あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?

「元カレとはもう、なんでもないから」

大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。

だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。

しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。

「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。

◆これまでのあらすじ

婚約中の千秋と健作。しかし、2人と同じ会社に転職してきた雛乃は、健作の中高時代の元カノだった。

「今はただの親友」という2人の言葉に納得し、割り切って友情を見守ることに決めた千秋。

健作の両親に入籍の挨拶に行ったところ、義母に雛乃と比べられていることが判明し落ち込む千秋だが…。

▶前回:「コロナ禍の挙式は諦めて入籍だけにする」彼の発言に義母が話した残酷すぎる本音



夕方になると、もう肌寒い。

休日の夕方6時。『ロイヤルガーデンカフェ青山』のお気に入りのテラス席で、私は健作と向かい合って座っていた。

何度もしたことのある、いつも通りのデート。

いつもと違っているのは、店に入ってからすでに30分近く経つというのに、私と健作が一言も言葉を交わしていないということだった。

カップの中のコーヒーは10月の気温のもとですっかり熱を失い、冷め切ってしまっている。

いつも通りであればこの後、南青山の成城石井かどこかで夕飯の買い物をして、すぐ近くの健作の家にお泊まりをする流れだ。

でも、今日はきっとそういうことにはならないだろう。

ぼんやりと外の景色を眺め続ける私に、根負けしたように健作が言った。

「千秋さん。ちょっと、歩こうか」


2人の間に流れる、気まずい空気。その真相は

言われるがままに店を出ると、私たちはどちらからともなく神宮球場の方へと歩き出す。

健作の家とは反対の方向。

いちょう並木はいつのまにか黄色に色づいていて、足元にはまるで黄金の絨毯が敷き詰められているみたいだ。その美しい散歩道を、先立って黙々と歩き続ける健作の足がゆっくりと止まった。

薄手のコートに包まれた、少し細身の背中がくるりと振り返る。

「ねえ…どうしても、気持ちは変わらないの?」

そう問いかける健作の声は、少し震えている。きっと傷ついているのだ。

本当なら、今すぐにでもぎゅっと抱きしめてあげたい。でも私は、引き続き3歩離れた距離を保ちながら答えた。

「うん。私、健作とは結婚できないよ」



健作のご両親に入籍の許可を貰いに行ってから、1ヶ月が経つ。

お母様が私のことをあまりよく思っていないことは、以前から薄々感じとってはいたけれど…。あの日、衝撃の本音を直接耳にしてしまったことで、私の心は完全に砕け散ってしまっていた。

それは、私が健作よりも年上なことや、私の家柄が健作の家ほど良くはないことを言われたからじゃない。

私の心を打ち砕いた言葉。

それは「雛乃ちゃんのほうが良かった」という、たった一言だった。



「ひななんか、どうだっていいよ!俺が好きなのは千秋さんだけだってば!」

ご両親との食事後。帰宅してから突然「結婚を取りやめたい」と打ち明けた私に、健作は半狂乱になりながら何度もそう言ってくれた。

「無理させてたことに気づかなくて、本当にごめん!鈍感で本当にごめん!!

わかった。俺、今すぐ転職する。千秋さんと別れるくらいなら、もう一生ひなには会わない。もちろん、父さんと母さんにだって一生会わなくっていいから!!」

「健作…やめて…」

優しくて、穏やかで、鈍感だけどのんびりしてて…。怒ったり泣いたりしたところなんて一度も見せたことのない健作の取り乱しようは胸にくるものがあり、心が張り裂けそうだった。

