「この子のためなら、何だってしてみせる…」

公園に集う港区の母たちは、そんな呪文を心の中で唱え続ける。

そして、子どもに最高の環境を求めた結果、気づき始めるのだ。

──港区は、小学校受験では遅すぎる…、と。

これは、知られざる幼稚園受験の世界。母…いや受験に取り憑かれた“魔女”たちが織りなす、恐ろしい愛の物語である。

◆これまでのあらすじ

お受験塾「ほうが会」に入会し、名門幼稚園を受験した葉月と娘の華(2)。ママ友のマリエに、面接が済んだことを報告したのだが…。

▶前回:幼稚園受験の面接で、名前も言えない我が子…。それでも母が「お受験してよかった」と感じた理由



Vol.11 努力と“ご縁”


「いい気持ち〜、晴れてよかったね!」

『Little Darling Coffee Roasters』のオーツミルクラテを置いて、マリエさんが上機嫌でのびをした。

平日午前のSHARE GREEN MINAMI AOYAMAは、秋晴れの気持ちいい日だというのに空いている。

第一志望園のお試験を受けてから、2日後。

広々とした芝生を駆け回るエミリちゃんと華を見守りながら、マリエさんと私は2人、テラス席で温かいコーヒーを楽しんでいた。

「ねぇ、第二志望園には合格できたんだよね?」

マリエさんのその言葉に、私は改めて安堵の気持ちを噛み締める。

「うん。速達が昨日届いて、どうにか第二志望には合格をいただけたの。

さっきも言ったけど、第一志望の園では、面接で華の受け答えがあまりうまくいかなかったから…。たぶん、これで我が家の幼受は終了かな」

「そんな。まだわからないじゃない」

マリエさんは必死で励ましてくれるけれど、別に卑屈になっているわけでもなく、私は本気で納得している。

お試験が終わってすぐ、宝川先生に電話をかけた時も、そう感じた。


お試験の後は、フィードバックのためにも、試験内容をほうが会に伝えることになっている。

「名前と年齢を聞かれましたが、華は答えられませんでした」とお伝えすると、宝川先生は本当に悔しそうなご様子だったけれど──。

私たちは私たちなりに、精一杯頑張り抜いたのだ。そう割り切れていたから、反対に私の方が宝川先生を励ましたほどだった。



「どこの結果も出ない間は、居ても立ってもいられなくて…。気を紛らわせたくてこうしてマリエさんをお誘いしたけど、変に心配かけちゃってたらごめんね。

第二志望合格、我が家はとりあえず大満足してる!」

「そう?…そっか!」

私が意気揚々と伝えると、マリエさんはホッとした様子で微笑んだ。

そしておもむろに、パトゥの大きなトートバッグから紙袋を取り出し、私に差し出す。

「じゃあ、ちょっと早いけど。これ、お祝い。開けてみて!」

「ええー!ありがとう!」

中身を確認すると、ファミリアのフックツキタオルセットだった。

よく見ると、タオルの角には可愛らしいピンクの字体で「しのはら はな」と、華の名前が刺繍されている。ファミリアで名入れの刺繍を頼んだら、納品まで1ヶ月以上はかかるはずだ。

― ずっと前から準備してくれてたんだ。本当に応援してくれてたんだ…!

そう思うと、胸が熱くなる。

「マリエさん、ありがとう!大切に使わせてもらうね」

温かな微笑みを返してくれたマリエさんだったが、次に私が発した言葉で、その笑顔は消え去った。

「今度、エミリちゃんのプレ入学のお祝いもさせてね。

そうだ。翔子ちゃんにもこのタオル、準備してる?私から翔子ちゃんへのお祝いは何にしようかなぁ」

敦子さんのご家庭は、絶対に合格しているはず。そんな当然の確信から楽しい計画を提案したつもりだったけれど、途端にマリエさんの顔が青くなる。

「葉月さん。翔子ちゃんの件、まだ聞いてないの?」



「え…?翔子ちゃんの件って…?」

まったく何のことかわからない私は、とんでもないことが起きていることを感じ取りながらも、まぬけに聞き返す。

「ううん、知らないならいいの」

マリエさんは、はじめはそう言って話を逸らそうとしていた。

けれど、しばらくのあいだ考え込んでいたかと思うと、ゆっくりと重い口を開いたのだ。

「ほうが会とかで会うこともあるだろうから、知っておいたほうがいいのかもしれない。けど、絶対にここだけの話にしておいてね」

「う、うん」

「あのね…、翔子ちゃん、お試験を受けられなかったんだって」

「えっ!?」


― 翔子ちゃんが…敦子さんのご家庭が、第一志望園のお試験を受けられなかった?

