PR会社で多忙を極める28歳の綿谷あんな。掃除ができず、散らかった部屋に帰りたくないので、求愛してくるいろんな男のもとを毎晩泊まり歩く。

母親の“呪い”に、乱れた生活。そして歪んだ自尊心…。

これは、そんな女が立ち直っていくストーリーだ。

◆これまでのあらすじ

祥吾のアドバイスで生活を立て直したあんな。過酷だが憧れていたクライアントの仕事で忙殺されていると、毒母から大量の連絡が来て…?

▶前回:都合よく扱い、弄んでいた男に会社の前で待ち伏せされて…。28歳女が気付いた真実



「なんでもっと早く言ってくれないんでしょうね、クライアントって」

隣のデスクに座る田中が、エナジードリンク片手に死にそうな声でぼやいた。心の中で同意しながら、喋る気力はないので頷きだけ返し、あんなは無心で手を動かし続ける。

誰もが憧れる化粧品メーカーから「来月インスタライブをしたい」と唐突な連絡をもらって早3週間。毎日会社で日付が変わるのは当たり前。

ここ数日はシャワーを浴びて着替えるために帰宅し、また出社…。という日が続いていた。

ずっとやりたかった案件とはいえ、ここまで大変なスケジュールは久々だった。しかし、以前のようなストレスは感じていなかった。あんなは、本来の自分のキャパシティ以上に余裕があるよう演じるのをやめたのだ。

「綿谷、なんか変わったよなー」

がっかりしたように言ったのは、この案件を振ってきた課長の山本だった。

火のついたように働くあんなに、あろうことか自分の仕事のヘルプまで任せようとしてきたので「すみませんがちょっと信じられないです」と断ったらこのセリフが飛び出てきた。

だが「ちょっと信じられない」というのは、これまでの自分自身に対してかけた言葉でもあった。今までだったら、いい顔をして受け入れていただろう。

いい顔、というと。あんなはちらりとデスクの端に置いたスマホに目をやる。仕事が忙しいのを理由に、母親にもいい顔するのをやめていた。返事をしないでいると、怒涛の勢いで連絡が来る。