お母様との会話の端々からも、健作が雛乃ちゃんではなく、私だけを大切にしてくれていることは十分に理解できた。

たまに好きな人の話をしてくる雛乃ちゃんを見ていても、健作と雛乃ちゃんが本当に今はもうただの友達だということも、わかっていた。

でも…もうダメ。

健作と結婚するということは、健作の過去も、未来も、まるごと受け入れるということ。健作を取り巻く小さな世界とともに生きていくということだ。

それはつまり、私が一生、周りから雛乃ちゃんと比べられるということ…。

いや、違う。

私が、私自身が一生、自分を雛乃ちゃんと比べ続けるということなのだ。



オレンジ色の街灯に照らされて、何も言えずに黙り込んでいる健作の方へと、私は一歩踏み出す。

去年の誕生日に健作に買ってもらったセルジオロッシのショートブーツが、いちょうの落ち葉を踏みしめる。

でも、何度も2人で散歩した思い出のある外苑のいちょう並木も、今こうして歩いていて考えてしまうのは、こんなことだった。


婚約破棄を決意した千秋。別れを決めた最大の理由とは…

― 雛乃ちゃんとも昔、この道を一緒に歩いたことあるのかな…。

健作と何をしていても、そんな考えが頭をよぎってしまう。

健作が好きな料理。健作が好きな音楽。健作が好きなデートコース。そのすべてに、雛乃ちゃんの影がついて回る。

わかっている。ほとんど病気だ。そんなことを気にしていたら、誰しもが初めて恋をした人と結婚するしかなくなってしまう。

元カノ・元カレと一生仲間関係が続く健作たちがおかしいのかもしれないし、今はもうなんでもない過去を気にしてしまう私がおかしいのかもしれない。人によって答えは違うだろうし、答えを出す気もない。

ただ確信しているのは、私には無理ということ。雛乃ちゃんとの思い出ごと、健作を愛し続けることはできないということだ。

今思うと、挙式をやめることをすんなり決意できたのも、その予兆だった。

― 健作が、海のそばで結婚式をしたいって言ってたのって、やっぱり雛乃ちゃんと江ノ島に行った思い出があるからなのかな…。

― 菊田くんや深山くんの余興に、雛乃ちゃんから聞いた思い出話も盛り込まれるのかな…。

幸せなはずの健作との結婚が、いつのまにか、雛乃ちゃんの残像と戦う場所になってしまっていた。

結婚式を挙げないと決まったときの、あのホッとした気持ち。それを感じた時点で、もう私たちに未来はなかったのだ。

もう一歩、健作の方へと足を踏み出す。

久しぶりに間近でみる健作の目は、言葉とは裏腹に、すべてを理解してくれているように見えた。



「あのときの旅行で出たお料理、すっごく美味しかったよね」

「金沢の旅館でしょ?魚が美味くて感動したわ〜。あとさ『ザ・ロースタリー』で一緒にやったラテアート教室!覚えてる?」

「覚えてるよ。健作、『俺は絶対上手い』って謎に自信満々だったのに、バリスタさんに呆れられるくらい下手で…」

「うわ〜。悔しかったの思い出してきた!コロナ終わったら絶対リベンジしてくるわ」

私と健作は、すっかり暗くなってしまった外苑前を手を繋いで歩いた。2年間の付き合いで作った思い出話をたくさんしながら。

こうして話していると、私と健作だけの思い出だってたくさんあったことに気付かされる。

少なくとも、金沢はあのときの旅行で「初めて来た」と言っていたし、コーヒーを好きになったのだって私と付き合い始めてからだ。

― 気にすることなんて、ないのかも。

段々と日が暮れていくなかで、そんな考えがほんの一瞬だけ頭に浮かぶ。

そのとき、ゆっくりと歩き続ける私たちの視界に、ライトに照らされる大きな建物の姿が飛び込んできた。

昨年末にできたばかりの国立競技場だ。

「…結局、オリンピック延期になっちゃって拍子抜けだったね。せっかく作ったのにさ」

煌々と照らされる、新しく巨大な建造物。妙な迫力に気圧された私は、おどけてそんなことを言ってみる。

そんな私に健作は優しい目を向けると、穏やかな声で言った。

「うん。でも俺、この新しい国立競技場は、千秋さんとだけしか見たことないよ。国立競技場見るたびに、千秋さんのこと思い出すよ」

私の目を見つめながら、健作はたどたどしく言葉を続ける。

「金沢に行くたびに、コーヒー飲むたびに、千秋さんのこと思い出すよ。

別れた誰かのこと思い出すなんて…。きっと、これがはじめてだよ」

うまく言葉が出てこない。

健作は、私を雛乃ちゃんと比べたりしない。もう友達になっている雛乃ちゃんのことを思い出したりもしない。

私ひとりが元カノの存在に怯えて、馬鹿みたい。でも、やっぱり一緒にはいられない。

いろんな思いが押し寄せる。最後に健作に何か言いたい。でも、言葉の代わりに出てきたのは、とめどない涙だけだった。

健作は優しく私の涙を拭うと、小さくキスをした後に、下唇にいたずらっぽく軽く噛みつく。いつもみたいに。

「もう、やめてってば」

そう言ってしばらく笑ったあと、私たちは別れた。

ひとりでタクシーに乗り込んだ途端、体をバラバラに引き裂かれるような悲しみが襲ってきたけれど、やっと解放されたような安堵の気持ちも同じくらい大きかった。

久しぶりに感じる、心の平穏。

この安らぎが、このあとたった1年しか持たないなんて…。

このときの私は、思いもしなかった。


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