どんなに手を伸ばしても、絶対に届かない相手を想う。

結ばれることのない相手に人生を捧げる、女たちの心情を紐解いていく。

これは、「推し」がいる女たちのストーリー。

◆これまでのあらすじ

子どもができず、妊活に励んでいた和葉(33)。夫の俊輔(38)は仕事ばかりでまともに向き合ってくれない。

そんな日々を悲観していたが、昔好きだった少女漫画の実写版ミュージカルに出演していた俳優・星宮匠に一目惚れをして、どんどんのめりこんでいく…。

▶前回:「平日の昼間だったらバレないから…」結婚3年目33歳の女が、夫に内緒で毎日…



子なし主婦の憂鬱・和葉(33)【後編】


「何、これ……!」

いつものように、起きてすぐにTwitterを開き、私は驚愕した。

昨日まで平和だったタイムラインが、“推し”である俳優・星宮匠への罵詈雑言で溢れていたからだ。

私は、慌ててツイートをさかのぼる。

どうやら、以前舞台で共演した人気女性アイドルとの熱愛が発覚したらしい。2人がしてきた「匂わせ」と思わしい行為の数々を、ファンが一つひとつ検証したようだ。

しかも、同じタイミングでその女性アイドルの裏アカウントが流出。そこには、匠くんが自分のファンの悪口を言ったり、もらったプレゼントを捨てたりしていることまで書かれていたのだ。

『ぴ、今日もおばさんたちの相手しなきゃいけないってかわいそう。帰ってきたら、いっぱい癒してあげないとなあ』

ファンが投稿している、彼女の裏アカウントのスクリーンショットを見て、背筋が凍る。

正直、匠くんに恋人がいたことや、裏でファンを悪く言ってしまったことは仕方がないと思う。世間にバレなければ、好きにすればいい。

ただ、裏アカウントとはいえ、こんなことをツイートする低次元な女の子と匠くんが付き合っていた事実や、「匂わせ」というプロ意識の欠けた行為を2人がしていたことに私は大きなショックを受けた。

― こんなの、応援してきたファンに対する裏切りだよ……。


推しの炎上にショックを受ける和葉。悪い出来事は重なってしまい…

匠くんの炎上を必死に追っていたら、いつの間にか1時間ほど経っていた。

私は慌ててベッドから抜け出し、震える手で朝食の準備をする。時間がないので、作り置きを温めるだけの適当なものだ。

8時半頃に起きてきた俊輔は、いつもはもっと慌ただしく出ていくのに、今日に限ってゆっくりと朝食を食べている。

俊輔が出て行った瞬間、スマホを手に取りTwitterを開いた。

ハラハラしながらタイムラインを見守るが、匠くんへの誹謗中傷は止まらない。昨日まであんなに匠くんを大好きだったファンたちが、手の平を返したようにアンチ発言をしている。

ファン歴の短い私でもこんなにつらいのだから、古参のファンが怒りをあらわにするのは当然だろう。

― 匠くん、どうなっちゃうんだろう……。



その夜。

女性アイドルの卒業発表と、匠くんの無期限活動休止が発表された。

彼女の所属ユニットは恋愛禁止で、匠くんの所属事務所もスキャンダルに厳しいと有名なところだったので、双方が迅速な対応をとったらしい。

― 今日から、匠くんのいない生活を送るのか……。

ファンを裏切った匠くんのことは許せないけれど、落ち込んでいた私に新しい“居場所”を与えてくれたのは、紛れもなく彼だった。

私は呆然として、ベッドに倒れこむ。こぼれ落ちた涙がシーツを濡らした。

「私の居場所なんて、もうどこにもない……」

絶望に打ちひしがれていたとき、玄関のドアの開く音がした。

ふと時計を見ると、時刻は21時を過ぎている。俊輔が帰宅したのだ。

私は昼食もとらず、家事もせず、朝からずっとスマホにかじりついていたようだ。

いつもならどんなに俊輔が遅く帰ってきても、必ず「おかえりなさい」と声をかける。でも、今日はそんな気力もない。

そして俊輔は、私のいる寝室を素通りしてリビングに入って行ったようだった。

― いつもと様子が違うんだから、体調の心配くらいしてくれたっていいのに……。

匠くんを好きになって、人生が大きく変わった気がしていた。

でも、目の前の現実はまったく変わっていない。結局、私たち夫婦の問題は、一切解決していないのだ。

そう思うと、余計に涙があふれた。

もうこれ以上何も考えたくないと思い、私はそのまま布団をかぶってまぶたを閉じた。



アラームもかけずに寝てしまったせいで、翌朝は9時半ごろに起床した。さすがに眠りすぎて頭が痛い。

しかし、匠くんにハマってからは、夜遅くまでこっそりSNSを見ていることが多かったので、久々にぐっすり眠れた。

そのおかげで、気分はそこそこ晴れやかだった。

ふと隣を見ると、そこに俊輔が眠っていた形跡がない。部屋を出てリビングに向かうと、そこには驚きの光景が広がっていた。


和葉が見た驚きの光景とは…?

― 食器、洗って棚にしまわれてる……ゴミも出されてるし、部屋も心なしか整頓されてるような……。

キッチンとダイニングを見て回り、ハッとする。昨日私がサボった家事を、出勤前にすべて俊輔がやってくれていたようだ。

リビングに入り、ソファの上にブランケットが畳まれているのを見つける。

― 俊輔ここで寝たの?私の体調が悪そうだから、起こさないようにしてくれたのかな……?



