PR会社で多忙を極める28歳の綿谷あんな。掃除ができず、散らかった部屋に帰りたくないので、求愛してくるいろんな男のもとを毎晩泊まり歩く。

母親の“呪い”に、乱れた生活。そして歪んだ自尊心…。

これは、そんな女が立ち直っていくストーリーだ。

◆これまでのあらすじ

男として見ていなかった後輩の祥吾に掃除のサポートをしてもらい、部屋を片付けられたあんな。お礼に誘ったランチの場で“完璧な女”を演じていることを、見透かされていたと知る。

▶前回:意識し始めた後輩男子が、自分にだけ親切にしてくれる…。そのショックな理由とは



―『綿谷さんの印象は…。めちゃくちゃ頑張ってるように見えて…』

あんなは職場のデスクでキーボードの上に指を置いたまま、祥吾の言葉を思い返していた。

寝癖が隠せない天パに、垢ぬけない黒縁眼鏡。ひょろりと痩せた体に纏うのは、お世辞にも質が良いとは言えないスーツ。

―『そんなに頑張らなきゃいけないなら、完璧でいることは速攻で諦めます』

あんなを気遣うわけでも責めるわけでもない、本当に何の気もなさそうな普段通りの口調。それがかえって、心をえぐった。

「ゆとり世代のナヨナヨした男の子」という印象だった祥吾は、最初からあんなの虚勢と本質を見抜いていたのだ。



それから数日後の会議室。

「話の分からない人だな!」

あんなは数人の視線が向けられる中、初対面の人間に怒鳴り散らされていた。

「それをどうにかするのがあなたの仕事なんじゃないの!?」

大声を張り上げる大柄な男は、新しいクライアントだ。担当についたあんなが挨拶したときから、ずっとこの調子だった。

「もちろん誠心誠意ご提案はさせて頂きます。ですがご要望の内容だと、現在の予算を大幅に上回っていらっしゃるので」
「そんなもんわかってるんだよ!」

いや、わかってないでしょ。平身低頭しながら、あんなは心の中で溜息をつく。彼が提示する予算は50万円。一方で、希望のPR方法だと80万円はかかる。

「そこを何とか考えて提案してこいよ!」

会議に参加する上司も同僚も、固唾を飲んで見守っている。男は頭を下げるあんなににじり寄り、ふんと鼻を鳴らして笑った。

「あなたね、綺麗だから今まで何とかなってきたのかもしれないけど、俺はそんなに甘くないからね!」


モンスタークライアントへのあんなの対応は



「いやー、担当が綿谷でよかったよ」

会議に同席していた課長の山本は、額の汗を手の甲で拭う仕草をしながら笑った。

あの後、あんなは怒鳴る男をひたすら褒めて愛想よく宥め、その場は何とか丸く収まった。しかし、冗談じゃない。

こちらとしては容姿を引き合いに出して怒鳴られ、セクハラとパワハラの二重被害に遭っているのだ。

初対面の女を大声で威嚇してくる男は、女にひどい扱いを受けた経験があるか、物凄く男尊女卑なのか、両者を兼ね備えているか。いずれにしても、なぜか女を「敵」と見なしていることが多い。

そんなときは、とりあえず懐に入り敵じゃないとアピールするのが一番だ。今回もそれでうまくいったが、こちらのプライドはズタズタだった。

「モンスタークライアントで業界でも有名らしいんだ、あの人」
「はあ…」

げっそりとするあんなをよそに「困っちゃうよね」と、山本は空いている椅子に腰を下ろして得意げに続けた。

「俺さ、あの人がクライアントになるって聞いたとき、お前なら何とかしてくれるんじゃないかと思って『担当を綿谷にしたらどうか』って部長に言ったんだ」

余計なことを…。喉まで出かかったが何とか飲み込み、あんなは無理矢理口角を吊り上げた。

「すみません。私、仕事がありますので」
「ごめんごめん。じゃあよろしくね」

山本の背中に嫌味を投げかけたい気持ちをこらえ、あんなは深く息を吐いた。

今まではこういうことがあっても、余裕のある完璧な女を演じていることの代償だと思い、仕方ないと割り切っていたのだが。

「完璧でいることを、諦めます…か」

祥吾の言葉を反芻する。心を擦り減らしてまで、理不尽な屈辱に耐えるのが本当に正しいのだろうか?思考を巡らせていると、キリリとみぞおちが痛む。

だがこれまで、多少無理をしても『聞き分けのいい女』を演じることで認められてきたのだ。

あんなはもう一度溜息をつき、スマホを取り出した。自分の価値が分からなくなってきた。

誰かに確かめたい、承認されたい…。強い思いに駆られ、気づいたときには自分を最も求めてくる男・西島にLINEを送っていた。





「あんな、俺のことどう思ってる?」

広々としたベッドの中でノートPCと向きあっていたあんなは、西島の突然の問いに首を捻った。

「どうって?」

西島はあんなの肩に腕を回し、抱き寄せた。

「俺はあんなのこと、本気で好きだし、真剣に付き合いたい。俺だけのものになってほしい」

熱っぽいまっすぐな視線を感じる。普段なら、これで満たされた気持ちになっていたのだが。

「…何度も言っているけど、今はまだ誰とも付き合う気がないの」

西島の言葉が全く響かず、いつものように弄んで優越感を得る気にもなれない。液晶モニターに目を向けたままカーソルの操作を続けるあんなの右手を、西島は苛立ったように押さえつけた。

