あなたは恋人に、こう言ったことがあるだろうか?

「元カレとはもう、なんでもないから」

大人に”過去”はつきものだ。経験した恋愛の数だけ、過去の恋人が存在する。

だから多くの人は、1つの恋を終わらせるごとに、その相手との関係を断ち切っているだろう。

しかし “東京のアッパー層”というごく狭い世界では、恋が終わった相手とも、形を変えて関係が続いていく。

「今はもう、なんでもないから」という言葉とともに…。

◆これまでのあらすじ

千秋は、社内の後輩・健作と婚約中。しかし、2人と同じ会社に転職してきた雛乃は、健作の中高時代の元カノだった。

「今はただの親友」という雛乃の言葉に納得し友情を続ける千秋。だが、過去の思い出と比べられているのでは…と疑心暗鬼になってしまった結果、健作に別れを告げるのだった。

▶前回:周囲から“彼の元カノ”と比較される女。思い出の並木道で女が告げた恋の結末とは



「息を吸って…吐いて…意識を指先、つま先に戻して…」

高い室温と湿度の中、インストラクターの穏やかな声に合わせて、体の隅々まで感覚を行き渡らせる。目をつぶって横になっていた時間は5分にも満たないのに、驚くほど体がスッキリとしている。

ゆっくりと体を起こし合掌で挨拶をすると、私はすっかりぬるくなったペットボトルの水を一気に飲み干し、スタジオを出て更衣室へと向かった。

洗面台前の鏡に映し出される体は、75分のホットヨガレッスンを終えて汗だく。過去最高の体重を叩き出した去年の冬頃と比べると、無駄な肉が落ちて、まるで生まれ変わったみたいだ。

いや、本当に生まれ変わった、と言えるのかもしれない。

健作と別れてから、もうすぐ1年。

しばらくは自暴自棄になったり、こうしてホットヨガをしていても、健作との思い出や後悔の気持ちばかりが湧いてきて、苦しさに押しつぶされそうになったりすることもあった。

けれど、今の私はあの頃とは別人になったかのように気持ちを切り替えられている。

シャワールームに入りぬるめのお湯で汗を洗い流しながら、私はなぜだか久しぶりに、健作と別れてから今までのことを思い出すのだった。


健作との別れから約1年。千秋が今思うこととは

健作のことは大好きだったし、本当に結婚したいと思っていた。けれど、1年近く経った今思うのは、この一言に尽きる。

― ほんと、別れて正解だったな〜!!

今思い返してみると、優しいというよりは頼りない性格だったし、私の方が年上という引け目もあってか、健作の前ではいつでも強がってしまっていた気もする。

何より、あの強烈なお母様の存在。

何度やり直しをシミュレーションしてみても、あのお母様にネチネチと嫌味を言われ続ける結婚生活は、とてつもない苦労が待ち受けているだろう。

― 結局は、健作と私は合ってなかったんだよね。

別れてから数ヶ月でその境地に至ったあとは、すぐに完全復活を遂げたのだった。

もともと健作のいるアソシエイト部門とは、業務上ほとんど関わりがない。きっと、思っていたほど社内で会う機会がなかったのが、良かったのかもしれない。

あれだけ存在に悩まされた雛乃ちゃんも、秋にOJT期間を終えたあとは、外資の前歴を活かし海外事業推進室へと異動してしまった。

コロナ禍で在宅勤務もすっかり定着し、今年に入ってから健作や雛乃ちゃんを会社で見かけたのはほんの数回だけ。

これだけ自分は立ち直れたのだ。健作と雛乃ちゃんと仮に同じ部署になったとしても、いい大人だから必要があれば同僚として上手くやっていける気もする。

今はもう、なんでもないから。

あの頃は信じられなかったその言葉を、今になって本当の意味で理解できるなんて…。なんという皮肉なのだろう。

私は苦笑いをしながらコンディショナーを洗い流すと、シャワールームを出た。

― でも、なんで急に健作のことなんて思い出したんだろう?最近は全然気にしてなかったのに…。

火照りのおさまった体を拭きながらボンヤリと考えていた、そのとき。背後から、馴染みのある底抜けに明るい声が聞こえた。

「千秋ちゃんっ!久しぶり!」

振り返った私は、思わず興奮した声をあげる。

「えっ、明日花ちゃん!」

ロッカーの前でいたずらっぽい笑みを浮かべる、すらっとしたスタイルの女性。それは、このホットヨガスタジオで出来た友達・明日花ちゃんだった。



「明日花ちゃん、久しぶりー!2ヶ月くらい経つかな!?レッスンにいた?全然気がつかなかったよ」

「ううん、今日は久々の慣らしってことで、アシュタンガじゃなくてのんびりめなハタヨガのクラスを取ってたんだ。

ほんと久しぶりだよね。オリンピックがやっと終わったから仕事が落ち着いて、時間を作れるようになったの!」

その言葉に、私はハッとする。

もともとスポーツにあまり関心がないけれど、そういえば、2週間ほど前にオリンピックが終わったばかりなのだ。

健作と別れたときに見た、空っぽの国立競技場。

そこでオリンピックが行われたというのに、開催期間中はまったく健作のことを思い出さなかった自分に、我ながら呆れてしまう。

― でも、そっか。心のどこかでは覚えてたから、久しぶりに健作のこと思い出したのかな。付き合ってる間は雛乃ちゃんとの思い出にあんなに嫉妬してたのに、未練がないと本当に思い出さないものなんだなー。

