あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

経営者の夫・孝之と、小学校1年生の娘・絵麻。3人家族で穏やかな毎日を過ごしていた美郷だったが、幸福な日常は突然、砕け散った。

孝之と秘書の浮気が発覚したのだ。土下座して「魔がさした」と言い訳する孝之に、ショックを受けた美郷は…。

▶前回:「ごめん、魔がさした」夫のスマホに密会を匂わせるLINE…。幸せな家族を襲った危機



「ほら、絵麻。あっちにフルーツたくさんあったよ。見て見て、このパンも美味しそう!」

日曜日の朝。『フレンチキッチン』の朝食ビュッフェではしゃぐ私に、絵麻は冷めた眼差しを向ける。

「ママぁ、早くおうち帰りたいなぁ」

それもそのはずだ。金曜日の夕方からここグランドハイアット東京に泊まり始めたのだから『フレンチキッチン』での朝食もこれで2回連続になる。

あの日、孝之に土下座をやめさせて「帰ったら話し合いましょう」と、どうにか出張へ送り出したけれど…。

どんな顔をして向き合えばいいのか、わからなくなった私はほとんど衝動的に、孝之が帰宅する直前に絵麻とホテルへ家出してきたのだった。

スマホのLINE通知は、おそらく孝之からであろうメッセージで溜まりに溜まっている。

なぜかFacebookメッセージも1通届いていたが、孝之の土下座から3日経った今でも衝撃の抜けない私は、どのメッセージも見る気になれなかった。

だが、こんなことはいつまでも続けていられない。

明日からは絵麻の学校が始まるし、ピアノの発表会だって今週末に迫っているのだ。これ以上練習を休ませるわけにもいかない。

オレンジジュースを飲みながら不貞腐れている絵麻の目の前で、私は深いため息をつく。

そして、覚悟を決めてスマホを手に取る。孝之に『今日、帰ります』とLINEを送ったのだった。


娘と過ごす美郷。2日ぶりの帰宅で孝之と対面するが…

ホテルのチェックアウトを済ませた後は、森美術館で小学生でも楽しめそうな展覧会を見た。

その後は、隣にあるTOHOシネマズで子ども向けの映画を見てから、絵麻がリクエストしたピザを食べ、早めの夕飯を済ませた。

「帰る」と言ったものの、孝之と顔を合わせるのが怖い。帰るまでの時間をつい引き伸ばしてしまう。

タクシーで広尾の明治屋に寄り、買い物を済ませる。白金にある低層マンションの自宅に到着した頃は、夜の7時近くになっていた。

― どんな顔して会えばいいっていうの?何を話すことになるの?

“夫の浮気”という衝撃は、私のなかでまったく消化できていない。

エントランスに鍵を差し込む手が震える。エレベーターが7階に到着し、一歩一歩自宅のドアへと近づくたびに足が重くなる。

そんな私の心境など知りもしない絵麻は、2日ぶりの自宅に大興奮した様子で勢いよくドアに駆け寄り、躊躇なく玄関へと飛び込んだ。

「ただいまー!パパー!絵麻たち帰ってきたよー!!」

緊張のあまり、軽い吐き気が私を襲った。廊下の奥から孝之の足音が聞こえる。

だが、身構えていた私は、出迎えに現れた孝之の態度に意表をつかれてしまったのだ。



「2人とも、おかえり〜!絵麻、ママとの小旅行は楽しかったかー?」

「うん!パパは?大阪旅行、楽しかった?」

「ははは、パパは旅行じゃなくて出張な。でも、お土産あるぞ〜。『ダニエル』のカヌレ!パパとピアノの練習したら、ママに内緒で寝る前に1つ食べちゃおうな」

「えへへ、やったー!絵麻、ピアノがんばる!」

目の前で繰り広げられる、いつも通りの光景。靴も脱がずにぼうぜんとする私に、孝之がニコッと微笑みかける。

「美郷、おかえり。絵麻のピアノは俺が付き合うから、ゆっくり休んで」

「あ…ありがとう」

…もしかしたら、孝之が浮気をしているなんて、何かの間違いだろうか?

そう混乱してしまうほど、孝之の様子は普段通りだった。

絵麻にピアノの練習をさせ、入浴と歯磨きを手伝う。いつも通りの週末夜のルーティン。

「パパ、ママ、おやすみなさーい」

パジャマに着替えた絵麻がそう言って自室にひっこむと、そこからは孝之と私の夫婦の時間だ。

新婚旅行のフランスで買った揃いのバカラグラスで晩酌をしながら、映画を見たりその日あったことを話したりする。

孝之の平然とした態度につられて私もいつもの晩酌通り、バカラグラスにボルドーワインを注いでしまった。

悪い夢を見たのだ。孝之が浮気をしているなんて、ありえない。お手頃な値段のわりに味わい深いこのワインは、きっとお土産のカヌレに合うはず。

しかし、そんな願望じみた幻想は、すぐに消えてしまうのだった。

「ねえ、Netflixで映画でも見る?」

赤ワインが注がれたバカラグラスを持った私は、何気なく孝之の方を振り返る。

いつもならソファでくつろいでいるはずの孝之は、一時停止していた映画をふたたび再生したかのように、あの日と寸分違わぬ格好で土下座をしているのだった。

再び目の前に突きつけられた、現実。

気がつけば、手に持っていたバカラグラスを孝之のすぐそば目掛けて投げつけていたのだ。

「どうして…!?」

繊細な模様が施されたクリスタルガラスが、複数の破片となって四方に散らばる。ボルドーワインが白いラグにシミをつくり、孝之の目の前は一瞬にして凄惨な殺人現場のようになった。

