「この子のためなら、何だってしてみせる…」

公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。

そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。

──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。

これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。

◆これまでのあらすじ

娘の華(1)を幼稚園受験させることにした葉月。未知のルールに翻弄されながら、ママ友に紹介してもらったお受験塾「ほうが会」の扉を叩くのだった。

▶前回:入会前に先生へ“お礼”をお渡しするのがお受験塾のルール!?女は、いくら包めばいいかわからず…

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Vol.4 “お教室”の実態


― 華のためにならないと、少しでもそう思ったら…入会はしない。

全く知らない“幼受のルール”に翻弄され、すでに心は疲れ果てている。

ひょっとしたら、焦りのあまりとんでもなく場違いな所に来てしまったのではないか。

気後れしながらも、私は大きく深呼吸をしてどうにか心を落ち着かせ、ガラスの扉を開いた。

「失礼します…」

小さな声でつぶやいた挨拶は、次の瞬間。すぐに予想外の大きな音にかき消された。

「キャーーーーー!!!!」

エントランスから見て左奥に位置する部屋から、空気を切り裂くような子どもの悲鳴が聞こえてきたのだ。

驚いた華が、私の紺色のワンピースの裾をギュッと掴む。私も思わず、華を守るように抱き寄せた。

壁一面に貼られた名門幼稚園の合格実績が、脳裏をかすめる。

― あれだけの成績を誇るお教室だもの。子どもがこんな悲鳴をあげるくらい、スパルタ指導なの…!?


けれど、悲鳴の聞こえてきた部屋から飛び出してきた男の子は、予想に反してはじけるような笑顔を浮かべていた。

「キャーーーー!!!」

年齢は、1歳か2歳くらい。華と同学年だろう。

すっかり興奮した様子の男の子は、部屋から飛び出してエントランスをトタトタと走り回っている。

「そーうちゃん!お部屋から出てはいけません。ほら、おともだちも先生も待ってるわよ」

その後ろを追いかけて出てきたのは、5、60代の女性だ。

高級感のあるブラウス。細身の黒いパンツ。大ぶりのアクセサリーに、ふんわりとセットされた短い髪が上品な印象を抱かせる。

まるで本当の祖母のように、目尻を下げて男の子を追っていたその女性は、私たちの存在に気がつくと、パアッと大輪の花が咲いたような微笑みを向けた。

「まあ、まあ、まあ!篠原華ちゃんとお母様でいらっしゃいますわね。お待ちしておりました。わたくし、ほうが会の宝川でございます」



その声には、聞き覚えがあった。幾度も電話でやりとりしたあの女性だ。

これまでの異質な出来事の連続ですっかり怖気付いていた私は、ビクビクしながら、宝川先生に向かって頭を下げる。

「先生、本日はお忙しい中お時間を頂戴いたしまして、ありがとうございます。私、篠原葉月と申します。こちらは娘の華で…」

自己紹介をしながらゆっくりと顔を上げる。すると宝川先生は、ニコニコと大きな目を糸のように細めながら、私の言葉をさえぎるのだった。

「お母様、そんなに緊張なさらないで大丈夫ですよ。ほら、華ちゃんまでかたくなっちゃうわ」

その言葉にハッとして華を見ると、華はまだ私のスカートの裾をぎゅっと掴んで、背後に隠れている。

「さあさあ、まずはここが楽しいところだって、華ちゃんに分かっていただかないと。上履きをお持ちでなかったら、今日はこちらをお使いになってね」

手早く準備されたのは、茶色い合皮のスリッパだった。華には、可愛らしいウサギのボタンが縫い付けられた上履きが並べられている。

「ここが一番大きいお部屋。『ゾウさんのおへや』って呼んでます。今日は、たくさんのおともだちが集まってるわよぉ」

そう言われるがままに通された「ゾウさんのおへや」は、先ほど男の子が声を上げながら飛び出してきた場所だ。

おずおずと足を踏み入れた私は、その光景に思わず息を呑む。



― わ…広い…!

