29歳。

それは、女にとっての変革の時。

「かわいい」だけで頂点に君臨できた女のヒエラルキーに、革命が起きる時──

恋愛市場で思うがままに勝利してきた梨香子は、29歳の今、それを痛感することになる。

ずっと見下していた女に、まさか追いつかれる日が来るなんて。

追い越される日が来るなんて。

◆これまでのあらすじ

慕ってくれていると思っていた後輩たちが、自分の悪口を言っているのを聞いてしまい、ショックを受ける梨香子。しかも同じ日、梨香子と同じマンションの最上階に、絢が越してきたことを知り…

▶前回:化粧室で聞こえてきた、後輩たちが話す声。自分の噂話を耳にしてしまった女は、思わず…



―2019年6月―

一刻も早く、その場から、その事実から逃げたかった。

「じゃ、絢またね!」

エレベーターに乗る絢を見送ることなく、私は一目散で自分の部屋へと急いだのだが…。

何歩か歩いたところで、足が止まった。

― …てか、本当?私が6階のワンルームを借りるのに、親に援助してもらっているというのに…。絢は最上階の1LDKに住んでいるって、本当?

ふと浮んだ疑惑の念は、私の足をエレベーターホールにまで引き戻した。

エレベーターはすでに閉まり、上へと上昇していっている。エレベーター横についている小さな階数表示灯には、7、8、9とカウントアップしていく数字が光る。

私は何かを祈るような気持ちで、その数字をじっと見つめた。


絢が本当に最上階に住んでいるのか、疑いはじめる梨香子は…

「私、なにしてるんだろう…」

14という数字が光る階数表示灯を見つめながら、つぶやいた。

もしかしたら、絢は見栄を張るために嘘をついているかもしれない…。

そんな風にも思ったが、絢はそんなタイプの女ではないことは分かっている。捻じ曲がった見立てが外れた私は、おとなしく自分の部屋へと戻った。



それから数日後の、金曜日の深夜。

飲み会帰り、心地よい風にあたりながら帰路につくと、私はまたもやエレベーターホールに絢をみつけた。

きっと、彼女もどこかで飲んでいたのだろう。気分の良かった私は、思わず絢に語り掛けてしまった。

「絢じゃん!!絢もどっかで飲んでたの〜?」

静かだったエントランスに自分の声が響き渡り、そのボリュームに自分でも驚いたが、急に話しかけられた絢は相当迷惑そうにこちらを振り向く。

「梨香子は食事会?楽しそうね。私は、仕事帰りだけど…」

「そう!今日は全然いい男いなかったよ〜」

「そう…」

絢の冷静さにどことなく居心地悪さを感じてしまい、私はついつい、あのことを口走ってしまったのだ。

「絢、この前男の人と一緒にいたでしょ?しかも、そのちょっと前は、マンションの近くで別の男の人と一緒にいたところも見ちゃったよ!」

ほろ酔いに身を任せ、でも意地悪な好奇心をこめた目で、絢を見つめた。

そう、あれは先週のこと。



1週間の間で2回も、絢が男性と一緒にいるところを目撃してしまったのだ。

しかも、明らかにそれぞれ別の男性だった。1人はスラっと背の高いスーツ姿の男性。1人はガタイの良い、ラグビー選手のような男性。

浮気をしているのか、二股をかけているのか、はたまたライトな関係の男性が何人もいるのか。

いずれにせよ絢のその状況は、私のゴシップ心をくすぐった。

別に、知ったところでどうこうしようという気はない。だけど、絢の弱みというか、本当は大っぴらにしたくないであろう現場を図らずとも目撃したことで、隙のない絢の弱みを握ったような気分になっていたのだ。

