憂鬱(ゆううつ)―。

まるで曇り空のように、気持ちが塞ぎ込んでしまうこと。

失恋を経験した人だったら、少なからず経験したことがある感情だろう。

”ドクターK”と呼ばれる男も、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。

彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。

恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?

◆これまでのあらすじ

先輩の結婚を祝う食事会で、愛子と再開する。食事の途中彼女の姿が見えず、気になった影山は探しに行く。愛子を見つけた影山は、予想外過ぎる彼女の身の上を知ることになり…


▶前回:もう恋はしないと決めているのに…34歳医師が惹かれていく、年上女性の魅力とは



結婚を控える先輩医師の、お祝いを兼ねた食事会から2週間後。

午後の外来を終えた僕は、16時頃になってやっと食事にありつくことができた。

院内のコンビニでサンドイッチを買い、レジ横のコーヒー抽出機にカップを置く。

おとといは夜勤、昨日はレポートをまとめていて寝たのは朝方だった。気を緩めれば、あくびばかり出てくる。

「影山おつかれー!寝不足?」

背後から、カップ麺を手にした明石が声をかけてきた。

「おー明石、おつかれ。ちょっと最近、忙しくて。落ち着いたら、銀座に飲みに行かない?」

僕の誘いに、彼は即座に反応する。

「えっ?今、銀座って言った?」

僕の口から銀座という言葉が出てくるのは、付き合いの長い明石からしても、相当意外らしい。

「さてはお前、食事会のあと愛子ママと何かあっただろ。今週金曜日でよければ、付き合うよ」

明石はニヤニヤしながら答えた。

「ほんとに、明石が想像しているようなことは、断じてないから!」

からかう彼を制止するように、僕は言う。


好きになった女の仕事の顔を、目の当たりにした影山は…



2週間前の夜。

乃木坂から表参道まで、2人で歩いていると、あっという間に愛子さんの自宅マンションに着いてしまった。

「またね、カゲヤマ」

そう言ってエントランスに向かおうとする彼女を引き戻し、思わず僕は口走っていた。

「僕になにか、できることはない?」

このとき僕は、何か力になれることがあれば、彼女になんでもしてあげたいと、本気で思ったのだ。

「心配してくれてありがとう。…でも、大丈夫」

愛子さんはバッグから名刺を取り出し、僕に差し出す。

「送ってくれたお礼にご馳走するから、今度お店に来て。来る前に、携帯に連絡してね」

そう言って彼女が建物の中に消えるまで、僕はそこを動けずにいた。

自分の無力さを、突きつけられたような気がしたのだ。

ポツリ、ポツリと雨の粒があたり、ふと僕は我に返った。





金曜日の21時。

予定どおり、僕と明石は銀座にいた。

愛子さんの店は、この手の店のメッカとも言える銀座8丁目にあった。

ブースごとにゆったりとソファが配置された店内で、すでに数組の客が、美しい女性たちに囲まれて酒を楽しんでいた。

僕たちが席に着くと、明石の父親のボトルがサーブされ、周りと同じように女性たちがテーブルについた。そのうち1人は、この間の食事会にも顔を出していた子だ。

どの子もシックなドレス姿で、髪を美しく結い、まつげの先、爪の先まで抜かりなく手入れされているのがわかる。

「今日は愛子ママ、いないの?」

明石が聞くと「もうすぐ参ります」と女の子の1人が答えた。

僕は、あたりを見回した。

黒服姿のホール担当者が数名に、各テーブルにつくホステス。店の中央には大きな花器に、街の花屋では見かけることのないくらい見事な牡丹が生けられている。

生け花の向こう側のブースにいるのは、経済誌で見たことのある企業の社長。その隣にいるのはプロ野球選手だ。

― まるで、一流の男たちの社交場だな。

