東京の平凡な女は、夢見ている。

誰かが、自分の隠された才能を見抜き、抜擢してくれる。

誰かが、自分の価値に気がついて、贅沢をさせてくれる。

でも考えてみよう。

どうして男は、あえて「彼女」を選んだのだろう?

やがて男の闇に、女の人生はじわじわと侵食されていく。

欲にまみれた男の闇に、ご用心。

◆これまでのあらすじ

秋帆は、黒川に、社員からの自分の評判を聞きだすよう依頼される。ある人物が不満を漏らしていると伝えると、黒川の様子がおかしくなる。引き続き、評判を聞きだすことを頼まれるが…?

▶前回:「彼のためなら何でも…」上司に心酔する女が引き受けてしまった、禁断の仕事



「スケジュール調整をお願いしたい」

秋帆より少し遅れて出社した黒川は、そう言いながら書類を渡してきた。

「承知しました」

早速中身を見てみると、そこには社員の名前がリストアップされている。

経営企画、財務、人事、営業など、部署はバラバラ。年齢層もバラバラで、基準はよく分からない。

秋帆がぼんやり名簿を眺めていると、黒川は机を指で叩きながら、ひどく苛立った様子で続けた。

「経営企画の彼と、大至急面談をセッティングしてくれ。明日までに必ず。

予定はキャンセルしてでも、面談優先だ」

その声の大きさに、秋帆は思わずビクッと肩をすくませた。何をそんなに焦っているのだろう。

「は、はい…。では、面談の目的は何とお伝えすればよいでしょうか」

すると黒川はニヤリと笑って、こんなことを口にした。

「悪い芽は早めに摘んでおかないとね」

― 悪い芽…?摘んでおく…?

不穏な言葉に、秋帆は言葉を失った。黒川は、一体何を企んでいるのだろう。

「冗談だよ。会社方針に関する意見交換とでも伝えてくれ。よろしく」



― あれ、これって…?

自席に戻って改めて名簿を眺めてみると、秋帆はあることに気づいた。

このリストに載っているのは経営企画部の社員をはじめとして、黒川に頼まれたヒアリングで、“不満を漏らしていた”と、報告した者たちだと。


翌日。秋帆は、オフィスに漂う異様な雰囲気を感じ取る。その訳とは…?

轟く怒号


「これ、かわいい!」

翌日。

秋帆は、出社前に銀座を訪れていた。クライアントへの手土産を購入するためだ。

お目当ての最中をピックアップした後、タクシーがつかまるまでと、少しだけ歩いてみる。

GINZA SIXのFENDI前で、つい足を止めてしまう。ショウウィンドウに飾られたバッグがとてつもなくかわいかったのだ。

先日、GUCCIでバッグを買ったばかりだが、このバッグも欲しい。秋帆は、休日に舞い戻ってこようと、誓う。

家賃や光熱費の負担もなく、洋服は黒川が与えてくれる。それでいて月給は手取りで50万円以上あるのだ。バッグのひとつやふたつ、痛くもかゆくもない。

「黒川社長にあげようっと」

銀座に寄ったついでに、秋帆は木村屋でいくつかパンを購入した。昼食もろくに取らずに仕事している黒川への差し入れだ。

秋帆はたまに、こうやって差し入れをしている。自由にバッグが買えるのも、良い生活をさせてもらっているのも、彼のおかげ。ささやかながらの恩返しだった。



11時頃。

オフィスに戻った秋帆は、違和感を覚えた。

― なんか、変…?

普段の喧騒がない。もともとドライな雰囲気ではあるものの、仕事については皆、熱心に話している。だが今日は、しんと静まり返っていて、誰一人会話をしていない。

別のオフィスに間違って入ってしまったのだろうか。そんな錯覚に襲われるほどだった。

音楽を聞いたり、ソファで寛ぎながら仕事ができるオープンスペースもがらんとしている。

それを見た秋帆は、同僚たちが皆机に座ったまま仕事に取り掛かっているという異様な事態に気づいた。

皆、一言も話さず、目の前の画面を見つめていたり、書類を睨んでいるではないか。

― あれ…?