目の前に広がるのは、30畳ほどはありそうな大きな部屋だった。外からは想像できない、のびのびとした空間。まるで、ちょっとした幼稚園のようだ。

リノリウムの床は清潔に掃除され、入り口の片隅には生花が飾ってある。

黒色のアップライトピアノに向かう女性がリズムの良い音楽を奏で、円形に並べられた小さな学習椅子には、10人ほどの子どもがきちんと座っていた。

そして、突如「フルーツバスケットっ♪」という掛け声とともに、ピアノのメロディが激しくなる。

その途端、椅子に座っていた子どもたちは「キャーーーーー!!!」という歓声を上げ、笑顔で思い思いの方角へと散らばり、息を切らして走り回る。

その中のある1人の子に、私の目は釘付けになった。

「え…あの子って…?」


にわかには信じられない光景を前にして、私はよくよく目を凝らす。

でも、何度確認してもそうだった。ひときわやんちゃな笑顔で、はつらつとした様子で走り回る女の子…。

― あれ、翔子ちゃんだ!

敦子さんの子ども・翔子ちゃんは、いつもはお気に入りのぬいぐるみで人形遊びをしたり、お絵かきをして遊んだりと、落ち着いた雰囲気だ。

ここまで明るい笑顔で元気に体を動かしているのを見るのは、初めてのことだった。

その横では、マリエさんの子ども・エミリちゃんも楽しそうに、アクティビティーに参加している様子が見える。

ふと、輪の中にいた若い女性の先生がこちらに寄ってきて、相変わらず私のスカートを掴んでいる華の前にしゃがみ込んだ。

その先生は、エプロンのポケットからウサギのハンドパペットを取り出すと、可愛らしい高い声で華に話しかける。

「華ちゃん♪うわばきに、私と同じうさぎちゃんがいるのねっ。華ちゃんもこっちで、みんなと一緒に遊ぼうよ♪」



「あの…せっかくなんですけど華は多分、まだ…」

華はまだ1歳。いつも一緒に私と過ごしていて、母子分離なんてしたことがない。

ベビーカレッジだって、母子同伴だったから長く続けられたのだ。今日初めてきた場所で、私と離れて遊ぶのが難しいことは明らかだった。

けれど、信じられないことに華は、しばらくウサギのハンドパペットをじっと見ていたかと思うと、そっとスカートの裾を離す。

そして、拍子抜けするほどあっさりと先生に手を引かれ、子どもたちの輪の中に入っていった。

その様子を見ていた宝川先生は、ニコッと私に微笑みかける。

「ではお母様、少しお話いたしましょうか。こちらにいらして」

「あ、は…はい!」

宝川先生に促されるまま、「ゾウさんのお部屋」を後にする。私が背を向けて部屋を出ていく時も、華はこちらを振り返ることすらせず、輪の中にすっかり溶け込んでいた。

― すごい、すごい…!あの甘えん坊の華が、こんなにすんなり離れられるなんて…。翔子ちゃんもすごくイキイキしていたし、このお教室、本当にすごいんだ…!!

後ろ手に閉めるドアの隙間から、童謡『たきび』のメロディを奏でるピアノの音色が聞こえてくる。

気がつけば、ここにやってきた時のあの萎縮した気持ちなど完全に忘れて、私の胸はすっかり、ほうが会への信頼と期待で満ち溢れているのだった。





「さ、こちらにおかけになって」

そう言って宝川先生に通されたのは、同じフロアの奥まった一室だった。

「ゾウさんのお部屋」とは違って8畳ほどのコンパクトな作りで、重厚な造りのソファとコーヒーテーブルが置かれている。おそらく、面談や応接対応のために使われる部屋なのだろう。

私はすっかり舞い上がった気持ちで、手に持っていたヨックモックの紙袋を宝川先生に差し出した。

「先生。私、華があんなにスムーズに、輪の中に溶け込むのを初めて見ました。ぜひこちらでお世話になりたいです!どうぞよろしくお願いいたします」

けれど、宝川先生の顔からは、先ほどまで浮かべていた美しい花のような笑顔は失われている。

代わりに、口元にたたえた微妙な笑みと、いつのまにかかけた老眼鏡越しの大きな瞳が、私をじっと、静かに観察しているのだった。

「華ちゃんのお母様。和田さんからのご紹介ね…」

「は、はい…。よろしくお願いいたします」

私は思わず、ゴクリと唾を飲んだ。

「華ちゃんのお母様。こういうことは最初だからこそ、はっきりお伝えしておくわね。

正直に申し上げます。華ちゃんの幼稚園受験、かなり厳しいわ…」



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否定的な言葉を投げつける宝川先生。その信じられない理由は…