恋に仕事に、友人との付き合い。

キラキラした生活を追い求めて東京で奮闘する女は、ときに疲れ切ってしまうこともある。

すべてから離れてリセットしたいとき。そんな1人の空白時間を、あなたはどう過ごす?

▶前回:仕事を休んだ女は、都心のホテルへと向かい…。平日昼間にだけ許される、婚約者にも秘密の時間



特別な人のための限定車


2021年秋。

― 明日はどこへドライブしようかしら…。

金曜日の夜。一葉は代官山にある自宅で軽い夕食をとりながら、明日のお出かけする場所を考える。そんな、自分自身の変化に少し驚いてしまう。

コロナ禍以前の金曜の夜といえば、友人が経営する店でOLのひと月のお給料以上の金額のワインを開け、仲間と朝まで楽しんでいた。

そして、昼過ぎにはタクシーを呼び、ホテルで彼氏と優雅にブランチ。そのあとは、美容クリニックで一緒にメンテナンス。旅行に行かないときの休日ルーティンだ。

“しっかり働いて、自由に使う”

人生にきちんとテーマを決めていた一葉は、都心の気ままな35歳・独身生活を心の底から愛していた。

しかし、長引くコロナ禍で外で自由に楽しめなくなってしまい、さらに“ある出来事”のせいで追い討ちをかけるように深く落ち込んでいたのだった。


35歳・独身女の一葉が深く落ち込んだ“ある出来事”とは…?

