これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:西新宿のタワマンに住んでいるのに、毎回デートでホテルを取る彼氏。友人から「怪しい」と諭されて…



ケース3:ホテル街へと通う人妻・奥菜美保(35歳)


「いってらっしゃい…!」

黒のレクサスに乗りこんだ夫を見送り、私はスマホを開く。非表示に設定していたメッセージをオンにすると、部屋の掃除を始めた。

一通り家事が落ち着くと、プラダのフラットシューズに足を入れながらLINEを送る。

美保:今から向かうね

水曜日の昼下がり。数億円の家々が立ち並び、美術館や高級ブティック、レストランが軒をつらねる閑静な高級住宅街・松濤。

そんな街をウロウロと歩き回りながら、返信を待つ。すると右手に握りしめていたスマホが震えた。

佑希:304号室

たった一言のメッセージを見た瞬間、私は松濤文化村ストリートへと通じる路地を駆け出した。

通りを1本越えると、街の空気は一変する。文化村ストリートは、高級住宅街とホテル街を分かつ境界線なのだ。

人目を忍んで坂を登ると、紫やピンクのネオンに彩られた看板が見えてくる。リゾート風の建物が並ぶ様は、設計図なしに作られたテーマパークのようだ、といつも思う。

路地を一歩入ると、通りからはじき出されたかのような小さいホテルが、ひっそりとたたずんでいた。

背後に誰もいないことをうかがい、老婦人が居眠りしている受付をすり抜けてエレベーターに乗り込む。

経営者の夫と、小学1年生になる息子を持つ私が、なぜこんなところに来ているのか。それは、誰にも言えない“悩み”のせいだった。


松濤に住む人妻・美保の秘密とは

夫の亮平と結婚したのは、8年前。

大手保険会社に勤務し富裕層向けの資産運用に携わっていた私は、営業先の社長の紹介でベンチャー企業を立ち上げたばかりの亮平と出会った。

「俺の家、金がなかったからさ。美保みたいな人と一緒にいると、なんか頑張れる気がするんだよね」

大学教授の父と専業主婦の母のもと、成城学園にある実家で何不自由なく育った私。

これまで出会ったことなかった野性的な彼のペースに巻きこまれ、半年ほど付き合ったのちに実家を出て、すぐに結婚したのだった。



医療系のITベンチャーを立ち上げていた亮平の事業は結婚後に成功し、松濤に一軒家を購入。結婚して1年後には息子が生まれた。

成功者の夫と、20代で産んだかわいい息子。そして松濤の一軒家。誰もがうらやむ、理想の結婚生活だ。

だが息子が成長するにつれて、私たちの間には大きな隔たりが生まれていった。お酒を飲んだ亮平が、暴力をふるうようになったのだ。

結婚前は、優しくて紳士的だったはずなのに。酔って帰ってきては、まるでモノでも扱うように暴言を吐いた。

「お前みたいなお嬢さんを見てると、ぶち壊したくなるんだよな」

酔った勢いで体を求められることも多かった。いつの間にか私の心は拒絶反応を示すようになり、息子が生まれた時期を境に、関係を持つことはなくなった。

そして次第に、亮平の周りには女の影がちらつき始めたのだ。甘ったるい女の香りが残る夫の下着を洗濯機へ放りこむときは、吐き気がした。

働くことも許されず、亮平と息子を見送ってからは、夕方まで韓流ドラマを見続ける日々。

― もう私は、誰にも抱かれずに一生を終えるのだろうか。

そう諦めていたある日、佑希と出会ったのである。

彼と出会ったのは2年前の冬。冷たい雨が降る水曜のことだった。文化村ストリートの歩道で、捨て猫のようにうずくまっている彼を見つけたのだ。

「…大丈夫ですか?」

顔をあげた佑希は、高校時代に片思いしていた先輩に似ていた。前髪が切れ長の目にかかり、少し上向いた唇が紫に染まって震えている。

「お金、なくなっちゃって」
「えっ、盗まれたとか?」
「いや…。金、持ってないんです」

切なげな彼をどうしても放っておけなかった私は、初めて文化村ストリートを越え、円山町の路地裏にある中華料理屋へ入った。

役者を目指し佐賀から上京してきたと言う佑希は、何も持っていなかった。

金も家もなくて、家族もいない。でも、まだ何も手に入れていない12歳も年が離れた彼のことが、私は逆に羨ましかった。

友人の家に間借りしているという高田馬場までタクシーで送り、数日たったある日。佑希からLINEが届いた。

佑希:また、会えませんか?