そのときだった。24時過ぎだというのに画面が光り、あんなは反射的にスマホを手繰り寄せた。

まるでTwitter代わりにされているような、一方的なメッセージの羅列の最後…。新たに送られてきた文章に、思わず眉を寄せた。

『あっちゃん、返事ないけど大丈夫?たくさん連絡してごめんね』


自分の人生を生きようとした矢先、母親に縋りつかれたあんなは…

「…もしもし、ごめんね。なかなか連絡できなくて」

数分後、あんなは給湯室で声を潜めていた。無視しようと決めていたが、メッセージの弱々しさに心が揺らいでしまったのだ。

『本当よ。ママ、いっぱいあっちゃんに話したいことあるのに』

どこか非難するような母親・沙苗の口調に、あんなはほだされたことをすぐに後悔した。

「ごめんね。今、仕事が物凄く忙しくて…」

下手に出ながら「たくさん連絡してきてどうしたの?」と柔らかく尋ねると、沙苗は堰を切ったように話し始めた。

父親がゴルフばかりで土日にどこにも連れて行ってくれない、妹は才能もないのに声優を目指すと言って就職してくれない。なんてことはない、いつもの愚痴だ。

何か深刻なことがあったのかと身構えていただけに、思わず脱力してしまった。

「…ママごめん、私まだ会社にいるの。そろそろ仕事に戻るね」

5分ほど愚痴を右から左に聞き流し、頃合いを見て切り出すと、沙苗は大きなため息をついた。

「あっちゃん、女の子がこんな時間まで働いちゃダメよ。もうちょっと要領よくやらないと」

いつもであれば、ちくりと胸が痛むのを我慢して終わっていた。しかし今日は。

「あのさ…。ママは私の仕事のこと、何にも知らないよね」



どうしても沙苗の言葉が許せず、あんなは口火を切った。

「ママは広告代理店とPR会社の違いもわかってないし、わかろうともしないよね。どんな案件をしているのか、どういう条件で提示されたのかも知らないよね。それなのに」

そこまで言うと、小さく息を吸った。

「…それなのに『要領よく』とか、想像で勝手なこと言わないでほしいな」

顔が火照って、少し息切れしている。それまで絶え間なく喋っていたはずの沙苗が、電話口で黙り込んだ。やった、とうとう言えた。その思いに、心の奥のもやが晴れていく。

「…ごめんね」と消え入りそうな声が聞こえたのは、たっぷり間を空けてからだった。

『あっちゃん、怒らないで。ママにはあっちゃんしかいないの』

今度はあんなが黙る番だった。高揚していた気分は、沙苗の暗い声音ですぐに萎えた。

あんなは返す言葉が見つけられず「もう仕事に戻るね」とだけ言って電話を切った。言いたかったことが言えたはずなのに、心がざわつく。

「私しかいないなら、もっと私のこと見てくれればいいのに…」

急にみぞおちのあたりが、キリキリと強く痛んだ。ぽつりとした呟きは給湯室に立ち消え、あんなは重くなった体を引きずってデスクに戻った。



あんなはタクシーの中で目を細めた。午前5時半。いよいよ朝日が眩しい。急いでシャワーを浴びれば3時間は寝られるかなと思い、アラームをセットしようとスマホを開くと。

「…」

LINEの通知が1件。またママか…。とうんざりした気持ちでトークルームを見たが、そこにあったのは意外な名前だった。


心身ともに疲弊したあんなに届いた、メッセージの差出人とは

『生きてますか?』

絵文字もスタンプもない簡潔なメッセージだが、胸が高鳴るのを感じた。祥吾らしいと思わず笑みがこぼれる。

忙しすぎて連絡しておらず、ランチもオフィスで急いで済ませるだけだったから、しばらく顔をあわせていなかったのだ。

『医学的には生きてるけど、精神的には瀕死』

泣いているネコのスタンプと一緒に送ってから、気づいてしまった。祥吾からのメッセージにはすぐ返すのに、母親のLINEは既読無視を続けている。

「私、すごい嫌な奴じゃん…」

口に出してみると罪悪感に心がずんと重く沈み、胃が痛んだ。

『デトックスしたい』

まったく笑えないが、冗談めかすために語尾に“笑”をつけて送信する。午前6時前だというのに、すぐに既読がついた。思わず画面を凝視し、固唾を飲んで見守る。

『あさっての土曜、休みだったら映画で心のデトックスしませんか?』

「す、する…!」

届いたメッセージに、嬉しさのあまり声が出た。ぐっと拳を握り、あんなは頬を緩ませる。土曜は返上しようと思っていたが、そのぶん日曜日に徹夜で頑張ればいい。

とにかく今は、祥吾に会いたかった。



待ちに待った土曜日。あんなはこれまでの人生で一番気合いを入れておしゃれした。地味でもっさりした祥吾と釣り合うよう、控えめな服装で。爪はピカピカに磨いて、髪はつやつやに。

だが、ミッドタウン日比谷の前に現れた祥吾の姿を見て、あんなは唖然とした。

「すみません、お待たせしました」

白いシャツに、ノーカラーのジャケット。黒いストレートパンツが足の長さを際立たせている。普段は奇妙な丈感のくたびれたスーツ姿で、加えてひどい猫背だから意識したことがなかったが。

「…なんか、すごく格好いい」

思わず口を滑らせてしまうのも仕方ないくらい、祥吾が輝いて見えた。久々に会えたからかもしれない。彼は「そうですか?」と照れたように笑った。



「…で、なんでデトックスしたくなったんですか」

映画を堪能したあと、カフェでアイスクリームを食べながら祥吾はおもむろに切り出した。あんなは一瞬、スプーンを持つ手の動きを止める。

「えぇ…。大変な案件任されて、息抜きしたくなったから?」

話せば、空気は悪くなるだろう。デートの雰囲気を台無しにしたくないという気持ちが上回り、あんなは誤魔化すように笑った。祥吾はまっすぐにあんなの顔を見てから「…うそだ」と言った。

「僕、綿谷さんの悩んでるときの顔、見抜けるようになってきましたよ。何かあったなら話してほしいです」

黒縁眼鏡の向こうの瞳に、どきんと心臓が跳ねる。

「それとも、僕じゃ頼りないですか?」
「そんなわけないでしょ」

思わず食い気味に反論し、ソファに座り直した。

「浅霧くんに相談したことで、私の人生大きく変わったんだから…」
「じゃあ話してください」

ね、と促す祥吾の声はどこまでも優しい。あんなは観念したように深く息を吐いて、口を開いた。

「…母親が、父親とか妹の悩みをずっとLINEしてくるの。私はそれに優しくできなくて、この前もついに怒っちゃって。こうやって浅霧くんとお出かけしたり、憧れのメーカーの案件を担当したり、自分の人生を楽しく生きていることに罪悪感を感じちゃって」

話していると、再び胃がキリキリと痛んできた。それを和らげたのは、右手の温もりだった。

「…そんなこと、思わないでください」

祥吾の節くれ立った指が、あんなの手を優しく握っていた。


▶前回:都合よく扱い、弄んでいた男に会社の前で待ち伏せされて…。28歳女が気付いた真実

▶NEXT:5月24日 月曜更新予定
祥吾の優しさにほだされたあんなは、衝撃的な言葉を口走ってしまい…?