『20代のうちに結婚したほうがいい』

一昔前の価値観と言われようとも、そう考える女性も少なくはない。

そんな焦りにとりつかれ、30歳目前でスピード婚をした広告デザイナー・穂波。

しかし穂波は、すぐに後悔することになる。

「なんで私、焦ってプロポーズをうけてしまったんだろう」

私にふさわしい男は、この人じゃなかった――。

◆これまでのあらすじ

広告デザインのイベントに参加した穂波は、偶然、大学時代の友達・颯斗と再会。穂波は「颯斗こそ、私にふさわしいオトコだったのではないか」と思ってしまう。

▶前回:結婚してまだ1ヶ月なのに…。退屈を持て余した新妻が、男友達と飲みに行って感じたこと



土曜日の23時近く。

穂波は、自宅マンションのエレベーターの中、うっとりと頬を染めていた。

颯斗との再会の余韻が、まだ残っている。

― 颯斗…素敵な大人になってたなあ。

「穂波のこと、かなり気になってたからさ」と言った颯斗。驚くべきことに、昔話した理想のプロポーズまで覚えていてくれた。

あの照れたような横顔が、心を捉えて離さない。

― いや、ダメよ。私はもう一樹と結婚しているんだから。

頬をパチパチと叩きながら、自分を戒める。

“颯斗と結婚すればよかった”。その本音は、心の奥深くに封印しようと決めた。

「ただいま」

罪悪感をごまかすように、明るい声色を作って、玄関で呼びかける。返事はない。

そのままリビングに続く扉を開けると、一樹はすました顔で、読んでいた本をパタンと閉じた。

「ああ、おかえり」

「ただいま。今日は急に家をあけて、ごめんね」

「別にいいよ」

「ご飯は、どうした?」

キッチンに目をやると、コンビニ弁当の空容器が置いてある。

言いようのない後ろめたさが、全身を包んだ。

「…なんか、ごめんね。今日はね、大学時代の友達にひさびさに会ったの。すごい偶然だから、急遽、ご飯行こうって流れになったのよ」

一樹は、軽く相槌を打ったきり、何も言わなかった。

― もしかして、さすがに怒ってる?

一樹があまりに無表情なので、颯斗と2人で会っていたことがばれているような気さえしてくる。

居心地の悪さに耐えかねて踵を返したとき、一樹が口を開いた。


「あのさ、穂波」

「ん?」

一樹が口にしたのは、予想外の言葉だった。

「キッチンの水道がおかしいんだよ。水が出ないの」

確認してみると、たしかに様子がおかしい。

「ほんとね。業者に電話はしてくれた?」

すると一樹は心外というような表情で、「してないよ」と首を横にふった。

― 本読んでる暇があるなら、電話の1本くらいしてよ!ほんとに家事はなにもしないんだから。

急いで業者に電話をすると、明日の11時に修理に来てくれるという。

安堵しながら電話を切ったそのとき、颯斗からのLINEの通知が来ていることに気づいた。



颯斗:急でごめん。明日のお昼、空いてたりしない?

