東京…特に港区は、ウソにあふれた街。

そんな港区を走る、すこし変わったタクシーがある。

ハンドルを握るのは、まさかの元・港区女子。美しい顔とスタイル。艶のある髪。なめらかな肌…。

乗客は皆、その美貌に驚き、運転席の彼女に声をかける。

けれど、彼女と話すには、ひとつルールがあった。

「せめて乗車中はウソ禁止です」

乗客たちは、隠れた本音に気づかされていく――。

▶前回:ウソの職業を伝えたまま、交際3ヶ月。女は、タクシーの中で突然真実を打ち明け…



赤羽橋〜溝の口 璃々を乗せて


時刻はすでに、3時を過ぎていた。

舞香が運転するタクシーを、1人の若い女性・津崎璃々が止める。

「すみません…。5,000円で溝の口まで行けますか?」

赤羽橋の交差点に立った璃々は、スマホと五千円札だけを握りしめている。

溝の口は多摩川に隣接しているとはいえ、東京から見て向こう岸、神奈川県の川崎市だ。

「5,000円では足りません」

「ですよね…。家に着いたら財布を取ってきます。中にクレジットカードがあるので払えます。それでもいいですか?」

そういう客はよくいる、と舞香は思う。しかしタクシー運転手になりたての頃、そのような乗客にそのまま逃げられたことがあった。

だから、乗車拒否することも考えた。

しかし夜の深い時間に、財布も持たない同世代の若い女性を、路上に放置するのは気が引ける。

「構いません。どうぞご乗車ください」

タクシーが動き出すと、璃々はすぐに舞香に話しかけた。

「財布を忘れたのに、この5,000円は誰にもらったんだって思いますよね…?」

「ええ、まあ」

「彼氏に貰ったんです。五千円札を渡されて『これで帰って』と言われたんです」

失礼だと思いつつ、舞香は尋ねた。

「深夜の3時に…ですか?」

「そうです。そんなやつ、彼氏でも何でもないですよね…。付き合ってると思ってるのは、たぶん私だけです。向こうは私のことを彼女だと思ってない」

バックミラーに映る璃々の表情は、とても寂しげだった。



「今夜は突然、0時ごろに彼から連絡があったんです」

彼から璃々に届いたLINEは『仕事の会食が終わったので、今すぐ家に来れないか』という内容だったという。

「こっちはお風呂も出て、寝る準備をしてベッドの中にいたんですけど…すぐに身支度して向かいました」

璃々が自宅に財布を忘れたことに気づいたのは、タクシーに飛び乗った後だった。唯一、手に持っていたスマホで彼に連絡。到着後、タクシー代を払ってもらったという。

彼の自宅で過ごしたのは、およそ2時間。

3時になる頃に彼は「明日は早いから一人で寝かせてほしい」と言い、五千円札を渡してきたそうだ。

「そうでしたか…。行きのタクシー代を彼が払ったなら、帰りが5,000円で足りないことを、彼も理解されてると思うのですが…」

タクシーは高樹町からトンネルを抜けて渋谷方面へを快調に走る。深夜の国道246号線は空いていた。

「ですよね。『手持ちがないから』って言われましたけど…彼はあまり深く考えてないんだと思います」



「これって私…彼女じゃなくて、ただの都合のいい女ですよね?」

「ええ、そう思います」

きっぱりと答えると、璃々は苦笑した。

「呼び出しに応じてしまったら、都合のいい女になるかもって、頭では理解してるんです。でも呼び出されると嬉しくて、つい行ってしまって…。どうやったら、こういう状況を抜け出せるんですかね?」

