これは男と女の思惑が交差する、ある夜の物語だ。

デートの後、男の誘いに乗って一夜を共にした日。一方で、あえて抱かれなかった夜。

女たちはなぜ、その決断に至ったのだろうか。

実は男の前で“従順なフリ”をしていても、腹の底では全く別のことを考えているのだ。

彼女たちは今日も「こうやって口説かれ、抱かれたい…」と思いを巡らせていて…?

▶前回:親友と浮気されて実家に逃げ帰り…。地元で好きでもない男と婚約した、25歳女を襲った悲劇



ケース10:フラれた男に復縁を迫られる女・絵川菜々(28歳)


「みなさん、ありがとうございました!」

ステージの上でスポットライトに照らされていた演出家が、堂々とおじぎをしている。

彼の名は、盛丘啓太。…ちなみに、3年前まで同棲していた元カレだ。私がフラれて別れることになったが、しばらく啓太のことを忘れられずにいた。

拍手喝采の余韻が冷めきらない劇場から出て、駅へ向かって歩き出そうとすると、背後から声が聞こえた。

「菜々…?」

さっきまで歓声を浴びていた男の声に、胸の鼓動が早くなる。

「…啓太、久しぶり。初日おめでとうございます」

「よかった、やっぱり菜々だった。綺麗になってて、一瞬誰かわからなかったよ。久しぶりだね」

演劇の街・下北沢で行われた、啓太率いる新進気鋭の劇団『サード・アイズ』の新作公演。

別れたあと何度連絡しても無視され続けてきた彼から、突然「招待席があるから見に来ない?」とインスタのDMを通じて連絡がきたのは、5日前のことだった。

新作の舞台は、人気YouTuberや恋愛リアリティーショーの参加者など、演劇人以外のキャストが日替わりで参加することが話題になり、完売御礼の札が入り口のポスターに貼られている。