その時、入り口が賑やかしくなる。

「ママが、お客様を連れて来たみたい」

僕たちについている女の子の1人が教えてくれた。

店に入ってきたのは、見覚えのある政治家たちだ。入り口付近で待機する秘書や、SPといった人たちも含めると、かなりの人数になる。

その中に紅一点、薄い水色の着物を着た愛子さんがいた。

店の客たちが、「ママ!」と次々と声をかけ、彼女がそれに応える様子を、僕はじっと見ていた。

愛子さんは、常連たちの声に応えながら通路を通り抜け、VIPとともに一番奥の席につく。

その一部始終は、僕にあることを自覚させるには十分だった。

それは、愛子さんと僕では、生きている世界がまったく異なるということだ。

あの夜の彼女と、今僕の目の前にいる女性は、まったくの別人のように感じた。

「ママと一緒にいる政治家の人たち、よく来るの?」

明石の問いに女の子の1人が答えた。

「時間が空くと、ママの顔を見にいらっしゃいますよ」

ふと僕が奥を見ると、愛子さんが政治家の1人と親密そうに、話をしている。

僕の隣に座っている女の子が、耳元で囁いた。

「あの先生は、人目もはばからずママに夢中です」

その後に続く彼女の言葉に、僕は店に来たことを、心から後悔した。

「きっとママも…お店にとってはいいお客様だから、無下にはできないんじゃないかな」


愛子とは生きる世界が違うと、思い知らされた影山。落胆する彼の元に現れたのは…


24時の閉店の時間が近づいてきた。

薄まったウイスキーを僕が一気に飲み干すと、隣の女の子がその体をぐっと寄せ耳元で囁いた。

「センセ、アフター行きませんか?」

その子の誘いに、僕は「そうだね、行こう」と愛子さんを横目で見ながら、即答した。

あの政治家が愛子さんとともに店を出て行くところを、見たくなかったから…。



女の子たちの着替えを待っている間、「影山の銀座デビューを祝して奢る」と明石がすべて払ってくれた。

会計は10万ちょっとだったが、それだけの金額をとるだけのことはある。気が利く美女に囲まれ、美味しい酒を飲み、僕はすっかり気持ちよくなっていた。

「悪いな、明石。次は俺持つよ」

僕が礼を言うと、彼は真顔で肩をつかんできた。

「影山、銀座は楽しいけど、ほどほどにしろ。愛子ママには本気になるな」

普段のおちゃらけた様子とは違う、真面目な顔つきで彼は言う。

「そんなつもりはないよ」

僕は誤魔化したが、内心を見透かされたようで、バツが悪かった。

「向こうは仕事だ」

至極真っ当な明石の言葉が、僕の胸に深く突き刺さる。

彼の言葉が頭から離れぬまま、僕はもう一度店の奥にいる愛子さんを見た。

さっきと変わらず、彼女はVIPにぴたりと密着し、親密な雰囲気を醸している。そんな様子を見ても、僕は落ちない女の素顔を、もう一度見たいと思ったのだ。

VIP席の方を眺めていると、僕たちについていた女の子が2人、着替えを終えて戻ってきた。

僕らが席を立ち、入り口を出ようとした時だ。

「カゲヤマ!」

愛子さんが先ほどの得意客を席に残し、僕らを追いかけてきた。

「このあいだ、店に来てくれたら奢るって約束したじゃない。今、お客様を車までお送りしたら追いかけるから、どこか入って待っていて」

予想しなかった彼女の言葉に、僕は嬉しくなった。

「いいの?」

僕の問いに「この前のお礼、してないもの」と言う愛子さんは、また僕の腕をつかんでいる。

この人は、なぜこうも絶妙なタイミングで僕の気持ちを引き戻すのだろうか。

銀座の女にとっては、これも仕事のうちなのかもしれない。

「愛子さん、急いで来てね。待ってるから」

僕は、内心彼女のペースに乗せられていると思いながらも、他の言葉が思い浮かばなかった。


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「落ちない女」を好きになってしまった影山。愛子を落とすために取った行動とは。