貴方は、自分の意外な一面に戸惑った経験はないだろうか。

コインに表と裏があるように、人は或るとき突然、“もう1人の自分”に出会うことがある。

それは思わぬ窮地に立たされたときだったり、あるいは幸せの絶頂にいるときかも知れない。

……そして大抵、“彼ら”は人を蛇の道に誘うのだ。

前回は、“愛すべきもの”のおかげで過去の自分と決別できた女性・真帆(28)が登場した。

今回は、1年半交際していた真帆を振った、大手証券会社の営業マン・悠斗(30)の「もう1人の自分」を紹介する――。

▶前回:マッチングアプリの男性と、恵比寿で初デート。待ち合わせに15分早く着いた28歳女が時間をつぶしていると…



「他に好きな人ができた。別れてほしい」

2022年10月。少しだけ肌寒い、秋の夜。

自分が住まう恵比寿のマンションに彼女……今まさに“元カノ”となった「真帆」を呼び出し、静かに別れを告げた。

「ねえ、意味わかんないよ……ついこの前まで、同棲するって話も出てたじゃない。お願い、もう一度考え直して……」

両目からボロボロと涙をこぼし、俺にすがる真帆。彼女の言う通り「ついこの前まで」俺は彼女を愛していた。

だから、自分の身勝手な心変わりで彼女を突き放すことに、罪悪感を覚えないわけがない。

それでも、こんなときでさえ、俺の頭の中は「綾香」でいっぱいだった。



『悠斗:いま、別れ話してきたよ。向こうはまだ納得してない感じだったけど、俺は綾香とちゃんと向き合いたいから』

『あや:おつかれさま!大変だったね。これで私たち、正式に付き合える…ってことでいいのかな?』

『悠斗:うん。俺はそうしたいと思ってる。これからよろしくね』

泣きわめく真帆を無理矢理帰宅させた後、すぐに綾香にLINEを送る。彼女から返ってきた可愛らしいうさぎのスタンプに、思わず口元が綻んだ。

綾香は、俺が勤める証券会社に今年入社してきた新卒社員だ。青山学院大学卒で、学生時代には少しだけモデル活動のようなことをしていたらしい。

彼女が俺のチームに配属され、直属の後輩になり、その圧倒的なルックスと人懐っこい性格に、俺はだんだんと惹かれていった。

それでも、若くて美人な綾香に、俺なんてとてもじゃないが釣り合わないと思っていたのだが……。

「あや、悠斗先輩のことめっちゃカッコいいと思ってます。彼女さん、こんな素敵な彼氏さんがいて、ズルいなあ」

チームの忘年会の帰り道。そう言って悪戯っぽく微笑む彼女に、俺は完全に心を奪われてしまったのだ。


12月。綾香と迎える、初めてのクリスマス。

『ブボ バルセロナ』の華やかなクリスマスケーキを取り寄せ、レストランのオードブルを注文し、部屋もクリスマスっぽく装飾した。

至るところに豆電球をセッティングし、綾香が入室した瞬間にスイッチを入れる。キラキラと輝く部屋を見回しながら、綾香は驚きと喜びで目を丸くしていた。

「これひとりでやるの大変だったでしょ? 悠斗さん、すごいね」

「俺、わりとこういうの得意なんだ」

少し自慢げに笑って見せると、綾香ははにかむような笑みを見せた。

― ああ、本当に幸せだな。来年のクリスマスも、こうして一緒に過ごせたら……。

11月あたりは、真帆のしつこいLINEや、家に押し掛けてくるなどの“妨害行為”に悩まされていたが、何度もハッキリ「もうお前のことは好きじゃない」と伝え続け、ようやく平穏で幸福な生活を手に入れることができた。

俺に依存しきっていた真帆よりも、まだ20代前半の綾香のほうがよっぽど自立していて大人に見える。付き合う前のようにベタベタ甘えてくれることは少なくなったが、俺としてはむしろ今の距離感が心地よい。

