“ドクターK”と呼ばれる男は、ある失恋をきっかけに、憂鬱な日々を過ごしていた。

彼はかつて、医者という社会的地位も良い家柄も、すべてを忘れて恋に溺れた。

恵まれた男を未だに憂鬱にさせる、叶わなかった恋とは一体―?

◆これまでのあらすじ

愛子が夫ともめている時、影山は愛子がいない店で飲んでいた。一方影山も見合い相手からの誘いを断り切れない。双方に切っても切れない相手がいる2人の今後は…

▶︎前回:「キスされる!」にじり寄る気味の悪い中年男。女は意を決して反撃に転じた



約束通り、愛子さんと僕は週末を2人きりで過ごすため、箱根を訪れた。

「箱根は久しぶりだな。それに、仙石原に宿泊するのは初めてなんだ」

真夏の箱根は緑が色濃く、車窓からもじりじりと太陽の熱を感じる日だった。愛子さんは白いストローハットを目深にかぶり、涼しげな麻のワンピースを着ている。

「今日のお宿、とても素敵でお食事も美味しいの。修史もきっと気にいると思う」

箱根湯本からはだいぶ離れているが、広大な敷地の中にひっそりと佇む「金乃竹」は、愛子さんお気に入りの宿だそうだ。

ざわざわと揺れる竹に出迎えられた僕たちは、本間の他に、寝室と竹林に囲まれた露天風呂がある部屋に通された。

僕は、窓からの景観に目をやりながら、掛け流しの水が流れる音や、鳥の声に耳をすます。

「浴衣に着替えて、ゆっくりしよ」

愛子さんはそう言うと、かぶっていたストローハットを取り、ひとまとめにしていた髪を無造作に下ろした。僕はその何気無い動作に、初めて素の彼女を見たような気がした。

思わず彼女を引き寄せ、抱きしめると、僕らは長いキスをした。

「やっと、2人になれたね」

彼女の頰に、細くて白い首筋に、いつもは饒舌に楽しい会話を繰り出す唇に、たまらず僕は何度もキスをした。

ようやく僕が理性を取り戻した頃。遠くの空がほのかに明るい、夏の夜が始まっていた。

夕食時、彼女が気に入っているシャンパンをオーダーした。暑い日を締めくくるようによく冷えたシャンパンが喉元を過ぎていく。

僕たちは、他愛ない話をしながら宿の食事を楽しんだ。地元の食材、旬を生かした料理は素晴らしく、美しかった。

なによりも僕は、宿の浴衣を着た何の飾り気もない彼女が、目の前にいる事実が嬉しかった。

「修史!お部屋に戻ったら、もう一度お風呂に入ろ」

少し酔って、はしゃぐ彼女もとても可愛らしい。

「ああ、そうだね」

僕は彼女以外のすべてのことを忘れ、この時間にゆったりと身を委ねた。


とうとう両思いになった影山と愛子。だが見合い相手から連絡がきて…



旅行から帰って、まだ数日しか経っていないのに、1日が過ぎるのを僕はもどかしく感じていた。

今週の土曜日、僕は当直だが、翌日の日曜日には、また愛子さんと一緒に過ごす約束がある。

楽しみがひとつあるだけで、それ以外の時間はなかなか進まないのはなぜだろう。



「で?結局ママとは進展したのか?」

出勤途中にばったり会った明石が、面白そうに聞いてきた。

「朝から一体なに?」

いくら明石でも、湯河原の一件を口外するつもりはなかった。あの週末は、僕と彼女だけの大切な秘密なのだから。

「あるわけないだろ。相手は銀座のママだよ?付き合うなら、僕よりいい客いっぱいいるでしょ」

軽く彼をあしらうと、ホッとしたような面持ちで言う。

「まぁそうだな。お前と付き合っても金にならないしな」

「は?」

明石の一言に、僕は不機嫌な返答をしたが、先週の僕だったらきっと内心穏やかではなかっただろう。

つい数日前の満たされた時間があったからこそ、僕はようやく彼女のことを信じようという気持ちになれた。

「ところで、あのお見合いした女医さんとは、あれからどうなったの?」

明石は絶妙なタイミングで痛いところをついてきた。

「あぁ、彼女は…今週学会で東京に来るみたいだけど」

「だけど?」

言葉尻を捕らえて、おうむ返しにする明石。会うとも、会わないとも答えないでいる僕の様子から、察しがついたのだろう。

「お前、中途半端な付き合いはやめとけよ。親も絡んでるんだろ?」

彼は呆れた顔で言う。

「まぁな…。でも、親が絡んでるだけに無下にもできないわけよ。わかる?」

僕も彼も、元はといえば似たような境遇だ。「まあ、わかるけどさ…」と相づちを打つ。

