PR会社で多忙を極める28歳の綿谷あんな。掃除ができず、散らかった部屋に帰りたくないので、求愛してくるいろんな男のもとを毎晩泊まり歩く。

母親の“呪い”に、乱れた生活。そして歪んだ自尊心…。

これは、そんな女が立ち直っていくストーリーだ。

◆これまでのあらすじ

入社2年目の後輩・祥吾の部屋を訪れたとき「丁寧なくらし」に感銘を受けたあんな。ついに散らかった部屋を「掃除したい」と決意し…。

▶前回:「頑張って片付ければいいのに」後輩男子の正論に、28歳女が返した意外な言葉



あんなは掃除ができない。理由はいくつかある。

そもそも幼少期から、『出したものを元の位置に戻す』ということが大の苦手だった。

大人になったら、そうも言っていられなくなった。職場では物凄い体力と気を遣ってデスク周りを整えている。

しかし自宅は別だ。日々大量の仕事に追われ、真夜中に帰宅すると疲れきっていて、服をハンガーにかける気力もない。そしていざ片付けに臨むと、毎日放置し続けたもので部屋が埋まっている。

そんな中で整理整頓しようとしても、何から手をつけたらいいか分からない。呆然としていると、蘇る母親の声。

―「何であっちゃんはお片付けもできないの?あーこんな子やだ。産まなきゃよかった」

『掃除という行為』が引き金となり、嫌な記憶が再現される。鬱屈として、悲しくなって、落ち込んでしまう。だから掃除がしたくないし、できない。

1K10畳の部屋には、大嫌いな自分が煮詰められている。

今は土曜日の午前11時。いつもなら自宅ではないどこかで、誰かとブランチを堪能している頃だが…。

「…」

あんなは物が散乱するフローリングに座り、握りしめたスマホの画面を睨んでいた。『浅霧祥吾』のトークルームには、お互いを友達登録するために送りあったスタンプしかない。

ふう、と深い息を吐く。男にLINEするのに、こんなに緊張したのは初めてだった。ベージュのネイルに彩られた親指で、ゆっくりと文字を打つ。

『今から電話していいですか?』


あんなのメッセージをきっかけに、思わぬ展開に…

送ってしまった。よし…、と長い髪を邪魔にならないよう一つに結んでいると、すぐにスマホが振動した。

「早っ」

送ってから1分も経っていない。『大丈夫です』と届いたメッセージに安堵し、音声通話を押した。

『浅霧です』

スピーカーから広がる電話越しの声に、なぜかどきどきする。

「綿谷です。ごめんね、休みの日に」
『いえ、全然』

あんなは深呼吸してから、「あのね」と切り出した。

「この前のランチのとき、ごめんなさい。『散らかった自宅が嫌い』って言われたら『掃除すれば?』って返すのは当然の反応だよね」

ぎゅ、と唇を噛む。

「私、一人じゃどうしても片付けられない。…浅霧くんに手伝ってほしい」

祥吾に助けを求める―…悩みに悩んで、決断した。入社当時は研修まで担当した、4つ年下の後輩男子。そんな彼に協力を請うなんて、これまでだったらあり得ないことだった。

『いいですよ』

あんなの葛藤を知る由もない祥吾は、普段と変わらず飄々としていた。

『ていうか、僕もすみませんでした。詳しい事情も知らないのに“頑張って片付ければいい”とか言っちゃって』
「ううん、悪いのは…」

「私だから」とあんなは続けようしたが、祥吾はそれを遮った。

『ちょっと検索してみたんですけど、脳の構造的に掃除できないパターンもあるみたいです』
「え…」
『綿谷さん、掃除しようとすると訳わかんなくなるって言ってたんで、それかもしれないですね』

ショックに言葉が詰まる。脳の構造が原因だなんて考えたこともなかった。

「わざわざ調べてくれたの…?」

絞り出したあんなの声は、今にも泣きそうに震えていた。祥吾は軽い調子で『ググっただけですけど』と続ける。

『だから、あんまり自分のこと責めないほうが良いんじゃないかなって思いました』

ぽろり。目尻から零れた涙が、あんなの頬を伝った。自分の出来が悪いから…努力が足りないから整理整頓ができないのだと、ずっと思い続けてきた。

『とりあえず、今日はベッド周辺とかからどうですか?』

あんなは「うん」と返し、手の甲で目元を擦った。

― 私は今、彼に救われている。





「うわ、この前の冬シーズンに1回しか着なかったニット出てきた」
『その程度ってことですよ、捨てましょう』
「2年前の資料が…」
『捨てましょう』

あれから1時間半。「何が落ちている、どうなっている」とスピーカーの向こうの祥吾に言うと、どうしたらいいか端的な指示が返ってくる。そのお陰で、混乱することなく片付けを進めることができた。