いけないと思いつつも、毎週水曜になると喫茶店や漫画喫茶の個室で会うようになった。…彼は私が欲しいと思うものを、すべて与えてくれたから。

「大好き」という言葉。「愛している」というささやき。肩を並べて食べる500円の牛丼は、どんなフルコースよりも美味しかった。

私が望む言葉なら、どんなことでも伝えてくれる佑希が愛おしかった。そして私は、ついに彼に抱かれてしまったのだ。

それからというもの、佑希はことあるごとに「一緒に暮らしたい」と言ってくるようになった。

誘惑に勝てず、彼とは一線を越えてしまったけれど…。さすがに家族を捨てることはできない。

それに亮平からの暴力や監視を振り切ってまで、離婚する勇気もなかった。


逢瀬を重ねる美保と佑希に、起きた悲劇

待ちに待った水曜日。今日は朝から冷たい雨が降っている。…まるで私と佑希が出会った日みたいだ。

亮平は1ヶ月ほど前に社内で不正会計が発覚して以来、ずっとイラだっている。きっと今日も朝まで帰ってこないだろう。

美保:夜ご飯なに食べよっか。いつもの中華にする?

初めて佑希と過ごす夜に、胸が高鳴る。スマホを握りしめて返事を待っていると、夫から電話がかかってきた。

「あ、もしもし。財布忘れた。近くにいるから取りに戻るわ」

亮平は泥酔しているのか、呂律が回っていない。

「どこにいるの?持っていこうか?」

「うるせえなぁ。取りに帰るって言ってんだろ!」

高揚していた気分が、一気に沈んでいく。私は居間のテーブルに置かれている、亮平の長財布を手に取った。

自尊心を満たすかのようにパンパンにふくらんだ財布が、汚らわしいものに見える。その瞬間、ポケットからシワシワの千円札を引っ張り出す佑希の姿を思い出し、愛おしい気持ちになった。

夫から電話がかかってきてしばらく経ったが、まだ帰ってくる気配はない。

美保:ちょっと待ってて、少し遅れます

仕方なく、遅刻するという内容を手短に送信する。

― 佑希、きっと外にいるよね。心配だな。

そのとき突然、玄関のドアが激しく開く音がした。

「クソッ…!」

低い叫び声が、部屋中に響きわたる。

「ちょっと、どうしたの?」

玄関ホールには、ずぶ濡れの状態で泥酔した亮平が、顔を真っ赤にして立っていた。

「…顧問弁護士に、電話しないと」

「えっ?」

亮平はスマホを取り出すと、書斎へと続く階段をのぼりながら、ボソボソと小声で電話をかけ始めた。

「山根先生、やばいことになった。すぐに来てくれ」

外では、救急車のサイレンがけたたましく鳴り響いている。私は窓の外をチラリと見てから、スマホを開いた。…佑希とのLINEには、まだ既読がついていない。

なんだか嫌な予感がした私は、家を飛び出した。傘もささずに、松濤と円山町の境界線へと向かって。



途中、自転車に乗った警察官に追い越された。文化村ストリートの手前に人だかりができている。

「飲酒運転だって。若い男性がひかれたらしい」

そう話す誰かの声が聞こえてきた。

救急車のランプが、降りしきる雨を赤く染めている。

その奥には、駐車ランプを点滅させたままの黒いレクサスと、濡れた地面に横たわる佑希の姿があった。

「う、うそでしょ…」

変わり果てた佑希の姿を、とらえた瞬間。私は警察官の制止を振り切って、彼の元へと一目散に駆け出していたのだった。


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