「大盛況ですごいね。今日は誘ってくれてありがとう」

頭を下げて立ち去ろうとすると、彼はニッコリ笑って言った。

「このあと、時間ある?」

「…今日は帰る」

「じゃあ、駅まで送るよ」

しばらく当たり障りのない近況報告をしたあと、数秒の沈黙が流れる。すると啓太は私の前に回りこみ、思いもよらない言葉を口にしたのだ。


元カレがいきなり言い放った、衝撃の一言

「菜々。俺たち、もう一度やり直さないか?」

3年前、私を振った男から突然の告白。彼の言葉をきっかけに、私の記憶は過去へと引きずり込まれていった。



出会いは、ちょうど6年ほど前のこと。

某私立大学の演劇研究会のメンバーを中心に、下北沢で旗揚げされた劇団『サード・アイズ』。その主宰と演出を務める啓太と知り合ったのは、私が22歳のときだった。

経済学部の4年生だった私は、演劇に全く縁がなかったが、友人に誘われて彼の舞台を観劇したのだ。

そのときに人生観が変わるような衝撃を受け、啓太と、彼が生み出す作品に夢中になった。

「啓太さんが作る作品と、啓太さんが好きです」

猛アプローチを仕掛けること半年。代々木上原にある彼のアパートで体を重ね、晴れて恋人同士になった。

私は内定をもらっていた会社を蹴って、裏方として劇団に転がりこみ、キャストのスケジュール管理や制作進行など、寝る間も惜しんで働いた。

…啓太の夢は、私の夢だったから。

付き合い始めて1年ほど経った頃。『サード・アイズ』の舞台が演劇賞を受賞したことをキッカケに、啓太は演劇界だけではなく、映像業界からも注目されるようになった。

彼のもとには深夜ドラマやアニメ脚本の仕事が舞い込むようになり、次第に劇団員と向き合う時間が減っていったのだ。

「俺たちは、夢を叶えるために走り続けなければならない」

そう口にはするけれど、稽古どころかゲネプロにも来なくなった啓太に、劇団員の心が離れていくのを目にした私は苦しかった。

「もう少し、メンバーやスタッフと話す時間を作ったほうがいいんじゃない?」

「菜々は、俺が夢に向かって走っているのが気に入らないのか?」

こうして啓太のイラだちは、稽古場でもプライベートでも爆発するようになっていったのだ。



劇団の中で決定的な断絶が起きたのは、啓太と出会って3年目のこと。キッカケは、ある1つのオファーからだった。

テレビ局から「サード・アイズの舞台をドラマ化したい」という打診があったのだ。

劇団員たちは色めきたったが、ことはそう上手くは運ばなかった。

啓太は、自らがドラマの監督をすることを望んだ。しかし局のプロデューサーが指定する、別のディレクターがメガホンを取ることになってしまったのである。

それなのに、劇団に所属している俳優数名は出演が決まっていた。これを彼は認めなかったのだ。

「自身が監督できないのであれば…」とドラマ化を拒否し、所属俳優の出演も許可しないと、局のプロデューサーと対立した。

劇団に所属して2年が経ち、スタッフのサポートから経理まで担当するようになっていた私は、事態を収拾しようと奔走し、稽古場に皆を集めた。

「ねえ、啓太。劇団の名を広める最大のチャンスなんだから、このオファーは引き受けようよ」

涙ながらに訴える私の言葉を制し、彼は言い放った。

「サード・アイズは、俺の夢だ。みんなの夢は、俺の夢じゃなかったのか?」

その後、劇団員やスタッフが何を言ったのかは覚えていない。

啓太は初期メンバーを一方的に解雇し、新しいメンバーを劇団に招くことを宣言した。ともに汗を流してきたメンバーの解雇に心が砕け、私も劇団を辞めた。

それからすぐに、彼から別れを告げられたのだ。


なぜこのタイミングで、啓太は連絡を寄越してきたのだろうか

「あのときは大変だったけど、こうして次のステップに到達することができた」

啓太が堂々と言い放ったセリフで、ふと我に返る。

小田急線の高架下。稽古が終わると、終電めがけて何度も2人で走った場所だった。

「俺たち、ああやって膿を出してよかったんだと思う」

「膿?」

「あぁ。今日のキャスト、よかっただろ?YouTuberやインスタグラマーだけでやりきった。舞台畑の人間はもう終わり。劇団員たちを切り捨てなければ、俺はここまでこられなかったと思う」

その言葉に、私の足が止まる。劇団員たちとよく通った『どんたく』から、若い男女の笑い声が聞こえてきた。

「1つ聞いてもいい?…啓太にとっての夢って、なに?」

「俺の夢を一緒に追いかけてくれる仲間たちと、作品を作ることだよ」

「じゃあ昔のみんなはもう、仲間じゃないってこと?私も含めて」

彼は沈黙したあと、吐き捨てるように言った。

「あいつらは結局、小さな世界でやるビジョンしかなかった。でも菜々は違うよ」

啓太は私の両肩に手を置くと、こちらをジッと見つめてきた。

「菜々も辞めると言い出したとき、正直ショックだった。俺から突き放してしまったこと、後悔してる。だけど俺は1人で劇団を復活させた。今ならきっとうまくやれる。もう一度、同じ夢を見よう」

恐ろしいほど迷いのない言葉に、背筋が凍るような気がした。

「菜々、すごく綺麗になった。今から俺の部屋に来ない?話したいことがたくさんある」

小田急線がホームへと吸い込まれていく音が、辺りに響いている。

私は湧き上がってくるいくつもの言葉をのみ込み、彼の目を見た。

「啓太。…私ね、来月結婚するんだ」



「え…?」

「私は2年間、恋愛できなかった。啓太のこと、皆とのこと、忘れられなかったから。でも今日、話せてよかった。別れてよかったって心の底から思えたよ」

自信に満ちあふれていた啓太の顔が、かすかに歪む。私はバッグを肩にかけ直し、改札へと走った。

そのまま小田急線に飛び乗り、スマホを開く。

啓太からDMが届いたのは、5日前に投稿した写真がキッカケだった。婚約者が撮影した、バラ園で微笑む私のミドルショット。

結婚式に向けて体を絞った私の姿に、友人たちのコメントが並んでいる。

「菜々、綺麗になってる!」
「細い!うらやましい!」

その中に、フォローしていなかった啓太からのいいねが混じっていて、すぐにDMが届いたのだ。

彼が今夜私を誘ったのは、一緒に夢を追いかけたかったからじゃない。10kgのダイエットに成功し、新たなスタートを切ろうとしていた私が欲しくなった。…ただ、それだけ。

男が「女を抱きたい」と思う理由は単純だ。私は電車のドアに身を預け、夜空に浮かぶ下弦の月を眺めていた。


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