「どうして?なんで木村さんとなの?仕事のふりして会社に行って何してるのよ!」

猛烈な怒りに襲われていた。土下座なんて、くだらないパフォーマンス。何も問題がなかった幸福な日々の対価が、こんなわざとらしいパフォーマンスで済むはずがないのに。

「土下座なんてやめて、言い訳くらいしてよ!」

その言葉にようやく顔をあげた孝之は、いつもの快活な声からは想像もつかない消え入りそうな声で釈明を始める。


見てしまった孝之のスマホの中身。そこには…

「本当にごめん。魔がさしたんだ。6月ごろ、ちょうど仕事で大きなトラブルがあったときに木村さんと夜まで残業して…。打ち上げしようって話になったけど、あの頃、夜は店なんてどこもやってなかったから、木村さんの部屋に呼ばれて…」

孝之は、せきを切ったように話し出した。

「たった一晩、それだけなんだ。その後2人で話し合って、お互いに忘れて元通りの関係になることにした。本当に、本当に、魔がさしただけなんだ…美郷…!」

言い訳ぐらいして、と私から頼んだというのに、その通りの行動をする孝之を前に感情はグチャグチャになっていく。

確かに6月は、孝之の仕事がかなり忙しそうだった。だがその時期は、小学校に入学してしばらく経った絵麻が「学校に行きたくない」と渋りだした頃でもあったのだ。

孝之が経営者として抱えるプレッシャーは、計り知れない。そんなふうに孝之を尊敬しているからこそ、絵麻のケアや担任との面談など、私は孝之の手を煩わさないように一人抱え込んでいた。

― それなのに…なるべく仕事に専念してもらえるよう必死に環境づくりをしていたその裏で、まさか私も知っている人と…。

そう考えただけで、気がつけば私の目からは、悲しみとも、怒りとも、失望ともつかない涙が止めどなく溢れてくるのだった。



「離婚しましょう」

ほとんど反射的に、その言葉が口から溢れでた。肩を震わせる私に、立ち上がった孝之がおずおずと歩み寄る。

「美郷…!」

そのとき、私の荒い呼吸の音に紛れて、小さな足音が聞こえてきた。

孝之と私は、ハッとしてリビングの入り口を振り返る。そこには、不安げに体を縮めた絵麻の姿があったのだ。

「ママ…パパ…。どうしたの…?」

「あ…」

何も言えずに涙を流す私の横で、孝之がとっさに機転を利かす。

「ごめんごめん、起こしちゃったかな?なんでもないよ。パパが、グラスを落として割っちゃったんだ」

「そ、そうなの。大事なグラスだったから、ママ悲しくて…。ごめんね、絵麻。ママと一緒にもう一度寝ようか」

眉をひそめる絵麻を連れて、私は子ども部屋へと移動する。孝之の前で冷静さを保てない今の自分にとって、避難できる理由がありがたかった。

うまく誤魔化すことができたのだろうか。私が見守りつつ、絵麻はすんなりと二度目の眠りについた。

穏やかな寝息とナイトライトの薄明かりの下で、冷静さを取り戻そうと頭の中を整理する。

― 離婚…するの?本当に、私と孝之が?大学1年生の時から19年も付き合って、ずっと幸せだったのに…?

まさか自分の人生にこんなことが起こるなんて、考えてもみなかった。

2歳年上の孝之にプロポーズされたのは、私が大学4年生になったばかりの頃。新卒で商社に勤めていた孝之に「すぐに海外赴任になりそうだから、ついてきて欲しい」と頼まれ、就活を中断して卒業と同時に結婚したのだ。

― 働いたこともない私が、1人で絵麻を育てられるの?

…現実的ではなかった。

私の就職や、絵麻が通う私立小学校の学費。私の両親は、父が商社を定年退職するのと同時にニセコに移住している。頼るあてがないなかで、未知の生活に飛び込むことは恐ろしかった。

それになにより…。

私は混乱する頭を抱えながら、隣で眠る絵麻の寝顔をまじまじと見つめる。

凛々しい八の字の眉と長い睫毛が、孝之にそっくりだ。

いまだにパパとお風呂に入り、休日にパパと遊ぶことを楽しみにしている絵麻。そんな絵麻から父親を遠ざけることを思うと、私の目からはまたしても涙が溢れ出てくるのだった。

「離婚なんて、できない…」

私はそう小さくつぶやくと、絵麻を起こさないようにそっとベッドを抜け出る。

そしてリビングに戻ると、床の掃除をしている孝之に言った。

「本当に、魔がさしただけなのね…?」

グラスの破片を拾い集めていた孝之が勢いよく顔を上げ、必死の形相で深くうなずく。

そうして私は、淡々と“再構築”することを孝之に伝えた。

…ただし、いくつかの条件とともに。


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美郷が孝之に突きつけた、再構築の条件。それは…