「マイ・キューティー」

13歳上の夫は、美しい妻のことを、そう呼んでいた。

タワマン最上階の自宅、使い放題のブラックカードに際限のないプレゼント…。

溺愛され、何不自由ない生活を保障されたセレブ妻ライフ。

だが、夫の“裏切り”で人生は一変。

妻は、再起をかけて立ち上がるが…?

◆これまでのあらすじ

仕事で失敗をしたものの、何とか前向きに頑張っていた里香。そんな矢先、夫・英治と正式に離婚の話をすることになるが…?

▶前回:「いくら欲しいんだ?」浮気相手を妊娠させたセレブ夫が逆ギレして放ったひと言に、女は…



「では、こちらで完了です」

英治と会った5日後。

里香は、港区役所に離婚届を提出した。窓口が19時まで空いている日を狙って、仕事終わりに滑り込んだのだ。カウンターから顔をのぞかせた職員から、無事に受理されたことを知らされる。

ふと隣を見ると、幸せオーラに包まれたカップルが3組。

結婚と離婚は、区役所の同じ窓口で扱われるのだ。一刻も早く提出したくて思い至らなかったが、今日は大安らしい。

― そうは言っても、離婚届っていつ出すのが正解なの?まあ、友引ではなかっただけマシよね。

たった今、結婚したばかりのカップルを横目に、里香は区役所を後にする。

外に出ると、ムワッとした空気が肌にまとわりつく。涼しげに白くライトアップされた東京タワーを見上げると、3年前、婚姻届を出した日のことを思い出した。

あの日。婚姻届を出した後は、今はなき区役所近くのフレンチでディナーをした。

「一生大事にするよ、マイキューティー」

そう誓った英治と、今日別れた。

― 私、これから本当に大丈夫なのかな…。

別れたらもっと清清しい気持ちになると思っていたのに。里香は、ひどい不安に苛まれていた。

なぜなら、怒りに任せて、英治ととんでもない条件で離婚してしまったから。


無一文でさようなら


「さっきのセリフ、もう一度言ってみなさいよ!?」

里香は英治に向かって、声を荒らげた。がやがやしていた店内が、一瞬静まり返った。隣にいた若いカップルが、「ここで喧嘩はやめてくれ」と、目顔で知らせる。

だが英治は、里香の怒りや隣のカップルの視線など気にも留めず、冷淡な笑みを浮かべながら続けた。

「事実を言ったまでだ。君は、僕と別れることで大金を得る。この離婚で、頑張って働いてきた僕は損をして、好き放題遊び回っていた君は儲かるんだ。不条理だよなあ」

里香が言い返せず呆然としていると、英治が容赦なく続けた。

「里香もやり手だねえ。僕と別れた後も、そうやって生きていくんだろうな。まあ君は、学歴もキャリアもないから仕事も難しいだろうしね」

ニヤリと笑った英治は、コーヒーカップに手を伸ばした。

「そうだ、本題に戻ろうか。さあて里香。君は、いくら欲しいんだ?」



「…いらない」

「はっ?」

想定外だったのだろう。英治は鳩が豆鉄砲を食ったような顔で、まぬけな声を出した。

里香は、怒りで震えていた。なぜこんな屈辱的なことを言われなくてはならないのか。頭に血がのぼり、うっかり「いらない」と、本意ではないことを発してしまったのだ。

だが口にしてしまった以上、撤回という恥ずかしいことはしたくない。勢いを止めることなく、里香は続ける。

「だから、いりません。あなたみたいな最低な男のお金なんて、1円もいらないわよ!」

そしてテーブルの上に広げた離婚届をバンッと叩いて、ボールペンを英治に手渡す。

「今すぐ書いてください」

「里香、落ち着いて。さすがにそんなこと…」

ごにょごにょと、英治は里香をなだめるように言う。そんな英治を遮って、里香は続ける。

「保証人は私の方で探して、離婚届は私が提出するから。文句ないわよね?」

「いや、その…」

先ほどまでの高圧的な態度から一転、完全にペースを乱された英治は、まともな言葉を発する余裕もないようだ。しきりに頭を掻いているのは、彼がイライラしている時の癖だ。里香はここでケリをつけるんだと、自分に言い聞かせる。