こうして男たちとの関係を探ったのも、今の分の悪さをちょっとだけ形勢逆転したくて、手持ちのカードを出してみた。そんな感覚だっただけ。

けれど、絢から発せられた言葉は想定外なものだった。

「…だから、何?」

ぞっとするほど、温度の低い声色。そして絢はなぜか、憐れむような目で私を見つめている。

「何って…。どんな関係なのかな〜って気になっちゃってさ」

もうここまで来たら引き下がれない。私は負けじと、おちゃらけた風を装いながらも、それでも絢の痛いところをついてみる。

けれど…。

「別に関係ないじゃん」

絢はそう言い放っただけ。そして、到着したエレベーターに無言で乗り込んでしまった。

私は絢を追いかけて慌ててエレベーターに乗り込むと、追い詰めるような気持ちで核心に迫る。

「もしかして、…二股とかしてないよね?」

「…」

絢は何も言わず、6階と14階のボタンを押す。その態度になおさら攻撃心を煽られた私は、我慢できずに追い討ちをかけた。

「ねえ!絢!?」

けれど絢は、そんな闘いに参戦するつもりはないとでも言うように深いため息をつくと、呆れたような口調で話し始めた。


梨香子を見つめながら、絢が放った痛烈な一言。

「あのさ…。私が二股してたとしたら、なんなの?梨香子には関係ないでしょ。しかも、2人とも彼氏でもなんでもないし。いちいち詮索したり、梨香子の正義感押し付けるのやめてくれる?いい大人なんだからさ…」

見事なタイミングだった。絢がすべてを言い切ると同時に、エレベーターは6階に到着し、絢は“開”ボタンを押し、私が降りることを無言で促す。

「…なによ、そんな言い方ないじゃないっ」

返す言葉が見当たらなかった私は、悔しさのあまりそんな捨て台詞と共に追われるようにエレベーターを飛び出した。


絢:「梨香子は、茹でガエル」


14階に到着し自宅へと入った私は、暖かい飲み物が欲しくなってお湯を沸かし始める。

そして、だんだんと湧いてくるお湯を見つめながら、さっき捨て台詞と共にエレベーターを飛び出した梨香子の後姿を思い返した。

ーそれにしても…。

梨香子みたいな子は、自分の恋愛がうまくいっていないから、こうやって人の事情に首を突っ込んでくるのだろう…。

充実した生活を送っている人間は、絶対にあんな風にはならない。私は深いため息と共に、学生時代の梨香子に思いを馳せる。

高校時代は、とにかくモテていて百戦錬磨だった梨香子。昔から「早く専業主婦」になりたいとよく言っていたそんな彼女が、なぜ、いまだに恋愛市場で奮起しているのか。再会してからしばらくは疑問だった。

けれど、あるときふと思ったのだ。梨香子は“茹でガエル”なのだ、と。

熱いお湯にカエルをいれたら、すぐに飛び出す。けれど、適温の水に入れゆっくりと加熱していくと、カエルはその変化に気づかずに死んでしまう。

“茹でガエル”は、ゆっくりと進む環境の変化には気づきにくく、気が付いた時には手遅れになるという教訓を示唆するたとえ話。

このロジックは恋愛市場においても当てはまるのかもしれなかった。

若ければ若いほど、可愛いということだけで周りからチヤホヤされる。けれど、歳を重ねるごとに“モテる”女性のタイプというのは着実に変わってくる。梨香子はきっとそれに気づけていないのだろう。

しかも厄介なことに、この“若い”期間は意外と長い。

中学時代から彼氏がいたという梨香子は、14歳から恋愛というものを始めたとすると、もうすでに15年戦士。

私の勝手な見立てだけれど、純粋に若さやルックスだけで勝負ができるのは、せいぜい26,7歳くらいまでだろう。

恋愛というものに足を踏み入れたその日から、10年以上…。そしてつい最近まで、梨香子は自分の若さやルックスのみでモテてきたわけだ。

梨香子だって、バカじゃないと思う。いつまでもそんなことが続くわけはなく、徐々にモテる女性のタイプが変化していくことを、頭ではわかっているかもしれない。

けれど、周囲からの反応は一気に激変するわけじゃない。そして、長い時間をかけて体が覚えた「自分はモテる」という感覚は、専業主婦願望が強いはずの梨香子を、市場に足止めさせているのだろう。

梨香子の喧嘩腰に一瞬イラっとしたのだが、そう考えると彼女が少し可哀そうに思えてきた。

私は、グラグラと沸き立ったお湯で、ルピシアのデカフェの紅茶をたっぷりと淹れる。熱い紅茶の香りに心を落ち着かせながら、梨香子のどこかギスギスした可愛らしい顔を思い浮かべた。

ー私のできる範囲で、梨香子に出会いを提供してみようかな…。

そう思うと、なんだか少しだけ気分が良くなる。

だってその試みが、梨香子の勘違いぶりを一層加速させてしまうことになるなんて、思ってもみなかったから。


▶前回:化粧室で聞こえてきた、後輩たちが話す声。自分の噂話を耳にしてしまった女は、思わず…

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絢が梨香子を食事会に招待したのだが…。