結婚したら、“夫以外の人”に一生ときめいちゃいけないの?

優しい夫と、何不自由ない暮らしを手に入れて、“良き妻”でいようと心がけてきた。

それなのに・・・。

私は一体いつから、“妻であること”に息苦しさを感じるようになったんだろう。

◆これまでのあらすじ

夫と話し合いの末に関係が改善してきた麻由は、カフェ店員・圭吾とも連絡を控えていた。そこへ、夫の元カノかつ交際相手を名乗る女性が現れて…。

▶前回:「彼があなたと出会う前から付き合ってます!」10年越しの不倫女が妻の前に現れ…



提案


「浩平を私に譲っていただきたいの」

夫の元カノであり、つい最近まで不倫関係にあったという女・佑里香からの突然の提案。

言いたいことだけ言うと、彼女はテーブルに伝票を置き、去っていこうとする。

― なに、それ。

思わず立ち上がり、佑里香を追いかけて腕をつかんだ。

「『譲っていただきたいの』って言いますけど、浩平はモノじゃないです。

それにもし、私が彼との離婚を決めたとしても…浩平がまた、佑里香さんを選ぶとは限らないじゃないですか」

「いいえ、彼は私を選ぶわ」

佑里香は自信に満ちた表情で微笑む。

「ねぇ、知ってる?彼って意外と寂しがりや甘えん坊なの。

エリート街道を生きているけど、精神的には強くない。だから、完璧なあなたを前にすると逃げたくなるの。でもね。私のように、彼の弱い部分を理解して、包み込んであげられる女のもとには、絶対に戻ってくるのよ」

佑里香の口から語られる浩平は、悔しいけれど、知っているようで知らない人間だった。

私との関係性の中では、主導権はいつも彼にあった。私は、彼の決定に対してほとんど逆らったことがない。

でも、佑里香とは…浩平の方が彼女に頼り、甘えていたのかもしれない。

― この人と一緒にいた方が、浩平は幸せなのかな…。

胸の中に、モヤモヤとしたものが渦巻き始めていた。


遭遇


佑里香と別れた私はどっと疲れてしまい、家の方に向かって歩き始めた。

― そうだ、牛乳切らしてたんだった。それから、浩平のシェービング剤も…。

ふと思い出す。こんな時でも買い出しを思い出すのは、“妻”の性だろうか。

とりあえずスーパーに行こうと駅前の東急ストアに立ち寄ろうとしたところ…。

「あら、麻由さん!」

「お、お義母さん。こちらにいらしてたんですね」

スーパーの前で、義母に遭遇した。

普段は井の頭公園の近くに住んでいる義母が、時々「健康のため」などと言って三鷹周辺まで足を延ばしていることは知っていたものの、今日は会いたくなかった。



― なにも、今日じゃなくても。

ただでさえ義母のことは苦手なのに、こんな状況ならなおさら、機嫌よくお話しできるわけがない。

「麻由さん、今日は顔色も悪いみたい。夏バテかしら?」

「そうですね、今年の夏は特別暑いですし…」

義母はぐいぐいと距離を縮めてくる。「夏バテにはナスが…」なんて言いながら、買ったばかりの野菜を渡そうとしてくるから、丁重にお断りした。

でも…佑里香からダメージを受けた後だからこそ、そのまっすぐで素直な思いやりが、温かくも感じられる。

「麻由さん、頑張りすぎちゃうところがあるものね。浩ちゃんが家のことなーんにもやらないから、きっと麻由さん大変でしょう?あの子、夫としてちゃんと支えてるのかしら」

義母の言葉を、私は少し意外に思った。

今まで義母といえば、浩平をとことん甘やかしていた。

反面、私に対しては「孫はまだか」とことあるごとに催促してきて、子どもができないことについて、浩平側の落ち度は露ほども疑わない様子だった。

― でも考えてみたら、以前に義母の誕生日を祝った時も、私の体調を心配してくれてたっけ。

「麻由さん、浩平に不満があったら、ちゃんと言うのよ?

それに私も、『早く孫を』って色々言いすぎちゃって…。この前開いてくれた私の誕生日会で、麻由さんが元気ないように見えたから、心配になったの。申し訳なかったわ」

心配そうに、私の顔を覗き込む義母。今まで感じたことのなかった、彼女の優しさに触れたような気がする。

「あら、麻由さん?どうしたの、大丈夫?」

「はい、大丈夫です…」

精神的に参っているからだろうか、そんなつもりはなかったのに、自然と涙がこぼれていた。

一度涙腺が崩壊すると、立て直すのは難しい。義母が差し出してくれたハンカチに触れると、さらに何かがこみあげてきて、どんどん涙があふれてくる。何かを察した義母が、私の肩を抱いた。

