結婚しても子どもを持たないという選択は、もう特別なものでもない。

“2人”が、家族のかたち。

明るい未来を信じて、そう決断する夫婦も多い。

それでも…悪気のないプレッシャーや、風当たりの強さに、気持ちがかき乱されることがある。

これは、3人の女が「夫婦、2人で生きていく」と決めるまでの、

選択と、葛藤と、幸せの物語。

◆これまでのあらすじ

28歳新婚にして“子どもは作らない”と決意した美菜。そして、夫婦の再構築に向かう35歳の真琴。そして43歳の藍子はいよいよ決断する。

▶前回:「君を抱かなくなった理由は…」不倫夫が打ち明けた、むちゃくちゃすぎる言い分



「不妊治療は、これで終わりにします」

マイナスが表示された検査薬の前で、藍子はきっぱりと告げた。

カルテから顔を上げた医師は息を飲む。

「本当に良いんですか?」

「はい。もう43歳ですし、ここで区切りをつけます」

「…そうですか。力が及ばず申し訳ありませんでした」

医師は藍子の目を見て、謝罪の言葉を口にした。

藍子は、3年間ほぼ継続して治療をしてきた。男性医師は藍子と同い年で、医者同士。同じゴールを目指す仲間のような気持ちさえ生まれていた。

「とんでもないです。諦める決意ができたのも、先生のおかげで頑張ってこられたからです。本当にありがとうございました。お世話になりました」

藍子の笑顔は晴れやかだった。医師もどこか胸をなでおろしたように温かい言葉を手向ける。

「これまで、辛い治療お疲れ様でした。しばらくはゆっくり休んでくださいね」

「はい。我慢していた大好きなお酒もたくさん飲もうと思います!」

「それは、ほどほどに」

2人は、最後に笑顔を交わし、藍子は診察室をあとにした。

―もう二度と、ここには戻らないんだ。

安堵と寂しさが混じり合う、不思議な気持ちに包まれていた。


妊娠を諦めた藍子に、驚きの報告が…

「え!?ご懐妊!?」

神妙な面持ちで報告をする看護師の佳奈が小さく頷くのを見届けるや否や、藍子の方が先に瞳を潤ませた。

「おめでとう。私も嬉しい。体大事にして、元気な赤ちゃんを産んでね」

不妊治療クリニックから、自身の経営する美容皮膚科に戻るや否やの報告だった。

自分が最後の不妊治療を終え、子どもを持つことをきっぱりと諦めた直後だからこそ、親しい仲間の“妊娠報告”に対する喜びは胸に迫るものがある。

「どうして、先生が泣くんですか」

すでにハンカチを握りしめている藍子を見て、佳奈が涙ぐみながら笑った。

「…ごめんごめん。もう、私、嬉しくて。赤ちゃん生まれたら思いっきり可愛がるから、覚悟しててよ!」

「はい。お手柔らかにお願いします」

佳奈は藍子に合わせて軽口を叩くと、一瞬息を飲むような顔をして、みぞおちのあたりを手で押さえる。

「具合悪いの?安静室で少し横になったほうがいいわ」

「つわりがはじまったみたいなんですが、大丈夫ですよ。出産ギリギリまで働かせてください。復帰もなるべく早く…」

藍子は、佳奈の言葉を遮るように言った。

「ここに戻るのは何年後だって大歓迎だから、今はそんなこと心配しなくて大丈夫。とにかく無理せず、お腹の子を最優先にしてちょうだい」

「ありがとうございます」

「あ。施術室のリネンを取り替えるんだったわね?私がやるわ!」

佳奈は慌ててその申し出を辞退するが、藍子は笑顔で佳奈を制した。

「重たいものを持つの禁止。体冷やしちゃダメよ。気になることがあればすぐに産婦人科へ。それで仕事を休むのも気にしないでね」

藍子は、自分の過保護を詫びながらも、どうか体を大事にして、と大切なスタッフに何度も告げた。

―自分は諦めたからこそ、周りの子どもがみんな宝物みたい。

出産をする機会には恵まれなかったが、病院経営者として、社会的な意味では“子育て”に参加できるかも…と、藍子は小さな夢を抱くのだった。



「…というわけで、これにて我が家の不妊治療は終了となります。異議はありませんか?」

その晩、藍子は冗談半分の明るい調子で、夫の淳之介に最後の陰性判定の結果を告げた。

3つ年上の淳之介は、当初から不妊治療に協力的だった。もちろん藍子と共に子育てをしたいという気持ちから始まった病院通いではあったが、次第に「藍子の夢を叶えるために」という感覚になりつつあった。

どちらに原因があるにせよ、通院、投薬や手術などの治療、時間的な拘束、体の負担、その役割が女性ばかりになってしまうのが不妊治療だ。

ただでさえ医師であり経営者でもある藍子の生活は多忙を極めていた。次第に淳之介の中では「子どもを持ちたい」より「藍子に笑顔でいて欲しい」という気持ちの方が強くなっていったのだ。

