“ドクターK”と呼ばれる男は、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。

彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。

恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?

◆これまでのあらすじ

夫と離婚し、ちゃんと影山と向き合いたいと思った愛子。だが、別居中の夫は突然愛子の自宅にやってきて、「離婚はしない」と態度を翻した。

▶︎前回:「「男できた?」久しぶりに妻と会い、驚く男。変わり果てた妻の態度に思わず…



愛子の抵抗


「やめてよ!」

いきなり夫に右手をつかまれ、私は手にしていたiPhoneを落とした。

だが力を弱める様子はなく、それどころか夫は口元に気味悪い笑みを浮かべながら、こちらににじり寄ってくる。

私は壁側に後退りし、とうとう逃げ場を失った。

― なにをする気…?

「そもそも、僕が家を出て行ったのは、君が相手をしてくれないからでしょう?」

夫がそう言った時には、すでにもう一方の手で肩をつかまれていた。

― 殴られる…!

手を出されるかもしれないという恐怖から、思わず身を小さくした。

― え?キスなの?

そう気づいた時、夫の唇はすぐそこまで迫ってきていた。

私は反射的に口を一文字に結ぶと、体の重心を壁に預け、右足で思い切り夫のスネを蹴った。

「っってぇ…」

私の手を離し、うずくまる夫を尻目に、私はiPhoneを拾いあげた。

「出てって!自分から浮気して勝手に出て行ったのに、よくこんなことできるわね。今の一件も、弁護士に伝えます」

少しの沈黙の後、夫は悔しそうに私を見ると、よろつきながら立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。

パタン、とドアが閉まる音を確認してから、私は大急ぎで玄関の鍵を閉め、バーロックもかける。

それと同時に、鼓動が速くなるのがわかった。

それまで息を止めるように閉じ込めていた恐怖心と、嫌悪感がせきを切ったように溢れ出してくる。

私はその場にヘナヘナとしゃがみこんでしまった。


愛子が危機に瀕している時、影山は…。すれ違う二人はどうなるのか

かつては子どもをもうけたほどの相手に、ここまでの拒否感を抱くとは思ってもみなかった。

目の前の女を、力づくで自分のものにしようという強引さは、あまりにも古臭く、痛々しい。

さっきの出来事を忘れようとすればするほど、胸が早鐘を打つ。

その時、私は気づいた。

夫だからキスを拒んだのではなく、影山以外の男を拒否したのだと。

たった一度キスをしただけの影山という男は、もはや私の世界の中心となっているのだ。

大きなため息とも深呼吸とも取れる息をひとつ吐くと、私は立ち上がった。

― …もう一度シャワーを浴びよう。早く店に行かなくちゃ。

その時。

手にしていたiPhoneが震えた。

そして、画面表示された「影山」の二文字を見た途端、心臓がトクンと大きく波打つ。

ショッキングな出来事があった今だからこそ、彼にすがりたい気持ちはある。

だが、平常心で話せるとはとても思えなかった。

― ごめん、今はとても出れない…。

私はiPhoneをダイニングテーブルに伏せ、バスルームに向かった。


愛子への不信感


僕は、愛子さんに会うことができないまま、銀座を後にした。

結局、彼女からは電話もショートメールも返ってくることはなかった。

今、この瞬間さえも、彼女が僕じゃない誰かと親密に夜を過ごしていたらと思うと、どうしようもない焦燥感が湧き上がってくる。

それとともに、好きになった相手を信用できない自分はどうなのか、という気持ちもあった。

タクシーの前方に、かつてベルコモンズがあった交差点が見えた時、僕は彼女を信じたい一心で、最後にもう一度だけ電話をしようとスマホを取り出した。

すると、いつの間に来たのだろう。画面表示にショートメールの通知がある。

― もしかしたら…。

わずかな期待とともに、僕は画面をスワイプした。


愛子への不信感を拭えない影山が、取った行動とは

『来週、学会で東京に行きます。時間があれば食事でも行きませんか?』

ショートメールの差出人は、先日の見合い相手、加那だった。見合いの後、他愛もないやり取りがなんとなく続いていた。

― 食事くらいなら…。

タクシーを降り、家で僕は、加那からのメールに当たり障りのない返信をした。

『お久しぶりです。東京にいらっしゃるんですね、ぜひお会いしましょう』

勝手に抱いている愛子さんへの不信感から、「食事くらいならいいだろ」という気持ちがあるのも事実だ。

『では、来週の水曜日の夜は?私は、新宿のパークハイアットに宿泊する予定です』

加那からの返信にある場所が、愛子さんのテリトリーである、表参道でも銀座でもなかったことに、僕は安堵していた。



愛子さんから電話がかかってきたのは、翌朝、僕が出勤しようと家を出た時だった。

「ごめんね、お店に来てくれてたのに。可愛がっていただいている政治家の先生や後援会の方々に呼ばれて静岡まで行ってたの」

不信感を抱いていても、いざ彼女の声を聞くと、それを忘れてしまうほど愛しさが込み上げてくる。

愛子さんの言葉には、なんら訝しさは感じられず、僕はいつも通りに返事をした。

「聖菜ちゃんから聞いたよ。少し会えたらなと思って、明石と店に遊びに行ったんだ」

「会えなかったけど、あなたが来てくれて嬉しかった。ところで週末、忘れてない?」

実は、彼女の方こそ忘れてしまったのではないかと、僕は不安に思っていた。

誰にも会わずにゆっくり過ごすために、僕らは箱根の宿を予約しているのだ。

「忘れてない。朝9時に車で迎えに行くよ」

加那との食事の件は一旦忘れ、週末は愛子さんとの時間を満喫しようと決めた。

聖菜から聞いた話や、僕が抱いていた不信感、そして、僕らのこれからのことは胸にしまっておき、ただ一緒にいるその時間を楽しもうと思ったのだ。

だが、それが逆に彼女を深く傷つけることになるとは、この時予想だにしなかった。


▶︎前回:「男できた?」久しぶりに妻と会い、驚く男。変わり果てた妻の態度に思わず…

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愛子とともに箱根に出かけた影山。愛子の離婚話が進む一方、彼も見合い相手との間に進展が…。