思わず、手に持ったコーヒーを取り落としそうになった。

戸惑いを隠せない私に向かって、マリエさんは淡々と言葉を続ける。

「当日の朝に、翔子ちゃんが体調を崩しちゃったみたい。

園のすぐそばの小児科で、スーツのままの敦子さんが、欠席の電話をしながら泣き崩れてたって…」



「そんな…」

インターを目指してほうが会を退会したマリエさんは、もはや誰のライバルでもないため、ママ友たちの噂話のハケ口的な存在になっているらしい。

そのマリエさんの元に寄せられたという、残酷な噂。好奇の目に晒された、あまりにも痛々しい敦子さんの様子──。

「そんな…、翔子ちゃん、あんなにお利口なのに。敦子さんもあんなに頑張っていて、ご家庭だって申し分ないほど素敵で…。

どうしてもダメなのかな?体調が回復してから、受け直しさせていただくこととかは?受けさえすれば、試験を受けられさえすれば…!」

自分で言っていて、無茶なことだと分かっていた。

試験の直前に、宝川先生からうんざりするほど言われ続けたのだ。

「とにかく、お試験当日にむけて体調管理だけは気をつけてください。当日の体調がすべてといっても過言ではありません。

当日にお試験を受けられないのでは、受かるものも受からないのですから」

そう話す宝川先生の目が、これまでで最も恐ろしげな迫力に満ち溢れていたことを思い出す。

翔子ちゃんが赤ちゃんのころから幼受に取り組み、「この園に受かることは、一族では最低ラインの課題」と、追い詰められていた敦子さん。

タクシーの中で取り乱していた敦子さんの姿を思うと、胸が痛んだ。

「受けることすらできなかったなんて…」

私は、それ以上の言葉が出なかった。

秋晴れの空の下、華とエミリちゃんの元気な笑い声が響く。その笑い声にかき消されそうな小さな声で、マリエさんがつぶやいた。

「本当にね。でも、これがきっと、“ご縁”ってものなんだね…」



“ご縁”。

“ご縁”って、なんだろう。

いくら「子どものためならなんだってできる」と決意したところで、“ご縁”なんてまじないじみた言葉をかざされれば、私たち母親はなすすべもなく黙らされてしまう。

どんな願いも、魔法も、まじないも、およびもつかない残酷な幼受の世界…。

敦子さんの悲劇をもって目の当たりにした私は、とてつもない無力感を噛み締めたまま土曜日を迎えた。

私が浮かない顔をしている理由を、今日届く第一志望の合否を気にしているからだと勘違いした大樹が、ポンとやさしく背中を叩く。

「おい、そんなにナーバスになるなって」

「ううん、そうじゃなくて…」

そこまで言いかけた、その時だった。

ピンポーン、と、インターホンのチャイムが鳴る。

「葉月、来た!速達だ」

本当は私よりも緊張しているのであろう大樹が、玄関へと猛ダッシュしていき、封筒を受け取る。

「薄い」

茶色の封筒を持った大樹が、ぽつりとつぶやいた。



確かに、封筒はまるで何も入っていないかのように薄っぺらい。

「第二志望の園で大満足って言ってたけど、いざ結果がくると緊張するね」

私がそう言うと、大樹もうなずく。

ご縁ってなんだろう。

わからないけれど、今それが、封筒に入れられてこの手の中にある。

私たち家族のこの1年の努力が、願いが、“ご縁”という結果になって、突きつけられようとしている。

けれど、今は緊張よりも、なぜだか感謝にも似た気持ちの方が強かった。

― 敦子さんは、この封筒すら手にすることができなかったんだ。

それを思うと、どんな結果であれ最後まで頑張りぬけたことに、感謝するべきだと思ったのだ。

「あけるぞ」

平静を装っているが、大樹の手は震えている。

「ねえ、大樹。不合格でも私たち、幼稚園受験してよかったよね」

私の言葉にコクリとうなずきながら、大樹はゆっくりと、封筒の中身を取り出した。



▶前回:幼稚園受験の面接で、名前も言えない我が子…。それでも母が「お受験してよかった」と感じた理由

▶1話目はこちら:「港区は、小学校受験では遅いのよ」ママ友からの忠告に地方出身の女は…

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第一志望園からの合否。その結果は…?そして、敦子のとんでもない秘密が暴かれる