春・第六夜「ミーハーな女」


「こんばんは。んーと、ヒカリちゃん?はじめまして。今何してたの?」

“彼”が私の名前を呼んでくれたとき、全身に鳥肌が立ち、すぐには言葉を発することができなかった。

憧れの俳優とカメラ付きで直接話せるアプリと言っても、まさか自分が指名されるなんて思ってもみなかった。

「一条律」の顔をリアルタイムで拝みたいがために、アプリをダウンロードしただけ。

しかしその夜、何万人というファンの中から選ばれた“たったひとり”が表示される画面右上の枠に、突然自分の顔が現れたのだ。

「え…っと、あの、今…律くんの配信を見るために、急いでお風呂から上がってきたところで…」

震える手で、濡れた前髪を整える。

31歳のすっぴんを、彼と配信を見ている全員にさらすのは恥ずかしかったが、湯上りで頬がピンクに上気しているのが救いだ。

これまで配信を見ながら、選ばれたファンがしどろもどろになっている姿をみて、「あーあ、せっかく指名されたんだから、もっと実のあること言えばいいのに」と思っていたが、彼らとそっくり同じ反応になってしまった。

そのあと、彼が何か質問してくれたけれど、記憶が飛んでいる。

「じゃあ、陽花里ちゃん、夜遅くにごめんね、おやすみ。またいつか、話そうね」

スクリーンショットを撮ってもいいですか、と聞き忘れたことに気がついたのは、配信が終了し、震える手でスマホをベッドの上に置いたときだった。

…そこからだ。

私が、果てのない沼にハマったのは。


彼ともう一度話したい…。その思いから、禁断の手段に…!?

禁断の沼


陽花里という凝った名をつけてくれた父は、宇都宮ではちょっと名の知れた会社の経営者で、幼少期の私はかなり贅沢をさせてもらった。

中学校から新幹線で都内の名門私立女子校に通い、そのままエスカレーターで女子大に進学。

中高一貫の名門女子校といっても、通った人ならわかると思うが、世間が想像しているよりもずっと明るく、あっけらかんとした雰囲気だ。

男子の目を気にせず、好きなことに思う存分打ち込めるのもメリット。生徒たちは大まかに二つのグループに分けることができる。

まず、可愛くて社交的な一軍女子。早々に彼氏を作って、恋愛に夢中な子たちだ。彼女たちは学校なんて二の次、放課後になるとおしゃれをして急に生き生きとするのが特徴。

そして、私が所属していた、ミーハー軍団。アイドルや2次元、ときに戦国武将など、入れあげる対象はさまざまだが、とにかくエネルギーを一つの対象に注ぎ込み、同じジャンルで熱狂する子と全身全霊で騒いで盛り上がる。

だから私が、去年“一条律”のドラマを見てファンになってからのノリは、女子校時代から培ったミーハー力の結晶とも言える。



「陽花里、こんな爬虫類みたいな顔の男のどこがいいの?」

一度だけ、夫の慎之介が、風呂上がりに私が何十回も見ているドラマの録画を横目で見ながら尋ねてきたけれど、完全に無視した。

爬虫類?この絶対的に美しい顔の男に向かって何を言うのか。

中肉中背、いたって普通の顔つきの慎之介なんかに言われたくない。

結婚して6年。私が新卒で入った大企業で、配属先の先輩として出会った頃は、慎之介はもう少しシュッとしていたし、何より仕事ができて頼れる先輩に見えた。

耳年増だけど男性を見る目がない女子校上がりの私は、雛鳥の刷り込みのごとく、あっという間に彼を好きになってしまった。

25で結婚するなんて、今思えばなんてもったいないことをしたのだろうと思う。

親の口利きで入った会社は安定以外にとりたてて魅力がなく、2年目にはすでに辞めたいと思っていたのも正直なところ。慎之介ならば専業主婦にしてくれるだろという計算もあった。

しかし、若く世間知らずな私は、何一つわかっていなかった。

大企業神話は崩れ、名の知れた企業勤めでも私の望む生活水準をキープするのが難しいこと。

この先子どもが生まれたとしても、慎之介の稼ぎで私の母校のような学校に通わせるのは難しいこと。

そしてトドメは、慎之介が社内の管理職試験に2度落ちたことで、未来永劫出世への道が絶たれたこと。

あらゆる目論見が外れ、ふてくされていた30歳の私は、退屈な毎日を一変させる存在に出会った。

一条律。27歳、端麗な容姿に加えて、見た者の胸を衝くような演技力で人気上昇中の俳優。

すぐにファンクラブに入り、公式LINEに登録し、主演舞台のチケットを手に入れ、誕生日のイベントにつめかけた。

何かに熱狂している間は、現実の煩わしいことすべて、忘れられる。

子どもがいない専業主婦の私の興味関心は、彼に向かっていった。それと同時に、現実と向き合うことができなくなっていった。

律くんのトークイベントに行った夜、帰宅してからダイニングにホールケーキの箱が置いてあって、その日が結婚記念日であることに気がついたくらいだった。

そして…私をさらに沼の深いところにつき落とすきっかけになったのは、アプリでの彼とのあの会話。

それまでは、女子高生時代にキャーキャー言っていたのと同じノリだったのに、直接彼と話してから、私は少しずつおかしくなっていった。

慎之介がますます疎ましくなり、律くんとの生活を妄想しては胸を詰まらせていた。

それまでは仲良しの女友達と一緒に彼の主演映画を見に行っていたが、一人で通い詰めるようにもなった。

どうしても、どうしてももう一度、彼と直接話したい。

その思いが募った私は、絶対に手を出すまいと決めていた「禁断の沼」に足を踏み入れた。


転げ落ちていく陽花里。手を出したのはまさかの…?