梅雨ごろ始まった憂鬱


深く落ち込んだ理由は自分自身でも意外なことに、新人研修の役員パートを任されたことがきっかけだった。

普段はカジュアルゲームの会社を共同創業した元夫がその研修を担当している。だが、今年の新人は女性の割合が多いため、一葉がやることになったのだ。

中堅規模の会社なので、日頃からバックオフィス業務も担当している一葉。理由が理由だしと、軽い気持ちで引き受けた。

だが、このときの新人研修が一葉をさらに落ち込ませる出来事になるとは、まだ気づかなかったのだった。

今回はオンラインの研修なので、一葉にとって初めての試みだ。新入社員にきちんと伝わるか不安があったので、資料作りに普段以上の時間をかけた。

また、創業者ゆえに猛烈に働いてきた自分が、今の新人にとってプラスに映るのかどうか不安に思っていたのだ。

そして、その不安は見事に的中してしまった。

一葉の研修が始まった数日後に、早速、1人目の脱落者が出てしまったのだ。

『申し訳ございません。やはり会社に向いていませんでした』

今どきの子らしく、Slackで人事宛に退職希望のメッセージを送ったようだ。

― 私のやり方が悪かったのかしら…。

会社を創業してからそれなりに大きくしてきたので、一葉は仕事に対して人一倍の責任感がある。

一方で、たった1人の新人でさえ仕事に巻き込めないなんて、自分の実力に不安を抱くようになってしまった。

加えて、新人の子からの質問でこれまでの一葉の働き方を答えると、こんなストレートな意見を伝えられてしまったのだ。

「一葉さんって、ずっと仕事のことを考えていてすごく熱心ですよね。私には、難しいかもしれません」

「あら、そう?私のように誰でもなれるわよ」

やはり、自分の働き方は今の時代に合わないのだろうか。研修の段階で、すぐに1人辞めてしまったことが事実なのかもしれない。



パソコンのモニター越しだったのでとりあえずその場は流したが、どことなく小ばかにしたような言い草に、苛立ってしまう。

そして同時に、一葉は少しだけ悲しくなってしまった。

― 一生懸命働いてきたって、そんなに変なことなのかしら…。



「一葉、おつかれさま」

7つ歳下の彼氏・雄二が、一葉の大好物であるしろたえのチーズケーキを持って家に来てくれても、落ち込んだままの気分は晴れなかった。

そして、その感情の矛先は彼氏である雄二に向かってしまった。雄二が新入社員を擁護するので、一葉はムキになりけんかをしてしまったのだ。

「どうして?信じられない。彼氏なんだから新入社員じゃなくて、私の味方をしてよ」

「味方だよ。でもみんなが一葉みたいにはなれないんだよ。もう、俺帰るね」

― ただ「頑張ったね。嫌だったね」ってなぐさめて欲しかっただけなのに。

得意の仕事では新入社員の気持ちすらつかめていないし、気がつけば彼氏とだってもめている。

一葉は、とても憂鬱な気持ちになってしまったのだ。



「一葉さん!お久しぶりです」

とある夏の日。ずっとモヤモヤしたままの一葉はTwitterで自分の本音をつぶやくと、OL時代の後輩の加奈子がランチに誘ってくれた。

十番にあるイタリアンで、平日から赤ワインに合わせて名物のアラビアータを頬張ると、外食が久しぶりなことに気がついた。

そして、ふと外に目をやると、笑顔で犬の散歩をしているカップルが目に入ってしまった。雄二を思い出してしまい、つい見入ってしまう。

すると、加奈子がこう言った。

「大丈夫ですか?元気出してください。一葉さんは特別ですよ!」


後輩に励まされる一葉。本来の自信を取り戻し、ある“特別”に出合う…

― 特別?

一瞬耳を疑ったが、加奈子は気にせず話を続けている。

「みんな一生懸命に仕事をしても結果が出るとは限らないとわかっているから、一葉さんのように熱心にできないんですよ。だから、一葉さんは私たちのような普通の会社員の憧れなんです」

一葉は、加奈子の目をじっと見つめながら話に耳をかたむける。

「それに、プロダクトもバックオフィスも見るなんて…。ほどほどにしないと疲れますよ?」

後輩にとっては何気ない励ましの言葉だっただろう。特に、彼女の「特別」という一言に、確かな自信を取り戻している自分に気がついたのだ。

そうだ、自分は人より少しだけ頑張り過ぎていたのかもしれない。それに、思うように外出できない日々が続いて落ち込みすぎていたのかも、と思えた。

「ごめん、後輩に励まされるなんて…。加奈子ありがとう」

気がつくとホッとして涙が出ていた。疲れがたまっていたのだろう。

そこからは、加奈子の夫の愚痴や、コロナ禍でパン作りが趣味になったという話を聞いた。

デザートのころには、お家時間でSATCを何度も見返したという話題に。2人とも大いに笑ったあとは、お礼に一葉がご馳走して加奈子と別れた。

すっかり元気になった一葉は、気がつくと一の橋の交差点まで歩いていた。

久しぶりに思いっきり買い物でもしたいなぁ、と思いつつ歩いていると高級車が目の前を通り過ぎ、ある思いがよぎった。

― 車、いいなあ。何か新しい趣味でも始めたいな…。

帰宅後、iPhoneを見ると珍しく一葉の親からLINEが届いていた。

『買う?』

その一言と、添えられた“ある画像”に一葉は見入ってしまったのだった。



それは、今最も手に入りにくいと言っても過言ではない、メルセデス・ベンツのゲレンデ、d400 manufakture Editionだった。

専用のボディカラーはホワイトとブラックのバイカラー。聞くと限定車で数に限りがあるので、購入は抽選になってしまう上に、新車はもう日本に数台しかないらしい。

『俺は何台も乗ってきたから…。チャンスを譲ろうと思って』

東海地方で不動産業を手広く営んでいる、一葉の父らしい言葉だ。



「とっても可愛い…」

気持ちよく晴れた夏の大安の日。マンションの地下駐車場に、担当さんが納車をしてくれた。

一葉は、父からのLINEに『買いたい』と返信をしたのだ。

限られた人しか手に入れることが出来ないという“特別感”と、加奈子が自分を「特別」だと言ってくれたことが重なったからだ。

とはいえ、まだまだ“特別”な存在には程遠いが、これまでの頑張りとこれからの自分への期待から、買いたいとはっきり意思表示をした。

もちろん、自分だけの力ではなく父のこれまでの購入歴のおかげで買うことができたのだが、偶然にもマンションの駐車場が2台空いていたのだ。物事はやはりタイミングが重要である。

それに何より、ぎこちない関係になっていた雄二は車が好きで、彼が賛成してくれたことも購入の決断につながった。

「頑張ってる一葉の息抜きに、限定車を買ってドライブするのもいいんじゃない」

ケンカしてから、気まずくなっていた2人の関係。この車が、私に素直に詫びるきっかけを与えてくれたのだ。



― 見晴らしが良くて、最高!

納車後、1人で大好きな曲を流しながら車を走らせた。

1人のドライブは想像以上に爽快感があって、自分の人生がこれからどんどん前に走って行けるような気がした。

人通りの多い代官山の駅前を抜け、渋谷方面へと向かう。最初の目的地は、雄二の自宅のある赤坂にした。

「本当に買ったんだ、一葉すごい!かっこいいよ」

雄二がそう言ってくれて、改めて特別な買い物には、特別なチカラがあると感じたのだ。


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