「人が話してるのに、さっきから何してるんだよ」
「いや…この俳優の口周りの髭の剃り残しをね、明日の朝までに修正しておかないといけなくて」

明日の朝までにね、と強調しもう一度繰り返す。西島は諦めたようにゆっくりと手を離した。

「こんなにあんなのこと愛してるの、俺くらいだよ」
「ありがとう、嬉しい」

口ではそう言いながらも、感情を込めることが全くできなかった。

「西島さん明日早いんでしょ?先寝ててね」

何か言いたそうにする西島ににっこりと笑みを向け、あんなは問答無用でパソコンに向き直った。乾いた心が、全く満たされない。無心でカーソルを動かしながら、考える。

自分の部屋が少し片付いたのに、どうして私は好きでもない男の家に来ているんだろう…?


葛藤するあんなに、毒母と会う日が訪れる



忙殺されているうちに、いつの間にか週末を迎えていた。いつもは平日の疲れを解消すべく泥のように眠って終わる日曜日だが、今日は違った。

「あっちゃん、顔が疲れてる。いい歳なんだから労らないと」

帝国ホテルの『パークサイドダイナー』で、パンケーキの甘い香りが漂ってくるのと同時に、同じくらい甘い声で言われ、あんなは「そうかな」と曖昧に微笑んだ。

「ママがあっちゃんくらいの年には、もうパパと結婚してたのにね」

あんなの母親…沙苗はそう言い、ナイフとフォークを手にした。

沙苗から「『パークサイドダイナー』のパンケーキが食べたくなっちゃったから、明日空けてね」と連絡が来たのは、昨日の昼過ぎのこと。それからあんなの胃は、ずっとキリキリ痛んでいた。

「んー。でも、慶應のときの友達も、まだ誰も結婚してないよ。みんなバリバリ働いてるから」

反抗していると思われないように、いつもより柔らかな口調を意識する。沙苗はパンケーキにメープルシロップをかけながら、「ふぅん」と適当な相槌を打った。

「あっちゃんも随分忙しいみたいだけど、お仕事どう?」
「えっ?」

思わず聞き返してしまった。ママが私自身のことを聞いてくるなんて。珍しい出来事に、あんなはホイップバターを塗っていた手を止める。

「け…結構、頼られるようになったよ」

自然と声が弾み、とめどなく言葉を紡ぐ。

「この前もクレームばっかりつける“モンスタークライアント”が来たんだけど『綿谷しか対処できない』って任されて。…あ、先月は朝の情報番組でクライアントの商品が紹介されるから、テレビ局まで行って生放送に立ち会ってね」
「ねえ」

遮ったのは、沙苗のつまらなさそうな声音だった。



「パンケーキ、冷めちゃうよ?」
「あ…」

あんなは慌ててフォークを握り直した。

「…まあ、そういう感じで忙しいけどやりがいある仕事だよ…」

小さな声で締めくくると、沙苗は「そうなんだ」と返した。

「うちのお向かいの小日向さん、いらっしゃるでしょ?あそこのお嬢さん、メガバンクの総合職に就職したんだって。すごいよね」

そこからはあんなが会ったことのない『お向かいの小日向さんの娘』の話が5分ほど続き、後半1時間は父親と妹の愚痴で終わった。あんなに対する質問は、一度もなかった。

沙苗と別れた帰り道で、あんなはスマホを握りしめながら虚空を見つめていた。

「…どうしてママは、私を認めてくれないんだろう?」

『あんたなんか産まなきゃよかった』―…子どもの頃に繰り返し言われた言葉が、すかさず蘇る。深く吐いた息が震えていた。

「これなら、産まれてこない方が良かったかもね」

口に出してつぶやくと、悲しみがより大きくなって押し潰されそうだった。誰かに認められたいだけなのに。

西島でも、工藤でもいい。早く誰かに求められたい。スマホに触れ、LINEのトーク画面をスクロールしていたとき。

“『人間、生きているだけで上出来なんですよ』”

祥吾の名前を見つけた瞬間、そう言う彼の声が脳裏で再生された。あんなは強く下唇を噛みしめる。

「…」

気づけば自然に手が動き、祥吾に電話をかけていた。


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突然電話をかけてきたあんなに、祥吾がとった想定外の行動とは