淳之介の気持ちを察した藍子は、ある日こう告げた。

―私の気が済むまで、治療させてください。

淳之介は「無理は禁物」「藍子と2人の人生でも幸せ」という意思を明確に告げ、判断を藍子に委ねたのだった。

「藍子、今日までよく頑張ったね。俺も、もっと力になれることもあったような気がするよ」

「ううん。治療にも積極的で、いつでも協力してくれて、気持ちに寄り添ってくれて、プレッシャーも与えないし、不妊治療の最高のパートナーだった。淳之介が夫だからこそ、ここまで頑張ってこられたのよ。ただ…あなたが素晴らしい人だからこそ…」

―だからこそ、父親にしてあげてかった。

藍子は、言葉に詰まり、その代わりに溢れる涙をこらえることができなかった。


夫婦はいよいよ未来へ向き合う

いつでも前向きで、明るい藍子だ。心身共に頑丈だと、自覚もあった。だからこそどんなに辛い治療でも、涙を流すことはなかった。何度も見た陰線の検査薬も、初期の流産も、「笑顔でいればきっと赤ちゃんは来てくれる」と信じ、あえて悲しみに蓋をしてきた。

「…ごめんね。淳之介さん、ごめん…」

肩を震わせて顔を覆うと、淳之介は藍子を何も言わずに抱き寄せた。

何が「ごめん」なのか、自分でもわからなかった。

泣いてごめん。子どもが産めなくてごめん。これまで迷惑かけてごめん。

でも、決して悲しみだけの涙ではない。ようやくこの長い戦いから降りるという、安堵の気持ちが大きかった。

誰よりも理解者である淳之介は藍子の気持ちを察し、いつまでも背中を撫でていてくれた。

「どうして謝るんだよ。落ち着いたら夫婦2人で過ごす人生について、ワクワクするような計画を立てよう」

「そうだね。きっと、楽しいことばかりよね」

ようやく藍子は涙をぬぐい、笑顔を見せた。

「ようやく仕事に専念できることだし、クリニックを拡大するのも良いわね。それとも逆に事業を縮小してセミリタイアに向かうっていう道もある。どちらにせよ、夫婦2人ならどうにかなるわね」

淳之介は笑顔で頷いた。

「俺も、まだまだ研究したいことがあるし、留学したいって夢もある。夢は広がるな」

大学で米文学の教授を務める淳之介は、いくつになっても勉強熱心だ。不妊治療中は、藍子の時間的な制限に淳之介も合わせていたが、大人2人で生きて行くと決めた以上、お互いがそれぞれの責任の上で人生の選択ができるだろう。

「私も一緒に行きたいわ。ヘミングウェイの足取りを追って、マイアミで過ごすの」

「最高だね。いつかキーウェストへ藍子を連れて行きたいよ」

藍子夫婦の場合、自然妊娠はほぼ不可能と言われていた。なので、不妊治療を終わらせた矢先、自然と授かるという例には当てはまらないだろう。淡い希望に振り回されることもやめ、いさぎよい決断をする覚悟が必要だった。

2人は、今日も何かの記念日だとワインを開け、未来について話し合った。

藍子も淳之介もお互いの世界の最前線で活躍しているので、金銭的な余裕はある。会社勤めというライフスタイルでもないので、休暇を合わせることもできる。

そんな中、この先あと30年以上をともに過ごすパートナーとして、いくつかの約束事を決めた。

週1日は必ず夕食を共にすること。まとまった休暇は旅行をすること。お互いの家族を大切にすること。姪っ子や甥っ子たちの逃げ場になれるような、柔軟で、かっこいい大人であり続けること。

楽しい未来計画に、酒が進む。2人は終始、笑顔だった。

「子育てしない分、働きすぎるでしょう?時間もお金も、余ってしまう日が来るかもしれない。だからいまのうちから、国内外問わず、社会貢献について勉強したい。基金を立ち上げるのか、寄付なのか、ボランティアなのかわからないけど…」

「そうだね。助けを求めている子どもや親もいるだろうし、とはいえ不妊治療や子育て真っ最中の人は、声を上げる余裕もない。行政に働きかけたり、声を発信するっていうのも社会貢献の一つだね」

アメリカ暮らしが長い淳之介にとって、富裕層が社会貢献をすることは自然な考えだ。

「今日、スタッフの子から妊娠報告があったのよ。私、こんなに素直に人のおめでたを喜べたのって、不妊治療を開始して以来はじめて。長くて苦しい道のりだったけど、無駄じゃなかったって思える。私は、成長したわ」

「俺もだよ。これからも、どうぞよろしく。仲良くやっていこう」



それから、2人は充実した日々を過ごした。仕事が忙しいという状況は変わらないが、恋人同士だったころのように、お互いを思いやる時間が増えた。

そんな矢先だった。

藍子は、体の重さを感じながらようやく気づくのだ。

―調子に乗ってお酒飲みすぎたかな。…少し控えなきゃ。

そして、ふと、カレンダーを見る。

―あれ?生理が来てない?

ごくりと、息を飲んだ。


▶前回:「君を抱かなくなった理由は…」不倫夫が打ち明けた、むちゃくちゃすぎる言い分

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藍子の体の異変はまさかの…