東京の平凡な女は、夢見ている。

誰かが、自分の隠された才能を見抜き、抜擢してくれる。

誰かが、自分の価値に気がついて、贅沢をさせてくれる。

でも考えてみよう。

どうして男は、あえて「彼女」を選んだのだろう?

やがて男の闇に、女の人生はじわじわと侵食されていく。

欲にまみれた男の闇に、ご用心。

◆これまでのあらすじ

オフィスでは孤立し、罪悪感に苛まれる秋帆。友人・ひかりに相談していたところ、黒川から連絡が入り…?

▶前回:「どうして知ってるの…?」女を恐怖のどん底に陥れた、上司からのメッセージ



「そろそろ起きよう…」

狭いビジネスホテルの一室。

ベッドサイドで鳴り響くアラーム音に、秋帆は目を覚ました。

昨晩、「離れたほうがいい」というひかりのアドバイスに従って、ビジネルホテルに駆け込んだのだ。

時刻は、9時を回ったところ。

いつもなら始業の時刻だが、今日は出社しないつもりだった。昨晩、黒川にメールを送っておいたが、その後返信があったかどうかは見ていない。

監視から逃れるため、業務用スマホや自分のスマホ、すべて電源を切って部屋に置いてきたのだ。

秋帆は、簡素なハンガーラックにかかっているスーツに手を伸ばす。これは、東京に出てきた際、さらに言えば初出社の時に着ていたもの。

いまや、クローゼットの中は黒川からプレゼントされたもので溢れている。持っていた洋服のほとんどを捨ててしまったが、このスーツだけはどうしても捨てる気になれず、取っておいた。

昨晩スマホを置きに部屋に戻った時、このスーツを引っ張りだしてきたのだ。

今は、黒川に与えられたものを身につけるのも気が引ける。だから、服もバッグも靴も置いてきた。黒川の影を少しでも消そうと、自分の持っている数少ないものを持ってきたのだ。

久しぶりにスーツに袖を通した秋帆は、何かから解放されるような、そんな不思議な気持ちになった。


一方の黒川。秋帆に連絡した彼の胸の内は…?

軽い脅し


「…意外と早かったな。いや、意外と賢かったのか」

自室の窓から外を眺めながら、登ってくる朝日に黒川は顔をしかめた。

“どうして急に在宅勤務にした?報告がない”

こう連絡したのは、軽い脅しのつもりだった。秋帆がオフィスにいないことで業務に支障が出るわけではないし、在宅勤務は会社規定で認められているのだから好きにすればいいと思っている。

だがそれは、どうやら逆効果だったらしい。メッセージを送った数時間後、秋帆から『明日はお休みさせていただきます』との連絡が入っていた。

― あの友人から、何か聞いたんだろう。

最近、広告代理店勤務だという友人・友兼ひかりとやたら会っていることは知っていた。

貸与しているスマホやマンションの一室は、ある程度、彼女の行動が“確認”できるような仕組みを講じているし、レストランにも実は息がかかっている。

秋帆が友人と会う時に予約してやったのは、そういう理由から。友兼ひかりが広告代理店で働いていることや、秋帆が得意げに会社や自分の話をしていたことも、店員から報告を受けていたのだ。

メッセージ後、理由もなく、突然欠勤を申し出てきた。

ひかりとの接触頻度を考えれば、秋帆が自分に疑念を抱いていてもおかしくはないだろう。

『了解』

直属の上司として、欠勤連絡を無視するわけにもいかない。事務的に返しておいたが、おそらく秋帆は返信を見ていないだろう。

「やっぱりな…」

彼女のスマホを確認すると、電源が切られていて、マンションの部屋にいる気配もなかった。

こうなっては仕方がない。黒川は、次の手続きに移ることにした。



「次を探す」

出勤したばかりの黒川は、人事部長を呼び出して、こう告げた。

「承知しました」

予想していたのか、それとも興味がないのか。彼は特に驚きもせず、淡々と反応した。

「条件は、前回と同じでよろしいですか?」

「そうだな」と言いかけたところで、いったん止め、目の前の人事部長をまじまじと見つめた。

彼は、社内の人材をスムーズに排除する術を身につけている。自分の言う通り、きっちりと仕事をこなしてくれるのだ。

もちろん、それ相応の、いや相場よりもはるかに高い報酬を与えているが、それなら秋帆も同じだ。

これまで、金やモノで操れるなら安いものと考えていたが、それは短期的にしか効果がないことがわかった。

― 彼が逃げ出さずに、仕事をこなす理由は何だろうか…?