「ここは暑いし、麻由さんの家まで送るわ」

「ありがとうございます…お義母さん」

「こんな状態の麻由さんを置いていけるわけないでしょう」

そう言ってくれる義母が温かくて頼もしくて、初めて、彼女との距離を近くに感じた。





「お義母さんには、今まで話していなかったんですが…」

家に到着して少し落ち着きを取り戻した私は、考えた末に、これまでの出来事を義母に話すことにした。

私が淹れたマリアージュ フレールの紅茶を片手に話を聞いていた義母だったが、浩平の浮気と、佑里香が家まで訪ねてきたことを聞くと、額をおさえて深くため息をついた。

「息子のやったことは、許されることではないわ。迷惑をおかけして、本当にごめんなさい」

そして言葉を選ぶように、ゆっくりと話を続ける。

「実はね。3ヶ月ほど前かな、ちょうど私の誕生日会をしてくれた日…麻由さんたちの家に行く直前に、佑里香さんから私に電話があったのよ」


私は驚いて、返す言葉を失ってしまった。

しかし考えてみれば、6年も付き合っていたのだから、佑里香が浩平の両親と面識があったとしてもおかしくはない。



「最初はごく自然な会話から始まったのよ。『近々吉祥寺に行きます』って言うから、あのあたりで有名なお菓子屋さんの話をしてね。

でも、しばらく話をしているうちに…。『お誕生日おめでとうございます』って言われて。それを境に、佑里香さん、少し気持ちが高ぶっちゃったのか…『お義母さんと家族になりたかった』とか、反応に困ることを言われたわ」

「…」

背中にうすら寒いものを感じる。

佑里香は義母を味方につけて、外堀を埋めようとでも思ったのだろうか。

「軽く受け流したら、『また近いうちにきっとお会いできます』なんて言われて。

そのあたりで、なんとなく電話を終えたのだけど。彼女から電話があったことは、後日、浩平には話しておいたわ」

「そうだったんですね…」

義母の話を聞いて、私は少し納得がいっていた。

あの誕生日会を境に、浩平の外泊も頻繁ではなくなった。

そして私との話し合いの後、彼はものすごくキッパリと、佑里香と会うのをやめたのだ。まるで、もともと不倫相手と手を切る時期を探っていたかのように。

佑里香は本気で略奪婚を狙っていた一方で、浩平の方はただの遊びだったということなのだろうか。

― でも佑里香さん、『浩平は必ず私のところへ帰ってくる』って言い切ってたな。

自信満々な彼女の態度を思い出して、また気分が沈む。

「それにしても、麻由さん。私が言うのもヘンかもしれないけど、浩平とは離婚を考えていないの?」



義母の言葉に、私は返答を悩んだ。

浩平の浮気は許せなかったし、家事を丸投げされている状況にも、ストレスをためていた。子どももいないのだから、すっぱりと別れるのも1つの選択肢だった。

けれど、一方で…彼との良い思い出が、全くなかったというわけじゃない。大恋愛の末の結婚ではないが、それなりに穏やかで楽しい日々を送れていた。

20代の間に色々な恋愛や婚活をしたけれど、こうなってしまう前は、今まで交際した人の中でも浩平が一番、一緒にいて心地よい存在だったのだ。

だから、彼が改心して戻ってきてくれるのなら、再構築しても良いと考えていた。

そして実際、浩平は佑里香を切って、私のところへ帰ってきたわけだけれど。

「昨日までは、浩平さんとはなんとか再構築したいと思っていました。でも今日、彼女に会ったら、彼と関係を続ける自信がなくなってしまって」

夫婦関係を続けることを選んだ場合、またいつ佑里香が浩平に近づいてくるのだろうかと、気を揉みながら生きることになる。

そこまでして続けたいのかというと…。私の中で、まだ答えは出ていない。

「麻由さんの好きにしたらいいと思うわ」

義母は穏やかな表情で言う。

「夫婦のあり方は、人それぞれよ。生涯愛し合ったまま人生を全うする夫婦もあれば、仮面夫婦みたいな状態の人たちもいる。うちの夫だって、長年色々な女の子と遊んでたわよ。気づかないフリをしてあげてたけどね」

「お義母さんは、そういう状況でも離婚を選ばなかったんですね」

「私はずっと主婦だったし、子どももいたからね。離婚っていう選択肢はなかったわね。

でもそもそも、夫が帰ってこないことについて、あまり悩んだりしなかったのよね。亭主がずっといるのも気づまりだし…“亭主元気で留守がいい”ってヤツね」

一度言葉を切ると、義母は私に視線を合わせ、いたずらっぽく笑った。

「おかげさまで…若いときは私も、外で結構楽しんだものよ」

― お義母さんも、外に彼氏がいたってこと?

驚いて彼女を見るが、義母は既に視線を手元に落とし、涼やかな表情で紅茶を楽しんでいる。

「どんな選択でも、それが麻由さんの人生にとって良いものになるよう祈ってるわ」

力強いその言葉につられるように、私はうなずき返していた。


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最終回。妻と女の間で揺れ動く麻由の決断は…