あふれた水は、戻らない。割れたガラスは、戻らない。

それならば、壊れた心は?

最愛の夫が犯した、一夜限りの過ち。そして、幸せを取り戻すと決めた妻。

夫婦は信頼を回復し、関係を再構築することができるのだろうか。

◆これまでのあらすじ

夫の孝之が秘書の木村と浮気をしていたことを知った美郷は、娘の絵麻のために、そして家族のために再構築することを決意。

ギクシャクとした毎日が続いていたものの、昔の男友達・最上のもとで働き始めたことで元気を取り戻した美郷。しかし、結婚記念日のデートで孝之から浮気を疑われ…。

▶前回:「夫を受け入れなければ…」ベッドの中でそう考えたサレ妻に、夫が浴びせた衝撃の言葉



読書灯の薄明かりに照らされる夫が、まったくの別人のように思えた。

「最上くんと、仕事のふりして本当は何してるかって…?そう聞いてるの?」

今、耳にしたばかりの信じられない言葉を確かめるように声に出す。

孝之は何も言わずに目を伏せている。気がつくと私は、クローゼットにかけていたディオールのワンピースを素早く身につけ、ヘルノのコートを抱え込み、ドアノブに手をかけていた。

「仕事のふりして裏切っていたのは、あなたでしょ。一緒にしないで」

振り返ってそう言い放ったときも、孝之は黙り込んで下を向いていた。

堪えきれずにこぼれた涙を見られないのは好都合だと思いながら、私は夫を置いて部屋を出た。



どこへ行けばいいのかわからないまま、部屋を飛び出したけれど、大崎の両親の家に行くわけにはいかない。

絵麻と両親にだけは心配をかけたくない。そう強く感じた。

けれど、自宅にも帰れそうになかった。

孝之のスマホを見つけたテーブル。孝之が土下座をしたリビング。孝之を拒んだ寝室。今、自宅に帰っても余計に辛くなるだけだ。

「どちらまで?」

エントランスで待ち受けていたタクシーに乗り込むと、運転手から機械的な調子で行き先を尋ねられた。

行くあてのない私が小さな声で答えたのは、自分でも信じられない場所だった。


ありもしない疑いをかけられた美郷。傷心のあまり向かった場所は



眩しいデスクトップの光が、私の頬を照らす。

ホテルから見えた夜景やベッドサイドの読書灯と比べると、氷みたいに冷たくて青い光。でも、今の私にとっては何よりも暖かく、涙のあとを乾かしてくれるような気がした。

ホテルから飛び出した私が向かったのは、最上くんの会社のオフィスだった。

月に一度の打ち合わせのために入室の権限をもらっており、基本は在宅の仕事でも、いつでもオフィスに訪れてフリーアドレスのデスクを使えることになっている。

妻として、母としてではなく、“私”としていられる場所。それが叶うのは、ここしか思いつかなかったのだ。

深夜の誰もいないオフィスで、急ぐ必要のないインタビューの翻訳に没頭する。

仕事は、鎮痛剤だった。

痛みをやり過ごすために、目の前の作業に向き合って心を麻痺させる。その間は、母としての責任も、妻としての悲しみも感じなくて済む。

この冷たい光の中で、嵐が過ぎ去るのを待つように痛みが和らぐのを耐え忍ぶのだ。

― でも…。それって、いつまでかかるの?この苦しさは、待っていれば過ぎ去っていくの?孝之との関係はどうなるの?