人事部長という肩書だろうか。彼のような人材を採用するためには、何が必要なのか。

「少し考えさせてくれ」

「承知しました。白田さんの件は、どういった対応に…」

彼女はきっと退職を申し出てくる。だから、後任の採用と並行して、退職時の処遇を検討する。いつも通りの展開だ。

だが、どうしたことだろう。

黒川の脳裏には、秋帆の面接をした時の光景が、懐かしく思い浮かんだ。

「君に任せるよ」といういつもの言葉が、出なかったのだ。


非合理的なことは嫌いな黒川。その彼がふと思い出したのは…?

バカらしい


― 面白そうな女。

これが、面接にやってきた秋帆の第一印象だった。“自由な服装”と言って、言葉通りカジュアルな洋服で来るのは、社会人経験がない証拠だろう。だから、「君、いいね」と言ったのは本音だった。

前の秘書は、とにかく頭のキレる人間だったから、何かと対立した。社内には、彼女を支持する人間も増え始め、面倒になったほどだった。

その点秋帆は、こうした心配がない。こういう世間知らずな女は、何かと都合がよいだろう。

当初、事務担当としての応募だったが、急遽秘書に変更して採用したのは、とっさの判断だった。

経験もスキルもない彼女に、業務の面で期待することなどほとんどない。自分の言う通り、忠実に動いてくれればよいのだ。

その目論見通り、仕事を始めた秋帆は、なんでも素直に、言い方を変えれば愚直に、職務をこなした。

黒川が驚いたのは、彼女が想像以上に世間知らず、いや無知だったことだ。

人を疑うことや言葉の裏を読むことを全くしないのだ。純粋といえば聞こえが良いが、ここまでくるとただのアホだと言われても仕方がないレベルだ。

幼い頃から、他人の言葉を鵜吞みにしてはいけない、何か意図があると、常に疑って生きてきた黒川にとっては、にわかに信じがたかった。

秋帆が友人と会うために予約してやったレストランでは、自分のことを「社長がとっても素晴らしい人で良くしてもらってる」と、自慢げに話していたらしい。

さらに、周囲がおかしいと言っても、聞く耳を持たなかったと、店員から報告をもらった時には、呆れ果てた。

普通、経験もスキルもない人間が、身分不相応の待遇を与えられたら、何かあると、まず疑うものではないか。

だが、秋帆はそんな様子は一切見せず、自分のことを信じ切っているようだった。だからこそ密偵の業務も、何の疑いも持たずに引き受けたのだろう。

愚かな者であっても使い方によっては役に立つ。

― 都合よく使わせてもらう。

そう思っていた黒川だが、次第に心が妙にざわつくのを覚えるのだった。



「…どうかされましたか?」

口を開いたまま固まった黒川に、人事部長は恐る恐る声をかけた。

黒川はその言葉でようやく、自分の思考が意味もなく止まっていたことに気づいた。

― 何、バカなことを考えているんだ…。

秋帆のことを思い出して何になるのだろう。自分に逆らって、業務を放棄しようとする秋帆に、もはや用はない。

非合理的なことを一瞬でも考えてしまった自分がバカらしかった。

「いや、なんでもないよ。そうだな…」

黒川がそこまで言いかけたところで、ドアの向こう側がにわかに騒がしくなった。思わず2人してオフィスの方に目を向ける。

一瞬にして静まり返ったざわめきの代わりに、力強い足音が近づいてくるのを黒川は聞いていた。そしてそれは、ドアの前で止まった。

「失礼します」

ノックの後、返事を待たずに開け放たれた扉の向こう側にいたのは、初出社の時のスーツを纏った秋帆だった。

同時に、部屋中に大きな声が響き渡る。

「黒川社長。あなたのやっていることは、おかしいと思います!

人間を道具のように扱うなんて、絶対におかしいです!」

それだけ言うと、秋帆は下唇を噛みながら、黒川をじっと見つめた。

― 何を言い出すつもりだ…?

その厳しい視線と勢いに、さすがの黒川も一瞬身構える。だがすぐに、秋帆が自分に揺さぶりをかけられるほどの賢さはないことを思い出した。

調子に乗った彼女に、お灸をすえてやろう。

黒川は、机に置かれたモニターをチラリと見た。

「今日は、ゆっくり休めたかな?家にはずっといなかったようだけど。

業務用スマホも家に置いたままだったんだろう?緊急事態に備えて、どんな時でも持っていてもらわないと困るよ」

相手に恐怖を与え、逃げ出させることなら得意だ。どんな手段も厭わない。

黒川は、秋帆に向かってニコリとほほ笑んだ。


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黒川を前に、秋帆は何を語る?そして、秋帆が取った行動とは…?