「…」

あんなはすっきりと整頓されたベッドに横たわる。いつもだったら、床はベッドから払い落とした服や資料で埋まっているのが常だった。しかし今は…。

そっと足を下ろすと、フローリングのひんやりした感覚が足裏に伝わった。

「こんな状態、ひとり暮らしして初めてだよ…」

思わず感嘆の息が漏れる。ベッドの周辺が、綺麗に片付いていた。

「すごくすっきりしてて、気分が良い」
『よかったです』

祥吾は小さく笑った。

『朝起きたら、とりあえず掛布団と枕を整えるだけでだいぶ変わりますよ。パジャマは脱いで綺麗に畳んでおくと、帰宅したときさらにテンション上がります』

それくらいだったらできそうだ。あんなは「うん」と頷いた。祥吾がこんなに時間を割いて教えてくれたんだから、きちんとやらないと。

「…そうだ。月曜のお昼、空いてる?」

あんなはスマホでアプリを開き、会議のスケジュールを確認しながら訊ねた。

「よかったらランチ、お礼にご馳走させてくれないかな」


誘ったランチの場で、あんなは祥吾から衝撃的な言葉をかけられる



「浅霧くんは、どうしてこんなに親切にしてくれるの?」

パスタをフォークに絡めながら、あんなは最も気になっていた質問を口にした。

「家に泊めてくれた日はまあ…見ていられなかったっていうのがあるかもしれないけど。この前の掃除とか、浅霧くんにとって何のメリットもないのに」

祥吾は「いや…」と首を傾げた。

「単純にすごい困ってそうだったからっていうのと…」
「と?」

なぜかどきどきして、あんなはアイスコーヒーを一口飲んだ。

「…綿谷さんって入社6年目だから、僕の4つ上ですよね」
「え、うん」
「僕の姉と同い年なんですよ」

予想外の答えに、あんなは手を止める。祥吾は気にする様子もなく、話を続けた。

「僕の姉、3人兄弟の長女だからすごい頑張り屋なんですけど、めっちゃズボラなんです。なんかちょっと綿谷さんに似てる気がして、放っておけなくて」

あんなは、肩の力が抜けていくのを感じた。

「あー…お姉さんのこと、好きなんだね」
「そりゃ、姉に限らず家族のことは全員好きですよ」

しれっと返された言葉が、胸に刺さった。異性に親切にする男は、下心しかないと思いながら、今まで生きてきた。あんなは唇を噛む。

それは、私が下心を利用して喜ぶ浅はかな人間だから、そういう人しか寄ってこなかっただけ。

祥吾はただ、素敵な家庭で育ったあったかい人なんだ。



「…浅霧くんさ。入社してすぐ、私のところで2週間研修したじゃない?」
「はい」
「私の印象ってどうだった?」

頭で考えるより先に、口が動いていた。祥吾が私のことを、特別扱いしてくれていたら…。そんな期待がどこかにあり、一縷の望みをかけたのかもしれない。

「いやー…すごい余裕があって優しいけど、めちゃくちゃ頑張ってるように見えて…」

祥吾はストローを咥え、ウーロン茶を啜った。

「死ぬほど周りを見ていて、気遣いに気遣いを重ねているなぁ…って思ってました」

それは、あんなが望んでいた答えではなかった。

「頑張ってる、ように見えた?」

今だって、他の社員は騙せている。でも、入社したばかりだった彼は違った。見透かされていたのだ。

「…だって、完璧にしなきゃいけないんだもん。死ぬほど周り見て気遣いしまくらないと、完璧な社会人にはなれないんだよ」

マイペースな浅霧くんには分からないよ、と言いそうになり、あんなは言葉を飲み込んだ。お礼をしたくて呼んだのに、勝手に情緒不安定になって責めるなんてどうかしている。

祥吾は悪気があったわけじゃない。良く言えばおおらか、悪く言えば無神経。人が気にしていそうなことを、割とずばずば指摘する。彼はそういう男なのだ。

リゾットを食べながらあんなを見ていた祥吾は、「綿谷さん」とおもむろに口を開いた。

「人間、生きているだけで上出来なんですよ」
「え?」
「生きてるだけで上出来なのに、僕たちはその上仕事して、納税して、経済回してる」

僕だったら…と続ける彼は、普段と変わらない調子で言った。

「そんなに頑張らなきゃいけないなら、完璧でいることは速攻で諦めます」


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祥吾の言葉で、あんなは男たちの元を渡り歩いてきた生活と向き合うが…