課金、課金


そのアプリには、芸能人と話すチャンスが大幅に増える方法があった。

課金だ。

お金を出してステージを上げると、指名される確率が格段に上がる。以前は全員同じ条件だったので、ダウンロードしただけで課金をしていなかった私でも選ばれたが、この制度ができてからは、課金したグループからしか指名されていない。

初めは1万円分のチップのようなものを恐る恐る購入したのだが、ステージは上がったものの、指名される気配がまったくなかった。

そんなある日、指名されたファンが「律くんと話せるなんて、10万円つぎ込んだ甲斐があった」とSNSで発言しているのを見つけた。

私は驚愕した。仮に10万円課金しても、確率が上がるだけで選ばれる保証はない。

それでも、さすがにそのレベルで課金していると、「選ばれたのは2回目です!」と言っている子がいるので、かなり競争率が下がるのだろう。

私は、専業主婦にもかかわらず、独身時代の貯金を切り崩して数十万単位でお金をつぎ込み始めた。



「最近、なんだかスマホばっかり見てるけど…どうしたの?」

日頃はそんなことを気にする素振りもないのに、ここ最近夜になると部屋に篭もりきりの私に、慎之介が話しかけてきた。

「別に…。それより、最近婦人科で新しい漢方を勧められたから、試してみてもいい?ちょっとお金、かかりそうなんだけど…」

すると慎之介は、さっといつもの笑顔に戻り、「陽花里が試してみたいなら、もちろんいいよ。お金のことは気にしないで」と言うと、バスルームに向かっていった。

婦人科検診で、私は子どもができにくい体質だとわかったのは3年前。

不妊治療を少しでも早く開始したほうがいいとアドバイスを受けたが、私はそこまで子どもが好きというわけでもなく、負担の大きい本格的な治療に踏み切れずにいた。

それ以来、気休め程度に体にいいことを試していたが、慎之介はまるで腫物に触るように私を扱い、その話題に自分から触れることはなくなった。

だからこう言えば、多少のお金を彼から引き出せることもわかっていた。

私の律くんへの課金は、この半年ほどでいつの間にか100万円を超えていた。話すことができたのは、3回。

3回目以降、彼としばらく話をしていなかった。あれが、人生で彼と話せる最後になったらどうしよう、と恐怖にも似た気持ちを覚える。

そんなのは絶対にいやだったが、そうならないためには、お金が必要だった。



ついに1回で20万円の課金をしてしまった。

今日は私の32歳の誕生日。この歳になると、家庭があれば当然誕生日はそこで祝ってもらうものと思われているのか、誰からも誘われることはない。

でも気が利かないうえに最近よそよそしい慎之介は、今朝も何も言わずに会社に行った。きっと気がついていないのだろう。

しゃくだから、自分へのお祝いとして史上最高額をつっこんだ。このところいくら課金しても選ばれなかったから、やけっぱちだった。

でも20万円ならば、ほぼ間違いなく指名されるはずだ。

最高に緊張しながら、ハワイで買ったすみれ色のStella McCartneyのワンピースを着て、丁寧にメイクしてから、配信を待つ。

彼と話していると、自分が特別な人間であるような気持ちがした。麻薬のような恋の高揚感を味わうことができ、失ってしまった生きているという実感を、その瞬間だけは取り戻すことができた。

「ええっ…どうしよう、嬉しい。こういうのって、お金出してる人にだけ当たると思っていました」

今夜選ばれた女たちが、泣きながら笑っている。

配信が始まってから40分が経った。私はまだ、スルーされている。

20万円の課金だ。指名されたら、絶対に話さなくては。脂汗が噴き出し、涙がにじむ。

絶対に、指名されるはず。だって、私はこんなにもお金という名の愛を捧げたのだから。

次々と若くて可愛い女の子が指名され、その全員に律くんが、名前を呼びながら微笑みかける。

でも、私の名前はなかなか呼ばれない。

このまま終了したら、どうしよう、そう思った瞬間、胃が、巨大な手で振り絞られるような痛みが走った。

「助けて…」

私は呻きながらスマホを落とし、そのまま床にうずくまった。

「ただいま〜。って陽花里!?どうしたの?どっか痛いの?」

帰ってきた慎之介が、私に駆け寄ってきたのだとわかるまでに、少し時間がかかった。

「タクシーで病院に行ける?無理ならば、救急車を呼ぶよ!陽花里、しっかりして」

息もつけないほどの痛みは、きっと天罰なのかもしれない、そう思い私は歯を食いしばる。

心のどこかで、私は気づいていた。

本当は、怖かったのだ。

お金と時間を犠牲にしても、私のせいで子どもができなかったら?

子どもができず、慎之介の気持ちがどんどん離れていって、みじめに妻の座にしがみつくだけになったら?

再就職に挑戦して、放り出したキャリアがもう二度と手に入らないものだと突き付けられる結果だったら?

そのすべての恐怖から、ただただ逃げていた。

絵空事の恋で、現実を打ち消して。倒れても決して助けてくれない相手に、家族のお金をつぎ込みながら。

「陽花里、タクシーを呼んだ、下までおぶっていってやるからな」

慎之介の太くて熱い手が、私を抱えた。スマホは力の抜けた私の手からするりと滑り落ちる。

涙があとからあとから溢れて、マスカラと混ざり、慎之介の白いYシャツの肩に染みをつくった。とっさに痛みをこらえて顔を離そうとすると、ぐっと背負い直される。

「ごめん…しんちゃん、ごめんね…」

スマホのスピーカーから漏れる楽しそうな男女の声は、もう私の耳には届かない。


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