鼓動が速まる。

颯斗:寿司の予約とってたんだけど、一緒に行く予定の人がNGになって。もしよかったら一緒に食べようよ。11時から、ここなんだけど。

送られてきたURLをタップすると、いつか行ってみたいと思っていた超有名な寿司店だった。

― 業者さんが来る時間とかぶる…でも、これは行きたい。

だから、ソファで本を読んでいる一樹に声をかけた。

「業者さん、明日の11時に来れるっていうんだけど…明日、家にいるよね?」

「いるけど」

「よかった。じゃあ業者さんの対応、お願いしてもいい?ちょうど明日のお昼に、急な予定が入って」

思わずウキウキした声になった。一樹は、だるそうな様子ながら微笑む。

「明日は僕、読まなきゃいけない本が3冊もあるんだ。…穂波は、また遊びに行くの?」

「…だめ?」

「だめじゃないけど。でも、キッチンまわりは君の仕事だよね。そう分担したはずなのにな、とは思った」

― なに、その呆れたような表情。

不満に思っていると、一樹は言った。

「急用って?」

すぐにいい返事が浮かばず、「友達の恋愛相談」と、どもりながら口にする。



「ふーん。大事な用なんだね」

「…うん。一樹の用事は読書でしょう?それよりは、絶対に大事な用事よ」

思わずそう口走ると、一樹はゆっくりと本を閉じ、考え込むように目も閉じた。

「僕は、休日にこうやって本を読んだり、新聞を読んだりして、仕事のためのスキルを身につけてる」

穏やかな口調ながら、彼なりに怒っているようだった。

「それを君に小馬鹿にされるのは、心外だな。僕の成果は、いずれ君のためにもなるのに」

悲しげな一樹。胸が痛むが、穂波はただそんな一樹のことを、仕事人間の退屈な男だと思うのだった。

「ごめん。私ね、出かけたいの。休日に一樹と家にいても…息がつまるから」

ふと漏らした本音に、一樹の目つきが変わった。


「…息がつまるって?」

「そうよ。一樹は、ずーっと自己啓発。ろくに会話もないし、笑いもない。この部屋にいて家事だけしてると、私はまるで、一樹を支えるために生きてるみたいよ」

「…それの、なにがだめなの?」

一樹は、本当に不思議そうに質問してくる。

「一樹…。あのね、それじゃあ私は嫌なの」

「どうして。俺は、自分の人生を少しでも前に進める。穂波には、それを支えてほしい。それで幸せになれる」

「支える?」

「うん」

出た、と穂波は思う。顔合わせのときの失望がフラッシュバックする。



「じゃあ、私が一樹を支えるとして、一樹は、私のことを支えてくれるの?」

「…そんな必要があるかな?」

「ほら、そういうところよ。あなた、やっぱりおかしいと思う」

私には私の人生がある。蔑ろにしないでほしい。一方的に支えるだけなんてごめんだ。

穂波はそのことを繰り返し説明してみるが、一樹にはまったく理解ができないようだった。

「…でも穂波。君は、僕の人生の船に乗ったんだよ?結婚ってそういうものじゃないの?」

「一樹の船になんか、乗ってない!」

声を荒らげると、一樹はただ、目をパチクリさせた。

「一樹は私に、お義母さんみたいな、従順な女性になってほしいんでしょう?」

「従順?」

不愉快そうに一樹の顔が歪んでも、もう知ったことではない。

「従順よ。自己犠牲の上で夫を支えて、それだけを生きがいにして。でも悪いけど私は、あなたのお義母さんには憧れない。自分の力ではなんにもできないから、夫を支えるしかないなんて。そんな人生って、退屈よ」

「…」

「私は、お義母さんとは違うわ。自分の人生を、自分で歩く足を持ってる。一樹のためだけに生きたりなんか、できない」

思わず感情的になった穂波を遮るように、一樹は声のボリュームをいつもより上げた。

「じゃあ」

メガネを外し、テーブルの上に置く。

「じゃあ、僕ら、なんで一緒になったんだろうね?」



「穂波は、結婚してから急に変わったよ。なんていうか、もっと献身的なイメージだった」

結婚したさに自分を取り繕っていたのだから、一樹がそう思うのも当然だと穂波は思う。

返すべき言葉は見つからず、そのうちに一樹がひとり、結論を出した。

「僕たち、急ぎ過ぎたわけだ。僕は、穂波を勘違いしたまま、プロポーズしてしまったみたいだ」

一樹は立ち上がり、メガネを手にとる。

「ついこの間までの献身的な穂波は、一体どこに消えたんだ?こんなに急に変わられると、なんていうか僕は…騙されたような気分だ」

「…私だって、一樹がこんな勝手な人だとは思わなかった」

穂波はただ、うつむくほかなかった。

新調したばかりのサテンのルームシューズが、悲しいほどに輝いている。

念願叶って達成したはずの結婚が、いとも簡単に壊れようとしていた。

こんな危機的状況であるのに、穂波は、ただひたすら思うのだった。

― ああ、もう疲れた。早く、颯斗に会いたい。


▶前回:結婚してまだ1ヶ月なのに…。退屈を持て余した新妻が、男友達と飲みに行って感じたこと

▶1話目はこちら:スピード婚は後悔のはじまり…?30までの結婚を焦った女が落ちた罠

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ひそかに颯斗のことを思う穂波。しかし、ある新事実が発覚する…