憂鬱(ゆううつ)―。

まるで曇り空のように、気持ちが塞ぎ込んでしまうこと。

失恋を経験した人だったら、少なからず経験したことがある感情だろう。

”ドクターK”と呼ばれる男も、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。

彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。

恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?

◆これまでのあらすじ

銀座のラウンジを営む愛子が気になる影山は、同僚の明石と彼女の店に飲みに行く。店での彼女を見て、住む世界が違うと感じた影山が諦めようと店を出ようとした時、愛子が追いかけてくるが…

▶前回:「銀座は楽しいけど、ほどほどにしろ」友人の忠告を受けても、34歳医師は想いびとを諦められず…



「深夜にサンドイッチっていうのもいいね」

僕らは愛子さんの店の女の子たちからアフターに誘われ、彼女たちにリクエストされた喫茶店を訪れた。

同僚の明石は小腹が空いたらしく、フィッシュサンドを頬張っている。

クラブにいる時と同じく、ウイスキーをロックやハイボールで飲みながらも、さっきとは違う気楽さがあり、アフターもなかなか楽しいものだと僕は思った。

しばらくすると、慌てた様子で愛子さんがやってきた。

「遅くなっちゃって、ごめん!」

空いていた僕の隣の席に座り「カゲヤマ、私の店はどうだった?楽しめた?」と顔を覗く。

「楽しかった。実家の親父が大阪・南のクラブに足繁く通っていた意味が、少しわかったような気がするよ」

僕の知っている限り、父は家族や妻を大切にする人だ。

だが、以前酔っ払って、好きだった彼女と結婚できなかったと、僕にこぼしたことがあった。

南のクラブは、父が仕事や家庭を忘れ、気兼ねなく酔い、愚痴をこぼすことが許される特別な場所だったのかもしれない。

愛子さんの店で、女の子たちの振る舞いを見て、僕は思った。日々の重圧から解放され、気の緩みきった男たちを、彼女たちは気遣い、もてなしているのだ。

「そろそろ帰るか」

各々のグラスが空になりかけたタイミングで、明石が言った。

「他の女の子は僕が送るから、影山は愛子さんを送って差し上げろ。通り道だろ」


愛子を送る途中、影山は彼女にあることを伝えるが…

「お先に。じゃあね、愛子さん」

明石は女の子2人とタクシーに乗り込んだ。

「さ、私たちも帰ろっか」

愛子さんに促され、僕たちもタクシーに乗る。初夏にしては肌寒かった真夜中の銀座。車窓から銀座の街を見ていると、次第に酔いも覚めてきた。

銀座の女はやめておけ、と僕に忠告をしておきながらも、気を使ってくれた明石に感謝した。

彼のおかげで、今僕の隣には会いたいと思っていた人がいる。

無意識に早くなっていく鼓動を彼女に気づかれまいと、僕は必死で話題を探すが、思い浮かばずにいた。



僕はありきたりな言葉で沈黙を破ろうとした。

「愛子さん、今日はありがとう」
「カゲヤマ、今日は来てくれてありがとね」

僕が言うのとまったく同じタイミングで愛子さんも発し、僕たちは顔を見合わせて笑った。

彼女に会うのは今夜がまだ3度目なのに、どうしてこんなにも僕の心に入り込んでくるのだろう。

「いきなり愛子さんと2人になったから、何喋っていいかわからないな…」

僕は、高ぶる気持ちを隠そうと、必死で取り繕った。

「なんでも喋ればいいじゃない。私、毎日お客様のいろんな話を聞いているのよ。なんでも話して」

― 僕もその、お客様の1人なのかな…。

僕は聞こえないくらいの小さなため息をつき、彼女の美しい横顔を見た。

憂いを帯びた長いまつげ、均整のとれた鼻筋、着物の後ろ襟から覗く華奢な首筋。

唯一無二のオーラがあるのに、気さくで可愛らしい。

もう人なんて好きにならないと決めていたはずなのに、そんな彼女に魅了され、僕は恋をしたのだ。

恋とは、しようと思ってするものじゃない。瞬間的にやってくるものなのだ。