神経質になりすぎていたあの頃の自分を思い返していると、明日花ちゃんが楽しそうに言葉を続ける。

「ねっ、このあとヒマ?久しぶりだしごはん行かない?」


新しい友人・明日花と千秋の間にまさかの共通点が…

「うん、ひまひま!行こう」

久しぶりの再会に嬉しくなった私は、明日花ちゃんからのお誘いに即答する。

「やったぁ!」

ピカピカとした笑顔で喜ぶ明日花ちゃんは、いつだって私に元気をくれる。私がここまで立ち直れたのは、彼女との出会いが大きいかもしれない。

失恋と在宅勤務のストレスで信じられないほど太ってしまった私が、おそるおそるホットヨガに通い始めた去年末。体型を見られるのが恥ずかしくて縮こまる私に、明るく話しかけてくれたのが明日花ちゃんとの出会いだった。

テレビ局のスポーツ局に勤めているという明日花ちゃんは、美人で快活。ダイエットのために食事を極端に減らしている私を心配して、ヘルシーなご飯に誘ってくれるほど性格もいい。

年齢は私よりも3、4歳は下に見えるけれど、フレンドリーで壁を感じさせない彼女とは、すぐに仲の良い友達になれた。

コロナ禍で人と会う機会が減り、婚約者もいなくなった私にとって彼女と過ごす時間は、数少ない楽しみになっていたのだ。





ヨガスタジオをあとにして、2人で訪れた『WE ARE THE FARM EBISU』でも、私はずっと彼女の話に笑いっぱなしだった。

「…っていうことがあったの!ひどくない!?」

「あはは、それは明日花ちゃんがダメでしょ〜!」

仕事もプライベートもあけすけに話してくれる彼女は、変に隠し事をしないオープンでさっぱりとした性格が一番の魅力なのかもしれない。

ケールたっぷりの火鍋を前に2人で尽きない会話を楽しんでいると、ふとした話の切れ目に、明日花ちゃんがまじまじと私を見ながらこう言った。

「てかさ、ちょっと見ない間に千秋ちゃんまた痩せたんじゃない!?すごい綺麗になった!」

「えー、そうかな?自分じゃあんまりわからないけど…」

「そうだよ!初めて会ったときと全然違うって!ちょっと昔の写真と見比べてみようよ」

話の流れで私はスマホを取り出し、2020年末の一番太っていた写真を2人で確認した。確かに、今と見比べてみるとふた周りは大きな体格の私の姿に、私と彼女も思わず驚きの声を上げた。

「いや、このときが一番太ってただけだから!今がちょうど、コロナの前に戻ったくらいかも?」

「えーそうなの?千秋ちゃんの昔の写真、見たい見たい!」

そう言われて私は、さらにカメラロールをさかのぼって2019年の頃の写真を確認する。



― たしか、夏に江ノ島へ行ったときの水着姿の写真があったはず…。

予想した通り、2019年夏ごろのカメラロールには、今と同じくらいほっそりとした私の写真がたくさん保存してあった。

しかし、何も考えずにスワイプしていた指が、ふと止まる。水着で楽しそうにはしゃぐ私の横に、たった1枚だけ…健作が映り込んでいる写真があったのだ。

写真は、別れた直後に全部消したと思っていたのに。

健作のことは今はもうなんとも思っていないけれど、幸せの絶頂だったこの頃の写真を見てしまうと、ほんの少しだけテンションが下がってしまう。

そんな私の表情の変化を見て、不思議に思ったのだろう。明日花ちゃんは私の方に少し席を寄せると「どしたの?」とスマホを覗き込んでくる。

「あ、ううん。なんでもない…」

そう言って微笑もうとした私は、彼女の方を見て思わずギョッとしてしまった。

今まで微笑みを浮かべていた明日花ちゃんが、私のスマホを穴があくほど凝視しながら、これまで見たことのない真顔になっているのだ。

「あ、明日花ちゃん…?」

驚きで言葉を失う私に、彼女がゆっくりと顔を上げる。そして、かろうじて聞こえる小さな声でこう言った。

「千秋ちゃんの隣にいる、この人って…。健作くん、だよね?」


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健作を知っていた明日花。気になる明日花と健作の関係とは?