、ご主人は普通じゃないですもん。うまくいかないのは目に見えていたじゃないですか」

「梓ちゃん、急に何を言いだすの?」

驚きのあまり、里紗の背中をさすっていた麻友の手が止まる。

しかし、梓は麻友の問いには答えず、里紗にだけ言葉を投げかけてきた。

「いくら愛妻家だからって、愛し方が異常すぎませんか?あんなに奥様を甘やかす人間はいませんよ。それを求める里紗さんも異常です。お二人とも普通じゃないです」

梓はフンと鼻を鳴らし、バカにしたように笑った。

「ご主人と一緒にいて、里紗さんまで普通じゃなくなったんですね」

「…私が、普通じゃない…?」

反論する気力もなく、里紗は復唱するだけだった。

「夫婦とも普通じゃありません。異常な夫婦です」

もう里紗は言葉が出ない。

「このことを、ずっと言いたかったんです。里紗さんと二人きりで話しているときじゃなくて、他にも人がいるときに伝えたかった。それで、わざわざ麻友さんと同じヨガ教室に通って、今日のランチ会をセッティングしてもらいました」

麻友は、自分が連れてきたヨガ仲間の本性を知り、衝撃を受けたようだ。口をぱくぱくするだけで何も言わない。

「私は、お二人が許せないんです」

瞬間的に顔を険しくさせて梓は言った。

「その理由は分かりますよね?」


梓がついに本音を吐露する…。里紗と毅の仲を壊したかった理由とは…?

「どんな理由…?」

里紗は、なんとなく答えが分かっていた。けれど梓に話してほしかった。彼女が初めて本心をむき出しにしていたからだ。

「昔、里紗さんのご主人と…榊原毅と、付き合ったせいで、私が不幸になったからです」

― やっぱり、そういうことだったのね。

梓は続ける。

「榊原毅って男と付き合ったせいで、私は男性恐怖症になりました。そして、世の中すべての男がストーカーじゃないかって思うようになりました。私、不幸になったんです。それなのに榊原毅は、里紗さんと幸せに暮らしていて、許せなかった」

一気にまくしたてるように、梓は言った。

「榊原毅も、彼が愛した里紗さんのことも、私は許せません」

言いたいことだけ言うと、梓は料理が届く前に会計だけを置いて、店を出て行った。

「ごめんね」

里紗は麻友に謝った。

「…ううん、こっちこそ。なんか、ごめん…こんなことになるなんて…」

「大丈夫。麻友は何も知らなかったんでしょ?」

「うん、知らなかったけど…」

麻友の罪悪感を晴らしてあげたくて、里紗は梓とのこれまでについても、毅との離婚問題を語ったときと同様に、丁寧に説明した。

その後、三人分の料理が運ばれてきたが、里紗も麻友も、二人が食べた分を合わせても、一人分にすらならないほどしか食べられず、大部分の料理を残してしまった。



麻友と解散し、ひとり歩きながら里紗は考えた。

― 梓さんの気持ちが、ちょっと分かるかもしれない…。

おそらくかつての梓にとっても、毅は理想の男であり、毅との生活は理想だったのだろう。

だからこそ毅にストーカー気質があると知って葛藤したはずだ。もし別れていなければ今の自分は里紗の立場にいたかもしれない、と梓は嫉妬したのだ。

― 梓さん、本当は、毅さんと別れたくなかったんだね…。

ストーカー気質のある毅は普通ではない。

普通ではないからこそ、その愛情は、とても深い。

そして、そんな毅に魅了された里紗も、梓も、普通ではない。

梓は、里紗たちのことを「普通ではない」「異常な夫婦」と表現していたが、まさにその通りだろう。

― でも、ちょっと待って…。

西郷山公園の坂道を下っているとき、里紗の足が止まった。

― そもそも“普通”って何よ?

たしかに、毅は里紗のストーカーだった。本人も認めている。だが、違法行為はしていない。

実際、里紗も当初は「気持ち悪い」と感じたが、のちに許した。結婚生活を続けようと思ったのだ。

100人中99人が「私なら許せない」と言ったとしても、里紗は毅を許したのだ。

100人中99人が「普通じゃない」と思っていても、里紗と毅が「それは普通だ」と思っているなら、それでいいではないか。

― 異常な夫婦だって言われてもいいじゃない。

あらためて里紗の心は決まった。

― 毅さんと、もう一度、話し合おう。離婚せずにゼロから夫婦としてやり直したいって伝えよう。

だが、またしても“あの感覚”が里紗に襲い掛かる。

恐怖だ。

毅と向き合うことを“怖い”と感じてしまう。

ただ今の里紗には、その理由が見えつつあった。



固く扉を閉めていた心の一室が、鍵で開いた気がする。

それはまるで梓が本心をすべて吐露してくれたように…。

― 私も、本当のことをすべて、毅さんに話そう。

里紗には、誰にも言っていない秘密が、ひとつだけあった。

それを毅に伝えることが怖かった。

― でも、もう隠してはおけない。

里紗は勢いよく走り出した。


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里紗が抱えていた、本当の秘密とは…!?