「お客様の好きになさったらいいと思います」

その答えが予想外だったのか、璃々は驚きの声をあげる。

「えっ…。『やめたほうがいい』って言われるかと思いました」

「いえ。実は私にも、今のお客様のような時期がありました」

かつての舞香は、好きになった1人の男に都合良く扱われ、たとえ深夜でも、呼び出されたらタクシーに飛び乗っていた。

璃々と同じように、その男との関係性に悩んで、色々な人に相談した。よく当たると噂の占い師にも、アドバイスを求めた。

すると、みんなが同じように言った。「そんな男、やめとけ」と。

「…でも結局、私はアドバイスを無視しました。相手の男に嫌われたくなくて。言い合いになったり、喧嘩したりするのが嫌で『呼ばれたらすぐに行く』を繰り返しました」



舞香の話に区切りがつくと、璃々は恐るおそるといった様子で尋ねる。

「もしかして運転手さん、子どもの頃からそうでしたか?いつも家族や友達の顔色をうかがって、過ごしてきました?」

そんなことはない、と舞香は思った。しかし、あえて肯定も否定もしない。

弱っている女性が差し出してくる手を突っぱねるような真似は、したくなかったからだ。

「私は、子どもの頃からいつもそうでした」と璃々はうつむく。

「相手の顔色ばかりうかがって、どんなに雑に扱われても、愛想よく振る舞ってしまうんです…」

「わかります。“良い子”って“都合が良い子”になりがちですよね」

「そう!そうなんです」

璃々の声が、ひときわ大きくなる。

「私の友達に、自分をしっかり持っている子がいるんです。悪く言えばワガママ、恋愛でも去る者は追わないタイプです。

でも、その子はいつも幸せそうで、実際に幸せな恋愛をしていて、ついこの前、すごく良い人と結婚しました。私もああなりたいって思います…でも変われないんです」

国道246号線の信号はずっと青が続き、タクシーは止まることなく走り続けている。

「お客様、ひとつ聞いてもよろしいですか?お客様は、いつも相手の顔色をうかがうような恋愛をされているのですか?」

「え?」

「それとも、顔色をうかがうような恋愛は、今の彼に限っての話なのでしょうか?」


「そうですね…今の彼に限った話じゃないです。なんか私、いつも自分のことを雑に扱う人ばかりと恋愛をしている気がします。

たぶん私がそういうタイプだから、そういう男が寄ってくるんです」

ここで舞香は、あえて意地悪な聞き方をした。

「本当に、夜遅くに電話してきて、自宅に呼び出すような男ばかりでしたか?」

「…いえ。実は、ひとりだけ優しい人と付き合ったことがあります。私をお姫様のように扱ってくれた人でした。

向こうに押されるかたちで付き合い始めて…。もちろん好きだったから付き合ったんですけど…3ヶ月も経たないうちに別れました」

「どうして別れてしまったんですか?」

「優しかったんですが、その人の良いところはそれだけで…。私、もっとすごい人と付き合いたいんです。いい男と付き合いたいんです」

バックミラー越しに見える璃々の目は、この夜初めてきらきらと輝いた。

それを見た舞香に、笑みがこぼれる。

「お客様のような方がいて、お悩みだった場合、私はいつもこう言っています。『いい男と付き合うのではなく、自分をいい女にしてくれる男と付き合ったほうがいい』と」

「…その優しかった彼のほうが、私には合ってるってことですか?」

璃々は少し不満そうだった。

「今の彼よりは、マシでしょう。でも…」

「でも?」

「お客様は私が何を言ったところで、かつての私と同じように聞く耳を持たないでしょう。それでよろしいと思います。

お客様は今の彼のことをとても愛しているのでしょう?だから他人がなんと言おうが、お客様には関係ないんです」

璃々は、満足げに頷いた。

「それだけ誰かを好きになれるお客様が、私は羨ましいです」

皮肉でも何でもなく、それは舞香の本音だ。

「だから、やはり最初に申しあげたとおり『お客様の好きになさったらいい』と私は思います」



「…ちなみに、なんですけど」

タクシーが二子玉川に差し掛かろうとしたところで、璃々は唐突に話題を変えてくる。

「運転手さんはどうやって『呼び出されたら飛んでいく都合の良い女』から脱却することができたんですか?」

「相手がいなくなったんです」

「いなくなった…?」

「はい。私の前から姿を消しました」

璃々は、身を乗り出した。

「え、追いかけなかったんですか?私なら追いかけます」

「もちろん追いかけようと思いました。でも連絡が取れないんです。共通の知り合いも皆が連絡を取れなくなりました。

家も引っ越していて…どこにいるかもわからなくなったんです」

「そんな…私なら立ち直れないです…」

璃々は泣きそうな顔を見せる。ウソのない表情だ。本当に良い子なのだろうと舞香は思った。

「はい。立ち直るまで時間がかかりました。そのころの私は港区で遊んでいましたが…立ち直るために、それもやめて…。

今こうして、タクシードライバーをしているのも、それが理由です」



タクシーは新二子橋を渡り、溝の口に到着する。遠くに浮かぶのは、武蔵小杉のタワーマンション群だ。

璃々は降車するなり、川沿いにある6階建ての自宅マンションへ駆け込み、財布を持って戻ってきた。

クレジットカードで精算をしている間、璃々は質問を投げかける。

「運転手さんは、いつもどこを走っているんですか?」

「港区です」

「じゃ、もう会うことはないかもしれないですね…」

舞香は意味がわからず首をかしげると、璃々が続けた。

「好きな人が突然いなくなったって運転手さんの話を聞いて、私、そうはなりたくないって思いました。

だから、もう港区にいる彼に電話で呼ばれても、会いに行かないようにします。明日になったら考えが変わるかもしれないけど、今は本当にそう思っています」

最後に最高の笑顔を見せ、璃々は自宅に戻っていった。

タクシーのランプを空車に切り替えてから、舞香はひとり思う。

― かつての私みたいなあなた…。健闘を祈る。

本当にそう思った。健闘を祈る。


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▶1話目はこちら:港区女子を辞め、運転手に転職した美女。きっかけは?

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