感染症の流行により、私たちの生活は一変してしまった。

自粛生活、ソーシャルディスタンス、リモートワーク。

東京で生きる人々の価値観と意識は、どう変化していったのだろうか?

これは”今”を生きる男女の、あるストーリー。

▶前回:おうち時間で15kg増した美女。中途入社の男に恋してしまい、ダイエットを決意するが…


Act6. 僕の正義、彼女の正義

2020年5月


「建樹さん、もうお昼よ。久々に『文化人』へ、おそばでも食べに行かない?」

天気のいい土曜日。築地にある3LDKの高層マンションの寝室。

霞が関に勤務する30歳の中村建樹は、1つ年下の恋人・勝瀬夕子の声で目が覚めた。

「あ…そんな時間か。もうちょっと寝たいんだよね…」

「そう…せっかくのお休みだからね。じゃあ、ランチは何か作っておくね」

このご時世、国内が混乱している今、建樹もその対応で大忙しだ。

残業が続き、帰宅後も職場から呼び出されることはしばしば。その日も、1ヶ月ぶりの休日だった。

― そういえば、前の休日もこんな感じだったな。

夢うつつの中、建樹はぼうっとそんなことを思う。

気づけば、まともに彼女と会話した記憶は1ヶ月以上ない。

次の休みこそは何かしようかと思いながらも、このご時世、遠出もできず、結局寝て過ごしてしまう。

― まぁ、そのことは十分承知で一緒にいてくれているはずだから…。

建樹は免罪符のようにその言葉を自分に言い聞かせる。彼女を軽く見ているわけでも、甘えているわけでもない。

ただ、信じているのだ。

自分の仕事を理解し、迷惑にならぬよう文句を言わずについてきてくれている女性。だからこそ、仕事に集中するのが自分の務め…建樹はそう思っていた。

“あのこと”を知るまでは…。


自分に尽くしてくれる完璧な恋人。しかし彼女はコロナ禍で…

夕子とは2年前、友人の紹介で出会った。

“多忙な自分を支えてくれる人”それが建樹の求める女性像だったが、ジェンダー平等が謳われる今、なかなか口に出すことはできなかった。

前時代的な考えなのは承知している。しかし、この仕事でムリなく生活を維持するためには、そうでなければ成り立たないと思うのだ。

「建樹さんを妻が支えるのは当然よ。だって、日本を支える仕事をしているんだものね」

ある食事会で恐る恐る自分の理想を語ると、ただ1人声を弾ませた女性がいた。それが夕子だった。

利発そうな見た目とは裏腹に、古風な考えを持っている彼女。現在、映像や書籍の翻訳業のかたわら、子ども向けの英語教室で教師をしている。

仕事を続けるにせよ、フレキシブルな働き方ができるため、今後遠方への転勤も考えられる彼にとってぴったりの相手だ。純粋で無垢な性格にも癒された。

建樹が好意を持つのは当然のことだった。程なくして彼は公務員宿舎を出て、結婚を前提に2人で暮らし始めたのだ。



2021年5月


自粛生活も1年を超えたある夜。

帰宅した建樹が夕食の野菜炒めを食べると、どこか不思議な味わいが彼の口の中に広がった。味噌汁も最近は味が薄い。

「あれ、ちょっと味付け変わった?」

「オーガニックのお野菜と調味料を使ったのよ」

夕子が見せてくれたのは、知らないメーカーのもの。完全無添加で自然に優しい素材で作られたものだという。

― そういえば、最近、家の中に見慣れないパッケージの水や調味料が多くなってきたような気がする。

話を聞けば、近所の自然派食料品店のイベントで知り合った女性と友人になり、食料を譲ってもらうようになったとか。

「本当にいい人よ。お話ししているだけで心がハッピーになるんだ」

結婚のために借りた、職場に近いこの部屋。彼女にとっては土地勘がなく、なかば放り出したような場所で、彼女に友人ができた事実に建樹はホッとした。

少々引っかかる部分はあったものの、彼女が笑顔で自分を支えてくれるのであれば、それでよかった。

仕事に集中さえさせてくれれば、それで十分なのだ。

しかし…。

そのモヤモヤは、徐々に大きくなっていくのだった。

「あれ、ここにあった薬箱、どこか違う場所に移動させた?」

「それ、成分調べたら危ないものばかりだったから、みんな捨てたわ」

「成分って…ちゃんと認可もされている薬だよ?」

夕子は聞く耳を持たず、むしろキラキラした目で訴える。

「あのね、信頼してるお医者さんが言うには、人間には自然治癒力というものがあって、市販薬はそれを減退させる作用があるみたいなの」

