輝かしい経歴に、人も羨むようなステータス。そして、安定した恋の相手。

「完璧」に彩られた人生を、決して踏み外すことなく、まっすぐに歩いてきた。

…彼と出会うまでは。

地位もない。名誉もない。高収入でもない。

自由以外に何も持たない男とどうしようもなく激しい恋をした時、迷う女は、平坦な道と困難な道の、どちらの道を選ぶのか。

もし、明日が世界のおわりの日だとしたら─

◆これまでのあらすじ

塁と連絡が途絶え、2か月。直人との付き合いは続いていたが、心ここにあらずだった真衣。そんな真衣に、塁から手紙が届く…。

▶前回:2か月消息をたっていた男が、突然差し出した一通の手紙。そこに書かれていた衝撃の事実



―2021年3月14日―


うちに遊びにきていた春香をマンションのエントランスまで見届け、私はひとり部屋に戻った。

ティーカップを片付け、テレビを消し、…そして、久しぶりにシェイカーを手に取った。

ホワイトキュラソー、テキーラ、ライムジュース。2年前に覚えた、私が1番好きなお酒、マルガリータ。

カクテルグラスにゆっくりと注ぎ、キッチンで立ったまま、それを口にした。

独特な爽やかな甘みが口に広がると、ぶわっと当時の思い出が蘇る。

ふと気づくと辺りはすっかり暗くなり、窓の外には漆黒の世界が広がっている。その暗闇を見つめながら、ひとつひとつ当時の思い出を辿り、つい感傷に浸ってしまっていた。

けれど、今日は彼の帰りが遅い。久々にひとりの夜なのだ。

私は2杯目のマルガリータをグラスに注ぎながら、あの手紙のことを思い返した。


2年前。塁から届いた、その手紙の中身とは…



あの日。

塁が消息を絶って、2か月たったある日。私の郵便ポストに届けられていた、一通の手紙。

あのときは、自分の運命を呪った。

手紙には、こう記されていた。



『真衣へ

突然連絡を絶ってごめん。だけど、こうして無理やりにでも連絡を絶たなければ、お互いもう離れることができないと思ったから、このような手段を取ってしまいました。

まず、俺がバーを始めたきっかけ。詳しく話したことなかったよね。本当は直接話したかったけど、熱くなっちゃったりしたら恥ずかしいから…』

いつもクールに装う塁が、本音をぶつけようとしてくれている。そんな覚悟みたいなものを感じ取った。

『俺の親父は、上に上り詰めることだけを目標に生きていて…』

そんな出だしから始まった文字は、やけに筆圧が強くて、濃い。塁の葛藤みたいなものが滲み出ているような気がした。

塁が幼い頃、厳格なお父さまが一度だけ見せた砕けた笑顔。そのときのバーのマスターに強烈な憧れを抱いたという話は、聞いたことがあった。

けれど、その後お父さまが亡くなったことは、この手紙ではじめて知った。

塁は、世間体や肩書ばかりに固執していたお父さまの生き様に強い反発を抱きつつも、大人になるにつれそこに執着してしまうのが人間なのだ、と現実を知っていったという。

そんな人たちへ少しでも安らぎを提供できる人間になりたい。お父さまのような人の肩の荷を少しでもおろしてあげたい。そんな強い思いからバーをはじめたそうだ。

手紙を読み進めながら、彼の魅力が、ひとつひとつ紐解かれていった感覚がした。

肩書やステータスという魔力に惑わされず、そんなものに翻弄される人々を癒したい。そんな想いから、東大を自ら辞めるという決断をした。その背景に、彼の芯の強さを垣間見た気がした。

そして…。

『それでね、真衣。真衣に出会って、強く思ったんだ。俺と出会う前の真衣が、どれだけ仕事に全力を注いでいたかという話にも、随分影響を受けたかもしれない。

俺、もっとこの仕事、死ぬ気で打ち込まなくちゃなって。もちろん今までだって、それなりにちゃんと仕事には向き合ってきた。でも、こんなんじゃだめだ。もっと、もっと死ぬ気でやってみたいって思ったんだ。だから…』

ここまで読んで、わかった。その先に何が書いてあるか。それを想うだけで、涙がとめどなく溢れてき。だけど、ちゃんと塁の言葉で、塁の想いを最後まで知りたかった。

引き裂かれそうな、かつて感じたことのない、もはやリアルな胸の痛みを抑えながら、私はその続きを読んだ。

このときの痛みは、今でも忘れられない。


塁から真衣へ送られた手紙。最後に書かれていたこと

『真衣のことは、本気で愛していた。きっと、ここまで本気になった女性は、真衣が最初で最後だと思う。

でも、真衣。

真衣は真っ当に生きてきたよね。ちゃんと、親御さんが望むような道をまっすぐに。でも俺は、今後どうなるかわからない不安定な道を、本気で進もうと思っている。

だから、俺と真衣は一緒になるべきじゃない…』

今でも、塁からもらった手紙は大切に保管してある。でも、このあたりから涙でインクが滲み、もう文字は読めない。

だけど、何か書いてあったかは鮮烈に覚えている。

『だから、もう会うのはやめよう。真衣がいれば、他になにもいらなくなってしまう。真衣もきっと、そう思ってくれてたんじゃないかな。

明日のことなんて気にしない。そんな俺の生き方に、真衣はいつか耐えられなくなると思う。でも、もっと似た生き方の相手が、お互いにそばにいるよね。

だから、真衣。真衣は、近くにいる、真衣を本気で思ってくれる人と幸せになって欲しい。一緒にいたころの、他になにも要らなかったふたり。あの日々を、素敵な思い出のままにしておこう。