考えるな。考えてはいけない。芯から凍りつくように、心を堅く堅く閉ざすのだ。

必死に自分自身に言い聞かせていたそのとき。静まり返ったオフィスに響いた声により、私は一瞬で現実に呼び戻された。

「あれ?ミサト…!」

ゆっくりと開いた扉の陰から出てきたのは、他でもない最上くんだった。



「こんな時間にどうしたの?ご家族は?」

週に2、3回しか出社しない最上くんが、まさかこんな時間のオフィスにいるなんて。

予想外の出来事に、私は答えに詰まる。

彼の心配はもっともだ。時計の針は、深夜0時を回っている。普通の主婦が外出するような時間ではない。それに、私の抱えている仕事は自宅でできるものばかりだ。

しかも、カジュアルなオフィスにそぐわないめかし込んだ服装は、それだけで「何かあった」と言っているようなものだろう。

何も言えずに黙り込む私に、最上くんはそれ以上何も聞かなかった。

「ちょっと待ってて」

そう言ってしばらく奥へ引っ込んだかと思うと、最上くんはステンレスの保温タンブラーを2つ持って戻ってきた。

隣の椅子に腰を下ろすと、無言のままそっと片方のタンブラーを差し出す。

受け取ったタンブラーは温かく、挽きたてのコーヒーのいい香りが立ち上っている。最上くんの視線は、私と同じくデスクトップの方を向いていた。

何も言わずにそっとそばにいてくれる、深い優しさ。

1人では抱えきれないほどの痛みに耐えかねた私は、いつのまにか彼に何もかも打ち明けていた。

「最上くん。私、夫に浮気されたの。すごく悲しくて、すごく寂しいよ…」


浮気されたことを最上に伝えた夜。2人の関係に変化が…

最上くんの前では、惨めな自分でいたくない。

そう強く思っていたのに、一度言葉にしてしまうともう止めることができなかった。

私がどれだけ孝之に尽くしてきたか。

どれだけ家庭を第一にしてきたか。

どれだけのことを犠牲にしてきたか。

それなのに…、木村さんという私もよく知る女性と、仕事のふりをして浮気をされて、どれだけ傷つけられたか。

「それでも私、もう一度やり直すために頑張ってるの。“再構築”するために努力してるの。娘のために、家族のために」

涙をこぼしながら洗いざらい吐き出す私の悲しみを、最上くんはすべて受け止めてくれる。

その優しい眼差しの前で、懺悔のような、解毒のような開放感を感じていた私は、つい先ほど起きた孝之との会話の内容まで口走ってしまった。

「それで、ここで仕事を始めたことでようやく気持ちのバランスが取れ始めてたのに、さっき夫に信じられない疑いをかけられたの。

私が仕事をしているふりして、最上くんと…」

私はハッと口をつぐんだ。とめどなくこぼれ落ちていた涙が、ゆっくりと引いていく。

手に持っていたハンカチに落としていた視線を上げると、最上くんと真正面から目が合った。

「ミサトが仕事のふりして、…僕と?」

最上くんは、絡み合った視線を振りほどこうとしない。

私は少し迷った末に、その先を続けた。

「仕事をしてるふりして、…私が最上くんと浮気してるんじゃないかって」



理性的で、冷静な最上くんのことだ。「まさか、そんなこと」なんて言って、あきれて笑ってくれるだろう。

けれど、最上くんの反応は予想とは違っていた。

しばらく黙りこんだかと思うと、大きなため息をつきながら頭を抱え、絞り出すような苦しげな声で言ったのだ。

「ミサト…ごめん。謝るよ。つらい思いをさせちゃったね」

「やだ、どうして最上くんが謝るのよ」

戸惑う私に、最上くんは神妙な顔つきで続ける。

「久しぶりにミサトに会ったとき、何も考えずに『幸せな家庭を築いてるんだね』なんて言ってしまった。

それに、ミサトがこれだけ頑張ってるのに、ミサトの都合も考えずに電話をかけたりして、ご主人を誤解させてしまって…。

軽率だった、本当にごめん。僕なんかとあらぬ疑いをかけられて、不快だったと思う。それからもし、うちでの仕事がミサトの負担になってるなら…」

「待って!そんなこと言わないで。ここでの仕事が支えになってるの」

私は慌てて最上くんの言葉を遮った。もし今、せっかく掴んだ仕事まで失ってしまったら、私はまた私でなくなってしまう。

「それに…最上くんとの仲を疑われること自体は、ぜんぜん不快じゃないよ」

本心からの言葉だった。最上くんの生真面目な謝罪で少し心がほぐれた私は、入れてもらったコーヒーに口をつける。

保温タンブラーに入ったコーヒーは、時間が経っても温かい。冷たい見た目の金属の内側が温もりで満ちている様子は、まるで最上くんの人柄を表しているようだ。

― 仕事をするふりして、最上くんと会ってる…。

孝之の荒唐無稽な疑念が現実となっている今の状況に、思わず苦笑いする。

「ほんと、最上くんみたいな優しい人と結婚すればよかった…」

無意識に出た言葉に自分で驚いた時には、もう、最上くんの体がすぐ近くにあった。

私の座っている椅子の座面に、乗り出してきた最上くんの手が沈み込んで、ギシっという音を立てる。

体温を感じられそうなほど、最上くんが近い。

「ミサト、それ、本気で言ってる?」

彼の落ち着いた低い声が、耳元で響いた。


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最上との関係を疑われた美郷。その疑念は、現実となるのか