高い偏差値を取って、いい大学へ進学する。

それは、この東京で成功するための最も安定したルートだ。

…あなたが、男である限り。

結婚や出産などさまざまな要因で人生を左右される女の人生では、高偏差値や高学歴は武器になることもあれば、枷になることもある。

幸福と苦悩。成功と失敗。正解と不正解。そして、勝利と敗北。

”偏差値”という呪いに囚われた女たちは、学生時代を終えて大人になった今も…もがき続けているのだ。

▶前回:偏差値70の進学校で”底辺”だった女。1流大を出た同級生に「なんで来たの?」と同窓会でマウントされて…



File4. 紀子(25)
音楽への純粋な思い


「やっと、この舞台に立てる日がきたわ」

紀子は、初めてオーディションに受かったミュージカルの初日を迎えていた。

何度も読み込んだ台本は、他の出演者の誰よりもくたびれている。

― 観客から見たら、私はただの端役の1人にすぎないかもしれない。それでも、私はこの役を精一杯、心を込めて演じてみせる…。

そう決意を新たにした紀子は、くたびれた台本を前に今までの自分を振り返っていた。



教育熱心な家庭に育ち、数多くの習い事に捧げた幼少期。

それらの習い事の中でも、紀子はとりわけピアノが大好きだった。

多くの子供と異なり、練習を嫌がるどころか自ら毎日ピアノに向かうような女の子だったのだ。

中学生の時には、ピアノに加えて声楽の勉強も始めた。「表現する」ことの奥深さ・面白さに目覚め、自分の将来について既にこう決めていた。

「私は、将来は絶対に音楽の道に進みたい!ミュージカル女優として、様々な人間を表現するようになりたい!」

その紀子の夢を知ったピアノ講師からは、当然のように音大付属高校への進学を勧められた。

しかし、音楽のみならず主要教科でも学年トップの成績を誇っていた紀子は、こうも思ったのだ。

― 早い段階から、自分の可能性を狭めない方がいいのかも…。

高偏差値であるがゆえの、迷い。その迷いに流されて、紀子は普通科の進学校に進んだのだった。



入学した高校は偏差値70を超え、もちろん進学率100%。ほぼ全員が国立早慶を目指すような進学校だった。

しかし、高校入学前から「音楽の道に進む」という夢があった紀子は、主要教科の勉強には適度に励みながらも、音楽の勉強を最優先とする日々を送っていた。

そして迎えた、3年次の進路面談。

「志望大学は?」と聞く担任教師に対して、ついに決意を固めた紀子は意気揚々とこう伝えるのだった。

「私は音楽、特に声楽の道に進みたいと考えています。ですので、東京芸大音楽学部を第一志望校として、国立音大や武蔵野音大を併願します」

だが、それを聞いた担任教師からの反応は、紀子の予想を裏切るものだった。


想像を超える厳しい芸術の道に、迷いが生じはじめる

予想を超える厳しさに、紀子は思わず…


「君の志望進路はわかったよ。だが、芸大に現役合格するのは、ある意味東大に現役合格するより難しいことくらいはわかっているよね?しかも、はっきり言って芸大や音大は就職も楽ではない。無事に卒業できたとしても、その後の人生はきっと困難が待ち受けているだろう。

君の成績なら、受験対策をきっちりすれば現役で早慶は行けるだろうし、その方が人生の幅は広がると私は思うよ。それでも、本当に芸大を目指すというのか?」

担任教師からの言葉は、決してむやみに紀子の志望に異を唱えているのではない。紀子の将来を心配するからこその言葉であることも、十分なくらいに理解できるものだった。

その上で、紀子は覚悟を持ってこう答えた。

「厳しさはわかっています。それでもやりたいんです」

― 先生にこう宣言した以上、後は引けないわ。絶対に芸大に合格してみせる!

こう決心した紀子は、センター試験対策もぬかりなく進めつつ、2次試験の実技試験への準備を進める。

そして、多くの受験生が浪人覚悟で受験する芸大音楽学部に、見事に現役で合格を果たしたのだった。



上野公園の北側に位置する、東京芸大の音楽学部。

入学式に、新入生として歴史ある音楽学部の正門をくぐった時の感動は、とても言葉に言い表せなかった。

音楽エリート揃いの芸大の授業は、決して易しいものではない。

しかし紀子は、授業のみならず大学院の定期オペラなども盛んに催され、思う存分に音楽に触れられる生活に、日々幸せを感じていた。

― 私は、やっぱりミュージカル女優を目指したい!

充実した日々の中で、中学から抱き続けた思いが確固たるものになるのに、そう時間はかからなかった。

紀子は、在学中から劇団や公演のオーディションに応募するようになった。

しかし、これらのオーディションには、もともと非常に限られた募集枠に対して多くの音楽エリートが応募する。オーディションには面接どころか、書類選考すら通らないことも度々だ。