どこか嫌な予感がした建樹は、反論ができなかった。そのまま、寝室のベッドに倒れこむ。

― なんか最近、彼女おかしいよな…。

リビングで誰かとリモートで話をしはじめた夕子。やけに弾んだ声を聞きながら、ふとよぎる。

ふらつく足元で陰から様子を伺うと、パソコンの画面に30代くらいの女性が8人ほど映っていた。不思議なことに、みんな満面の笑みだ。

「自然と共生すれば、人間は本来の力を取り戻せるはずなのよね」

「ポジティブがすべての毒を浄化させるのよ」

「早くみんなにこのことを教えてあげないと」

建樹は、その理解不能な会話に耳を疑う。

― 怪しい宗教なのか?

だが、誰も皆、普通の女性たちに見える。それ以上首を突っ込むと、自分も引き込まれてしまいそうな妙な輝きを感じてしまったため、おとなしく寝室に戻った。

今見たのは、何かの間違いだ…建樹はそう思うことにした。

だが…。

翌朝、彼女の更なる恐ろしさに直面してしまうのだった。


どんどん変わっていく彼女。そのせいで建樹は命の危機にさらされる…

朝になっても、昨晩から続く頭痛と吐き気が一向に治らない。

建樹は仕事を休むことにした。かかりつけの病院に連絡の上向かおうとすると、夕子に寝室へ連れ戻されてしまった。

「病院はダメよ。人体実験に使われて、情報操作の餌食になるだけ。綺麗な水を飲んで休むことが1番の治療法なの」

「でも…本当に苦しいんだ。もしものことがあるかもしれないし」

「熱もないんでしょう。大丈夫」

夕子は建樹にペットボトルからグラスに注いだ水を飲ませ、体をさする。それでもすぐ体の不調が改善するわけはなかった。

「大丈夫って、何を根拠に…」

「大丈夫は魔法の愛言葉よ。言葉には魂が宿っているの」

聞けば、飲ませてくれた水も、採水後に愛の言葉を毎日かけ続けて生まれた聖水なのだという。

命の危機を覚えた建樹は彼女を振り払い、病院へ向かう。

結果、過労と診断され1泊入院をしたものの、家へ帰宅する気は起きなかった。



その後、1週間はホテルに滞在し、建樹はそこからオフィスに通った。

― 完璧な女性だと思ったのに…。あんな人だったとは。

別れを決意するのは、自然なことだった。

休日の朝。建樹は彼女の在宅していない隙を見て、荷物を持ち出すことにする。

だが、フリーランスの彼女は生活パターンがまったく読めない。

恐る恐る、建樹は彼女のSNSを検索した。

― やっぱりな…。

案の定、彼女の最新の投稿は、あの怪しい友人たちの影響であろう、やけに前向きな言葉で彩られた日記ばかりだった。

さらに情報を得るため、彼女の投稿をさかのぼっていく。

すると、あることに気づく。

過去にさかのぼるにつれ投稿回数も増えてゆき、内容がどんどん暗くなっているのだ。

マンションの中だけで完結している、小さな日常の投稿。

青空や雲、マンションの窓から見える空だけの写真もあった。それは、籠の中から「誰か見つけて」と言わんばかりだ。

自粛生活の中、ほぼ1人で過ごしていたから、仕方ないのかもしれない。

それに比べれば、今の夕子の姿は生き生きと見えた。

建樹は気づく。

― 支えてあげるのは、僕の方だったのか…。

本当のところは、自分の考えが正しいのかはわからない。ただわかったのは、自分は、彼女を何も見ていなかったこと。

生活パターンさえ、知らなかったほどに。

自分は忙しさに甘え、誰かに支えてもらうのが当然だと思っていた。

こんなときだからこそ、支え合わなければいけないのに…。

自粛生活、未曽有の危機…不安な状況のなか、心の隙間につけ込まれても仕方ない。すべての原因を作ったのは、自分なのだ。

建樹は彼女が部屋にいることを願って、一緒に暮らすマンションへ向かう。

「ただいま…」

光を浴びて、ヨガをする彼女の顔は明るい。聞けば、太陽を通じて宇宙エネルギーを受け取っているのだとか。

「おかえり。入院長かったね。だから言ったでしょ、薬は余計悪化するって…」

にっこりと笑って近づいてくる今の彼女には、彼女なりの正義がある。

真の輝きを取り戻すまで、時間はかかるかもしれない。

建樹は逃げることなく、しっかり彼女と向き合ってゆこうと決意したのだった。


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