「これ、朱肉。ちゃんと印鑑パッドもありますから」

グイッと彼の方に押しやると、英治は観念したようにうなだれた。

「わ、わかったよ…。離婚届書くから。でも里香、当面のお金がないと困るでしょ。2,000万円くらいならすぐに準備できる。君が惨めな目に遭うのは、僕も嫌なんだ」

本当に心配しているのか何なのか。涙目で訴える英治に、里香は怒りをぶちまけた。一度キレてしまった今、もう止められない。

「君が惨めな目に遭うのは、僕も嫌ですって?よくもそんなことが言えるわね。元はと言えば、すべてあなたが悪いんでしょう?さっきも言いましたけど、1円もいりませんから!」

英治が書き終えた離婚届を掴んだ里香は、「それじゃ、お元気で。もう会うこともないと思いますが」と、カフェを後にした。


さらなる不幸


離婚届を出した、その足で里香は友人・舞子との待ち合わせに向かった。

『タヒチ』は、路地裏に佇む一軒家。見た目も美しいおしゃれなエスニック料理を楽しむことができる。

なんだか、海外のビールが飲みたい気分の里香は、舞子とともに、シンハービールをオーダーし、先ほど離婚届を提出してきたことを報告する。

「おつかれさま。ずいぶん早くまとまったんだね。英治さん、すぐに3億円でOKしたってこと?」

どうやら舞子は、先日の話をまだ信じているらしい。里香は、運ばれてきたシンハービールで喉を潤してから切り出した。



「実は、1円ももらってない。頭にきて、あなたみたいな最低な男からお金もらうつもりはない!って言っちゃったの…」

「…はああ!?バカなの!?」

落ち着いた雰囲気の店内に似つかわしくない、甲高い乱暴な声が響く。すぐに、「すいません」と居住まいを正した舞子は、目を大きく見開いて続けた。

「どういうこと?1円ももらわずに離婚してきたって…」

「どういうこともなにも、話した通りだけど。俺と別れて儲けもんだなって言われて、頭にきちゃって。もういいの。あんな男のお金なんか、いらないっ」

舞子の追及するような視線から、里香はそっぽを向いた。怒りに任せて本意でないことを言ってしまったが、撤回するつもりはない。

それに、これ以上あの最低男に頼って生きていくなんてごめんだ。考えれば考えるほど、その気持ちが強くなっていく。

「いいの、私には仕事もあるし。贅沢はできないけど、暮らしていけるもの。当面は仕事頑張るんだから」

自分に言い聞かせるように、里香は大きく頷いた。

「そうは言っても…。仕事だって始めたばかりでどうなるかわからないし。もらったお金だって、無理に使う必要はないでしょ。何かの時のためにもらっておくのもアリじゃないの?」

説教モードに入った舞子だが、里香の様子からこれ以上何を言っても無駄だと判断したらしい。

「里香が良いならそれで良いけど。ねえ、このサラダ、すっごく美味しい」

苦々しい顔を浮かべながら、舞子は分かりやすく話題を逸らした。

「ほんとだっ!なんか食欲出てきた。追加でパッタイも頼んでいい?」

区役所からの帰りはどうなることかと思っていた里香だが、持ち前の明るさを取り戻し、心新たにしていた。





翌日。

お手洗いでスマホをチェックすると、派遣会社の担当から留守番電話が入っていた。

「今後についてお話がございますので、都合の良い時にご連絡ください」

― 今後についてのお話…?

心当たりがないが、電話を寄越すということはそれなりに急ぎなのだろう。お手洗いを出た里香は、非常階段の踊り場で電話をかけ直す。派遣会社の担当はすぐに電話に出た。

「実は、派遣先企業様からご連絡がありまして、今の契約をもって、契約を終了にしたいとのことです」

電話口の担当者から発せられた言葉に、里香は心臓がスッと冷たくなるのを感じた。今の契約期間は3ヶ月。残り2ヶ月弱で、この仕事を失うことになる。

「早速、他の企業を探してみますが…」

派遣会社のスタッフは、すでに次の仕事について話し始めたようだ。電話越しに聞こえる声を遠くに聞きながら、里香はその場に崩れ落ちた。

― ど、どうして…。

やはり先日のミスだろうか。モサ男はうまくフォローしてくれたが、マネージャーの怒りは相当なものだったのだろうか。

まさか3ヶ月で契約終了になるなんて、夢にも思わなかった。離婚した今、後ろ盾も何もない。電話中にもかかわらず、涙がとめどなく溢れ出す。

その時だった。

里香の背後から、ポケットティッシュが差し出された。

振り返ると、そこにいたのは…。


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離婚に失業。どこまでも不幸に襲われる里香。悲しみに打ちひしがれていると、そこに…?