「偏差値70の進学校から現役で東京芸大に行った」という就職活動では使えそうな経歴も、オーディションではまったく意味をなさない。

― わかってはいたけど、現実は甘くない…。

声楽家やミュージカル女優として成功する人などほんの一握りであるという現実を、改めて思い知らされる。

そうこうしている間に、進路が決まらないまま卒業の日を迎えてしまうのだった。



大学卒業後。

相変わらずオーディションも通らず、「ミュージカル女優」として全く芽が出る気配もないまま、紀子は音楽教室などで細々と働く毎日を過ごしていた。

一人暮らしをする余裕などもちろんないため、いまだに実家で暮らしている。

「生計を立てるために働くなら」という条件付きで、両親はミュージカル女優への夢を追うことを許してくれていた。

しかし、きっと内心では我が娘の行く末を案じていることくらい、紀子にも察しがつく。

両親の方針で、教育にかけるお金には糸目をつけない家だった。

紀子が幼少の頃から通ったピアノ、声楽のレッスン、そして芸大入試のための予備校…。

それらにかかった莫大な額のお金も、このままでは無駄になってしまうのだろう。

そんな日々を送る中で、紀子は久しぶりに高校の同級生とランチ会で集まった。

彼女たちは、有名大学に進学し大手企業に就職した“勝ち組”ばかりだ。

「紀子、芸大卒業して何しているの?」

「…うん、音楽教室で働いたり、演奏会出たり…」

「ミュージカル女優を目指しているの!」と、声を大にして言いたかった。

しかし、「何を夢みたいなこと言っているの?」とバカにされることが怖くて言えなかったのだ。

ランチ会で繰り広げられる、友人たちの恋愛や将来の話。それらにまったく入り込めない紀子は、皆の話を聞いて「うん、うん」と頷くことしかできなかった。

― 高校時代は、みんなと同じ立ち位置にいたはずなのに…自分の夢を追いかけた結果、すごい差がついちゃったなぁ…。

収入も、恋愛も、すべて捨てて夢に邁進してきた。

しかし、その結果…

家族には心配され、友人との会話にも入り込めず、誰からも認められていないと感じるようにさえなっている。

― 高校の時、担任の先生の言うことを聞いておけばよかったんだ。大学も芸大ではなく普通の大学に行って普通に就職すれば、こんな迷いが生じることもなかったのに…。

「芸の道を生きる!」と意気揚々としていた頃にタイムスリップして、その時の自分に現実を知らせてやりたいとさえ思ってしまう。

あのまま高偏差値な道を突き進んでいれば、紀子にだって、友人たちのような満たされた生活があったはずなのだ。

こうして好き勝手した結果、取り残されてしまっている現実が、両親に対して恥ずかしい。

― もう、諦めよう。両親をこれ以上心配させるわけにはいかない。音楽教室でも何でもいいから適当に就職して、婚活でもしよう。現実を見るべきだったのに、高校時代の私はなんてバカだったんだろう…。

思い詰めた紀子は帰宅後、リビングにいた母親にこう告げたのだった。

「お母さん、私…音楽の道を諦めようと思うの」


母からの意外な返事

「音楽の道は諦める。いままでたくさんお金をかけてきてもらったのに、ごめんなさい。もうこれ以上、お父さんとお母さんを心配させるわけにはいかないって思ったの。

これからは“まとも”に働いて、かかったお金は少しずつでも返していくつもりだから…。わがまま言って、安定した道を外れてしまって、ごめんなさい…」

決意を伝える紀子に対して、母親の返事は意外なものだった。

「あ、そう。わかったわ」

その返事は、拍子抜けしてしまうほどあっさりしていた。しかし、母親は続けて、紀子の目をしっかり見てこう言うのだった。

「その決断、紀子が本当に幸せになれるのならいいわよ。

でも、選んだ道から逃げることに、お父さんとお母さんを都合よく使われてるのだとしたら…悲しいわ」

「……」

今思えば、両親はいつだって紀子の希望を大切にしてくれた。

音楽の道へと続く投資はもちろん、進学校へ進むことも、進学校から芸大へと異例の進学をすることも、「紀子が決めたことなら」と応援してくれたのだ。

「お金を返すから」。

そんな言葉を、一度でもこの両親が欲しがっただろうか。

― 私は一体、両親からどれだけの恩恵を受けてきたのだろう。そして、それをこの瞬間で無下にしようとしていたんだわ…。

自分の弱い気持ちを母親に見透かされ、今までかけた様々な苦労を無駄にしようとしていた。

気づかぬ間に、紀子の目には涙が溢れている。母親に対して顔を向けたかったが、その勇気も出なかった。

紀子と母親の間に、重い空気が流れる。

「…心配かけてごめん、もう一度頑張ってみる」

うつむきながらも、静かに母親にこう告げて、自分の部屋に紀子は入っていった。



― このままでは終われない。育ててくれたお父さんやお母さんにも、本当の意味で申し訳が立たない。もう少しだけ、自分を信じて頑張ってみよう。

こう決心し、音楽教室のバイトを減らして受けるオーディションを増やしていく紀子。

題材1つ1つに対して、作者の思いは何か、どう演出されるのか、自分ならどう考えて演じるのか…。

今までより、一層真摯にオーディションに向かうようになっていた。

そして2ヶ月後。

紀子のもとに1通のメールが届いた。

「この度は、オーディションへご応募いただきありがとうございました。書類選考および実技の結果、片桐紀子様に〇〇の配役で出演いただきたく…」

それは、ミュージカルのある役に合格したことを知らせるものだった。

主役などではない。しかし、きちんと台詞と歌がある役だ。

― やっと!やっとだ…!

目指し続けていた「ミュージカル」のスタートラインに、ようやく立てる日が来た。

オーディションに受からない日々、高校の友人たちとのランチ会、母親との会話…これまでのことが頭を駆け巡る。

周囲から見たら、とても小さい出来事かもしれない。

しかし、達成感を得た紀子は、やっと「今までやってきたことは、決して間違いではなかった」と、自分を認められるようになっていた。

― 結婚も、子供も、金も、すべて捨てていると思われても構わない。皆は皆だけど、私は私。これからも、私は好きな音楽の道を生きていくんだ!

メイク室の鏡に映る自分に向かってそう決意して、初演に臨むのであった。


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