彼女が既婚者であっても、僕よりだいぶ年上だと知っても、もう既に遅かった。

「そういえば、旦那さんとのこと、大丈夫?」

僕は少し迷った末に、愛子さんから聞いた彼女の夫の話題を持ち出す。

「…もしかしたら、まだ元に戻れるかなって思っていたんだけど、やっぱり無理みたい。私に興味がない男と、結婚生活を続けてもね…」

彼女は少し悲しげな表情で、答えた。

お互いの弁護士を通して話し合っているところで、調停を起こさず終われるよう、向こうから慰謝料と財産分与、そして養育費の金額を提示されたという。

「息子は宮崎で寮生活中だし、私は1人なんだって、しみじみ実感しちゃう」

さっき店にいた時の華やかな印象は消え失せ、今僕の隣に座っているのは、繊細で弱い、守るべき一人の女性だった。

車は青山通りを走り、前方に表参道のマックスマーラが見えたところで、「ここで降ります」と愛子さんがドライバーに伝える。

「家の前まで送らせて!」

乗車料金を払い、半ば強引に僕も一緒にタクシーを降りた。

そして、勢いである言葉を発してしまったのだ。

「こんなこと言うつもりなかったんだけど…僕は愛子さんが好きだ。だから、愚痴でもなんでも、僕に吐き出して欲しい」


堪えきれず想いを告白してしまった影山に、愛子が放った言葉とは

「やだ、カゲヤマってば冗談言って!私、そんなに心配されるほど落ち込んで見えた?」

愛子さんは茶化しながら笑った。

彼女の予想外の反応に、僕は困惑する。

愛子さんにとっては、こんなシチュエーションは慣れっこなのだろう。迷惑そうな素振りも見せず「ちょっと歩きたかっただけだから、送らなくてにいいのに」と言った。

「本当にごめん」

何故か、僕の口から不意に謝罪の言葉が出てくる。

彼女はそれを聞いて、少し怪訝な顔で問いかけてきた。

「ごめん、っていうのは何に対してなの?私のことが好きだっていうこと?」

「うん、まぁ…」

こんな時でさえ、曖昧な返事しかできない自分に嫌気がさす。

「カゲヤマ、私はお客さんを楽しませるのが仕事。だから私といて楽しいと思うのは、当たり前なのよ」



彼女は困ったように笑いながら、話し続ける。

「あなたイケメンだし、私みたいな年上じゃもったいないよ。それに、こんな簡単に人を好きになっていたら、これから先、悪い女に騙されちゃうわよ」

愛子さんが僕に、諭すように言う。しかし、その顔は不機嫌には見えなかった。

「簡単に好きになったわけじゃないよ。あなたみたいな人に、僕は会ったことがない」

軽い気持ちではないということを、知ってほしくて僕は食い下がった。

「カゲヤマ、私こんな商売しているけど、一応まだ既婚者だから…。それに…」

そう言うと、愛子さんは立ち止まり、じっと僕を見る。

「私もカゲヤマが好き。そう言ったところで、私たちに未来はある?」

― 僕たちの未来って…。

想いを衝動的に伝えてしまったことを、僕は今さらながら後悔した。

「もう7年ほど、僕は恋愛らしい恋愛をしたことがない。自分でもびっくりしているんだ」

「答えになってないわ」と、彼女は僕の言葉を遮った。

愛子さんの言う通り、この先どうなるかなんて、僕はまったく考えていなかったのだ。

そんな僕の動揺が、彼女には手にとるようにわかったのだろう。

畳みかけるかのように、愛子さんが言った。

「じゃあ、私のどこが好きか言えるの?言えないでしょ?」

― どこが好きって言われても…。

好きという気持ちは確かなのに、僕は言葉が出てこなかった。

「興味本位なら、もう誘わないで。店にも来ないで」

そう言い放ち、彼女は僕を残して自宅へと歩き去った。

彼女の言葉に落胆しつつも、どうやったら落とせるのかを、考えている自分がいた。

― どうやったら自分のものにできるのだろう。

もう、それだけしか考えられなくなっていたのだ。


▶前回:気になる女が働く、銀座へ足を運んだ医師。彼女が見せた別の顔に…

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愛子と険悪なままの影山。実家の両親に組まれた見合いを受けることにするが…