明石は「俺、あっちだから」と別棟に向かい、話はそこで途切れた。

見合い相手の加那は、先日連絡があったとおり、昨日から学会で東京に滞在しているようだった。

「パークハイアットにつきました。せっかくなので、お食事しませんか?」

ショートメールで食事に誘われたのは昨日。急な誘いなだけに、断ろうと思えばできたはずだった。

だが、なぜか断るという選択肢が、その時思い浮かばなかったのだ。

「お誘いありがとうございます。ホテルまで伺いますよ」

僕は即答していた。

誰からも祝福され、自分の将来を安心して任すことができる相手。

愛子さんとは、そうはいかないだろうということが、自分でもわかっていた。

彼女とはまだ何も進展していないだけに、みすみす手放すのも惜しいという気持ちが、どこかにあるのかもしれない。

― ただ同業者と食事をするだけだ…。他に大意はない。

愛子さんを裏切るつもりはこれっぽっちもないのだから、加那と会うことに罪悪感を感じる必要はないだろう。

僕が加那の誘いに応じるのは、愛子さんが客の誘いに乗るのと同じことだ。


見合い相手を断る理由が見つからない影山。その時愛子から連絡が来て…

勤務を終えると、僕はそのまま病院のある代々木から新宿まで、タクシーで向かった。

待ち合わせたのは、パークハイアットにあるレストランだ。約束の時間まで少しある。

『上のバーで、先に一杯飲んで待っています』

そう連絡すると、ほどなくして加那がやってきた。ネイビーのワンピースに、髪をきゅっとひとまとめにした彼女は、いかにもデキる女性といった感じだ。

「東京には知り合いがいないの。夕飯付き合ってくれて嬉しいです」

涼しげな目元が知的な印象で、洋服のセンスや動作、振る舞いから育ちの良さがうかがえる。

「いや、夜はたいがい空いてるから気にしないで」

あくまでも、社交辞令だと思いつつも、言わなくてもいいことを僕は口にしていた。

予約していたレストランには、何らかの記念日を祝うカップルが数組いるだけだった。きっとはたから見れば僕らも、そういう関係に見えるのだろう。

「好き嫌いあります?メインはお肉の方がいいですよね?」

飲み物から前菜、メインを、ウェイターと相談しながら加那はテキパキと決めていった。

「修史さん、いきなり食事に誘ってびっくりしたでしょ?」

加那は小さく「カンパイ」と言いながら、僕のシャンパングラスに自分のグラスを寄せ、チンと音を鳴らした。



「正直、親が持ってきたお見合いにしては、相当イイ線いってるなって思ったの」

少しアルコールが入ったせいだろうか。見合いの席で会った彼女とは、幾分か違う印象だ。

なんていうか、積極的で、饒舌。そして色っぽいのだ。

この日の学会の内容や、勤めている病院でのことといった仕事の話の合間に、さりげなく僕の実家の病院や家族の話を聞いてくる。

だが、それも嫌な気はしなかった。

メインディッシュが終わる頃には、ハイペースでグラスを空け、ずいぶん楽しそうにしている加那を、結婚相手として悪くないと思うまでになっていた。

「修史さん、よければまたお食事に行きませんか?」

そう言われた時、断る理由さえ思い浮かばなかった。

「もちろん」

あくまでも、彼女を親が納得する結婚相手として見ていることには変わりはない。だが、彼女の言葉を借りて言うなら、彼女のほうこそ「イイ線いってる」のだ。

愛子さんと一緒にいる時のように、どうしようもない愛しさや切なさを感じることはないけれど、結婚となれば、それほど大事ではないように思えた。

「明日朝から会議だから今日は帰るよ」

加那と別れ、僕はホテルの前からタクシーに乗った。

窓を開け、外の空気をひとしきり吸い込む。ジャケットの内ポケットからスマホを取り出すと、愛子さんから着信が残っていた。

たったそれだけなのに、僕は心をぎゅっとつかまれたような気がした。一瞬でさっきまで過ごしたレストランでの時間を忘れ、また愛子さんのいる世界に僕は戻った。

「すぐ迎えに行く」

その一言を言いたくて、僕は彼女に電話をかけた。


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愛子のことが好きなのに、加那を断れない優柔不断な影山。そんな彼の様子気づいた愛子が彼に言ったのは…