秋帆は、彼らの意識が、別のところに向いていることに気づいた。皆、時折オフィスの奥に向けて視線を送っている。

それは社長室と秋帆の自席がある方向。一体何が起こっているのだろう、と彼女が自席に向かおうとした時だった。

怒号がオフィス内に轟いた。

そのあまりの激しさに秋帆は思わず身をすくめ、手に持っていた紙袋を落としてしまった。



誰かが叱責を受けているらしい。

社長室の中から、黒川が怒り散らしているのが分かった。時折、ガーンと、机か何かが蹴られる音も聞こえてくる。一体何が起きているのだろうか。

― 待って、今って…。

ハッとした秋帆は、スケジュール帳を開く。

経営企画部の彼との面談をしている時間だった。

一体何があったのだろう。

様子を窺うべく、しばらく自席で仕事をしていた秋帆だが、耐え切れずオープンスペースへと移動した。

怒号は、緩急をつけてオフィスを覆う。油断しているとその隙間を見計らったようにやってくるのだ。そんな刺々しい空気では、仕事に集中できるわけもない。

オープンスペースへと移動した秋帆だが、物理的に距離を取ったとはいえ、緊張感は拭えなかった。

気温は高くなってきたというのに、やけに指先が冷える。

そんな時。先日昼食をともにしたフリーランスのWebデザイナーの女性が通りかかった。秋帆はたまらず彼女をつかまえて尋ねた。

「あの…。何かご存知ですか。私、外出していたんですが…」

すると彼女は、「ああ、黒川さん?」と、事も無げにこう言った。

「しばらくは収まってたんだけどね 。社員さんは大変よね」

― しばらくは収まっていた…?何のこと…?

自分が知らない秘密がこの会社にはあるのだと、秋帆はその時気づいた。


黒川による“面談”は続く。その後、秋帆が驚いたのは…?

予定調和


結局、“面談”は、秋帆が調整した通り、1週間にわたって行われた。

経営企画の彼の時が一番ひどかったが、その後の面談でも怒号は響いた。オフィスは殺伐とした雰囲気に覆われていて、誰ひとり口を開こうとはしない。

社長室にもっとも席の近い秋帆は、気が滅入って仕方がなかった。

オープンスペースに移動しようと思ったが、黒川から「いつ呼び出しても良いように、自席にいてほしい」と釘を刺されてしまったのだ。

上司の命令だ。まさかNOとは言えないだろう。

面談や黒川について聞きたい気持ちは山々だったが、社員のほとんどが余計なことを聞くなという冷たいオーラを放っていた。

毎日のように出社していたフリーランスのwebデザイナーも、面談が始まるとパタリと来なくなった。

「今は、家で仕事しようと思って」と言っていたが、本当のところはわからない。

面談では怒り狂っていた黒川も、秋帆と話す時は人が変わったように優しく、その豹変ぶりにも戸惑った。



翌週。

「お願いがあるんだけど。こっちに来てもらえる?」

出社した秋帆に、人事部長が声をかけた。

「今行きます」

バッグを置いた秋帆は、すぐに彼の背中を追う。スタスタと歩いていた人事部長は、経営企画の一角で足を止めた。

― あれ…?

何度か通りかかったときに見た風景と、少しだけ違うところがあった。秋帆は違和感を覚える。

ひとつの机に、大量の段ボールが置かれている。そこは、先週黒川が面談して、怒号が轟いた社員の机だった。

「あの、これって」

秋帆は慌てて振り返った。

「彼、昨日退職届を出してきたんだ。だから私物を送り返す手配をして欲しいんだ。

重要な書類は回収したから問題ない。あとは、この段ボールに荷物詰めてもらえる?」

あまりにもあっさりとした人事部長の口調に、秋帆は驚いてしまう。

「えっ…?ご本人が荷物を取りにきたりしないんですか?」

どんな事情か分からないが、退職というと、花束贈呈や寄せ書きなどがあるものだと思っていた。

事実、秋帆も転職するときには、ささやかながらそういったイベントを催してもらったものだ。

だが人事部長は、「辞めた人間に興味なんかないよ」と、切り捨てるように言った。

― そういうものなのかなあ。

もともとドライな人間関係だとは思っていたが、ここまであっさりしているとは、さすがに驚いた。

言われるがまま段ボールに荷物を詰め込んだ秋帆は、最後に小さなメモを入れた。

“おつかれさまでした。新天地でのご活躍を祈念しています”



「今日の面接。どんな感じの人だ?」

段ボールへの詰め込みを終えた秋帆が戻ると、ちょうど黒川が人事部長と話しているところだった。

この面接も、3日前に突然決まったもの。

― スケジュール調整大変だったんだから。

秋帆が心の中で毒づいていると、耳を疑うような言葉が飛び込んできた。

「彼の後釜として良いと思いますよ。コンサル上がりで、今の会社ではM&Aの経験もあるようですし」

今日の面接は、経営企画部の彼の後釜らしかった。秋帆は息をのんだ。彼が退職届を出したのは、昨日のはずだ。

― もしかして、辞めるのは予想していたってこと…?

このタイミングの良さは偶然と言い切るにはあまりに都合がいい。

黒川の“悪い芽は摘まないと”という言葉を秋帆は思い出し、そろそろ初夏だというのに背筋にうっすらと寒気を感じた。


▶前回:「彼のためなら何でも…」上司に心酔する女が引き受けてしまった、禁断の仕事

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黒川の豹変、オフィスの様子から、徐々に不安になっていく秋帆。ある人物に連絡してみると…?