思えば、俊輔は本当に口下手だけど、昔からすごく優しい人だった。

いつから変わってしまったんだろうと思っていたけれど、彼は仕事に忙殺されているだけで、本質は何も変わっていない。

むしろ、変わってしまったのは私のほうだった。

子どもができにくい体質だとわかった日から、いつも不安に駆られてどうしようもなくて……。

本当は、俊輔に妊活の再開を相談するタイミングだっていくらでもあったのに。

「俊輔の気分を害して言い争いになってしまったら」「妊活の再開を拒絶されたら」「再開しても子どもができなかったら」と嫌な妄想ばかり膨らんで、理由をつけては自ら話し合いの機会を遠ざけてきた。

すべて“向き合ってくれない俊輔のせい”にしてしまえば、ラクだったから。

でも、どんなに目を背けようとしても、私たちの生活は毎朝やってくる。

言い訳をして話し合いを先延ばしにしても、友達と遊んでみても、推しを作っても。目の前の現実からは逃げられない。

― 大丈夫。俊輔は、昔の優しい彼のままなんだ。私がしっかり向き合えば、彼は私の気持ちに応えてくれるはず。

私は深呼吸をして、俊輔とのトーク画面を開く。心臓をドキドキさせながら文字を打ち、最後にゆっくり送信ボタンを押した。

『昨日は寝込んでてごめんなさい。部屋、片づけてくれてありがとう。とても助かりました。

あと、今日って何時に帰ってくる?話したいことがあるから、一緒に夕飯食べられたら嬉しいな』

LINEを送り終えて、ため息をつく。たった数行のメッセージを送っただけだが、大仕事を終えたような気持ちになりソファに体をあずけた。



「で、何なんだ。話って」

LINEでは20時に帰ると言っていたけれど、結局21時頃に帰宅した俊輔。心なしか、いつもよりさらに疲れているように見える。昨晩はソファで寝ていたせいで、あまりちゃんと眠れなかったのかもしれない。

お詫びも兼ねて、今日は俊輔の好きな鰆の西京焼きを作った。こうして2人で夕飯を食べること自体が久々なので、小鉢も多めに出している。

「えっとね、ずっと言おうと思ってたんだけど……」

俊輔が、私をじっと見つめる。突き刺すような視線に緊張するが、私は拳をぎゅっと握り締めて顔を上げた。

「妊活を再開したいの。だから、俊輔にもしっかり協力してほしい」

そう言った途端、俊輔は大きなため息をつく。

私は、思わず体をこわばらせた。

― どうしよう、やっぱり不機嫌にさせちゃったかな……?


ついに自分の気持ちを素直に伝えた和葉だったが、俊輔の答えは……

「……なんだ、そんなことか。何を言われるかと思って、今日一日、ずっと不安で仕方なかったよ」

「え……」

俊輔は眉尻を下げ、ふふっと笑みをこぼす。

こんなに優しい彼の表情を見たのは、いつぶりだろうか。

「もしかしたら、離婚届を突きつけられるんじゃないかって。最近、和葉の様子、変だったし……」

「い、いや、それは……」

言いかけて、やめる。匠くんのことなんてわざわざ話す必要はない。

小さく咳払いをしてごまかし、話を戻した。

「……たしかに、すごく悩んだし、苦しかった。俊輔はいつも忙しそうだから、なかなか話せるタイミングもないし。でも、やっぱり私、子どもがほしいの」

私の言葉に、俊輔は大きくうなずきながら「とりあえず、離婚じゃなくて良かった」と、腹の底から吐き出すように繰り返した。

そんな彼の様子を見て、私は思わず吹き出す。俊輔がそんな不安を抱えていたなんて、知る由もなかった。

私たちは、やっぱり少し、コミュニケーションが足りなかったようだ。

「今週中に、婦人科へ行ってくる。先生の話をちゃんと聞いて、今後どうしていくかまた改めて話し合いたいの」

私が言うと、俊輔は「わかった」とつぶやき、西京焼きに手を伸ばす。美味しそうに食べる彼の姿に、笑みがこぼれた。

― たったこれだけのことで、私は何を悩んでいたんだろう。俊輔は家族なんだから、変な遠慮なんてしなくて良かったのに。





翌朝。

俊輔を見送り、ひと通りの家事を終えてソファで休憩していると、スマホにニュースメディアのポップアップ通知が届いた。

そこには『人気2.5次元俳優・星宮匠が活動休止を発表』という見出しが躍っている。

思わずクリックし、記事を見る。しかし、私が知っている以上のことは書かれていない。

記事のコメント欄は『誰?』『知らない』など、そんなものばかりだった。

― 私が熱中していた匠くんは、世間のほとんどの人が名前も知らないような俳優だったんだな……。

匠くんのことは、正直今でもまだ好きだ。

でも、もう彼をステージで見ることはできない。そして、彼を必要とする自分からも卒業しなくてはいけない。

私は匠くんのために作ったTwitterアカウントを削除し、大きく背伸びをした。

「よしっ」

この歳からの妊活はすごく大変だし、子どもができてからは戦争のような日々が待っているだろう。

もしかしたら、また俊輔に対してモヤッとするようなことがあるかもしれない。

でも、そのたびに私は思い出したい。

目の前にいる大切な人と向き合わずに、“推し”に逃げていた自分のことを。

これからは、リアルな人間関係を大事にしていきたいと思う…。

Fin.

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