いつか、いつか真衣が仕事に疲れて、偶然入ったバーに俺が立っていたら、そのときはとびっきり美味しいお酒を出すから。そのときは、また笑顔で一緒にお酒を飲もう。元気でね、真衣。  塁』

最後の塁という漢字が、当時少し歪んで見えた気がした。彼も手を震わせていたのだろうか。涙ですっかり滲んでしまったいま、もうその文字を読むことすらできないけれど。

その夜は、体力が尽き果てるまで泣き続けた。大人になってはじめて、わんわん声を上げて泣いた。切なさで胸が締め付けられて、本当に苦しかった。

―愛していた。

過去形のその表現に、彼の覚悟を読み取ったから。本当に終わってしまったんだと、ちゃんと理解してしまったから。



ゆっくり飲み進めていたのに、気づけば4杯目のマルガリータに口を付けていた。

まったくお酒を飲まなかった私だったけれど、いつしか、こうしてお酒を飲むことが習慣になっていた。

一般的かもしれないけれど、仕事で行き詰まったとき、リラックスしたいとき、お酒を飲んで息を抜く。オーソドックスすぎるライフハックだけれど、塁から教わらなかったら、それは私の日常に組み込まれることはなかった。

「ただいまー」

思いのほか、早く帰宅した直人の声が玄関から聞こえた。私はグラスに残っていたマルガリータを一気に飲み干すと、シェイカーとグラスを流しに置く。

「お帰り、随分早かったね」

「うん、はいこれホワイトデー」

私の大好きな『パティスリーカメリア銀座』のマカロンを手渡してくれる直人に、思わず笑顔になる。そんな私を愛おしそうに見つめ返してくれる直人との間には、穏やかで幸せな時間が流れていた。

「やったー!今年もちゃんと覚えていてくれたね!ありがとう」

「まだ2年前のこと根に持っているのかよ」

「一生忘れないから!」とおどけながら、自嘲気味に笑う直人に抱きついた。



そう。選べるようで選べない運命に流され、私は結局、直人と一緒になった。

最初は正直、流されるがままに直人との人生を選んだ、そんな形だった。直人からの愛情を拒否することなく、なんとなく付き合いが続いて、しばらくしてプロポーズされ、私はそれを受け入れた。

けれど、この穏やかな時間がどれだけ尊いものか、直人からの愛情がどれだけ心地よいものだったのか、時間が経つにつれ徐々に思い出していった。

一度は直人と別れ、塁と一緒になる決意をした私だったけれど、今ならわかる。

長い人生、日常を一緒に過ごしていくべき相手は、激しいトキメキや非日常を味わわせてくれる塁じゃない。私を心から愛してくれる、穏やかな幸せをくれる直人なのだ、って。

―だけど。

ひとつだけ、ひそかに思っていることがある。



―あのとき、塁と恋に落ちてよかった。

たとえ、一緒になることができなくても。

「ねえ、真衣。明日、世界がおわるなら何する?」

最後の塁との会話、今ならわかる気がする。彼が何を想い、何を考えていたのか。

「…塁とこうして、一緒にいるかな」

私はそう答えた。その言葉に一切の嘘偽りはない。塁も同じだと答えたし、きっとそこにも嘘はないだろう。

だけど…。

明日、世界は終わらない。絶対に。明後日も、来月も、来年も、世界はずっとずっと続いていく。生きつづけなくちゃならない。

もし、本当に明日で世界が終わるなら、私は血眼になってでも塁を探し出し、彼と過ごす時間を選んだと思う。けれど、2か月という時間が私をクールダウンさせたこともあったけど、事実、私はそうしなかった。それが、答えなんだと思う。

嘘みたいに幸せな時間を過ごせたこと、この世界にこんな奇跡があると知れたこと、私は心から誇りに思う。

ひどく落ち込むこともなければ、ドラッグのような中毒性のある幸福感もない。単調な日常の中、ときおり彼との思い出を心から取り出し、当時の思い出に浸る。そんな思い出があるだけで私は、自分の人生悪くないなって心から思えるのだ。

この東京のどこかできっと、彼はシェイカーを手に、自由を手に、今ものびのびと生きているのだろう。誰かに安らぎを提供しているのだろう。

私が直人と一緒になったように、塁の隣には、私じゃない女性がいるのかもしれない。そのことを想像すると、今でも心が苦しくなるけれど…。

いつか、いつかまた、彼とどこかで出会うことができたら…。たった一杯でいい、塁が作るお酒をまた飲みたい。

ときおり、そんな未来が来ることに想いを寄せながら、私は明日からもこの日常をちゃんと生きていく。

塁の成功と幸せを、心から願いながら。


▶前回:2か月消息をたっていた男が、突然差し出した一通の手紙。そこに書かれていた衝撃の事実

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次週ついに最終回:塁の、衝撃の現在とは…