綾香の口元に付いたケーキのクリームを指で拭うと、「子ども扱いしないで」と眉をひそめながら可愛らしく叱られた。



「ごめんなさい、別れてほしいです」

2023年2月。バレンタインも終わり、ホワイトデーのお返しは何にしようかと考えていた矢先に、綾香から突然別れを切り出された。

今まで相手から振られたことがなかった俺は、ひどく動揺した。

やっとの思いでひねり出した「どうして?」という言葉に対し、彼女はものすごく申し訳なさそうな表情で「好きじゃなくなったんです」と呟いた。

「ネットで調べたんですけど、もしかしたら『蛙化現象』ってやつかもしれません……」

彼女の言葉の意味が分からず、俺が首をかしげると、綾香は「好きだった人と付き合えたのに、なぜだか相手を『気持ち悪い』と思ってしまうことです」と続ける。

「私、ずっと悠斗さんに憧れてました。大人で、仕事ができて、カッコ良くて。でも、付き合ってるうちに、なんか無理だなって思うことが増えてきて……。ごめんなさい」

俺は愕然とした。まさか、付き合った女性から「なんか無理」なんて拒絶される日が来るとは夢にも思わなかった。



綾香とは、会社でも顔を合わせざるを得ない。幸い、今は週のほとんどがリモートワークだが、それでも出勤が被るときは明らかに避けられているのを感じ、とても辛かった。

後々、綾香と同期で仲が良い女性社員から話を聞くと、「言動にオジサンっぽさを感じちゃって嫌だった」「初めてのクリスマスデートなのに家で安く済ませようとしてるのが残念だった」「もう『好き』って言われるのすら耐えられなかった」などと言っていたらしい。俺はさらに心に深い傷を負った。

「クソが……」

綾香に思っているのか、それとも俺自身に思っているのか。綾香と別れてから、俺の生活はどんどん堕落していった。

やり場のない気持ちをすべて酒で喉奥に流し込み、自室のソファに寝転んで天井を仰ぐ。最近の土日は昼間からずっとこんな調子だ。

つけっぱなしにしていた映画が終了し、Amazonプライム・ビデオのホーム画面に戻る。渋々リモコンを手に取って次に見る映画やドラマを探していると、ふと、ある番組のサムネイルが目に留まった。

― これ、新シリーズが出たら、真帆とふたりで観ようって話してた……。

真帆が大好きだった、国内の恋愛リアリティショー。最初はバカにしていたが、彼女に無理矢理見せられているうちに、俺もうっかりハマってしまった番組だ。

『ここに出てくる男性はみんなカッコいいけど、やっぱり私は悠斗が一番だなあ』

酔った真帆がそう言って俺に抱きついてきたのは、1年以上前だっただろうか。

そういえば、彼女とはほとんど家デートだったけれど、文句を言われたことなんて一度もなかった。年齢が近いから話も合って楽しかったし、何より、いつも俺を全力で愛してくれていた。

― この俺が、過去の女を振り返るなんて……。

常に刺激的な日々を追い求めている俺は、いつだって前だけを向いて生きてきた。だから、自分にこんな女々しい一面があったなんて、認めたくない。でも……。

― 俺が本当に大切にするべき存在は、やっぱり、真帆だったんだ……。


久々に真帆のFacebookを開く。投稿内容から察するに、まだ新しい恋人はできていないようだ。

それよりも気になるのが……。

「猫……?」

白と黒とグレーが混ざり合った毛を持つ、長毛種の子猫。最近の彼女の投稿は「モコ」というらしいその猫のことばかりで、友人と遊びに行く機会も減っているようだった。

― もしかして、俺が「結婚したら猫を飼いたい」って、前に言ってたから……?

彼女から執拗に「ヨリを戻したい」と連絡が来ていたのは、昨年の11月。あれから4ヶ月ほどしか経っていない。

俺に対して、まだ未練を抱いていてもおかしくはないだろう。これは、復縁できる可能性が高そうだ。

LINEで真帆のトークルームを開き、急いで文字を打ち込んでいく。

しかし『去年はたくさん傷つけてごめん』『良かったら今度、食事でもしよう』などと入力しているうちに、ふと、我に返る。

― 自分が乗り換えた若い女にこっぴどく振られたからって、今さら元カノに連絡するのはダサすぎないか……?

スマホを一旦テーブルに置き、腕を組む。この文面だと、自分が綾香に振られた寂しさで真帆に連絡したというのがモロバレだ。さすがにカッコが付かない。

真帆と付き合っていた頃を思い返す。いつも俺が軽いノリで真帆をイジって、それに対して彼女が「もぉ〜」と笑っていた。

― あの頃と変わらないようなメッセージを送ったほうが、きっと真帆も返事がしやすいだろう。それで何往復かやり取りが続いた後に、食事に誘えばいい。これなら、俺もそんなにダサくは思われないはず。

女性にメッセージを送る際、こんなにあれこれと悩んだのは初めてかもしれない。新たな自分の一面に少しの違和感を覚えつつも、一つひとつじっくり考えながら文章を打ち直していく。

「送信、と……」



メッセージを送り終え、ソファにずっしりと身体を預ける。一仕事終えたような気になり、安堵のため息が漏れた。

― 真帆と復縁できたら、次こそは一緒に住もう。真帆は綾香と違って料理上手だから毎日の食事が楽しみだ。掃除や片づけは雑だけど、そこは俺がサポートすればいい。

そこそこ遊んでいた男たちが、ある日突然結婚する。そんなときは皆、口をそろえて「そういうタイミングだった」とか「もうこのへんでいいかなと思った」などと言い出すのを、俺は懐疑的に思っていた。

しかし、今、やっとその言葉の意味がわかった。これこそが“タイミング”ってやつなのだ。

閉め切っていたカーテンを開け、窓の外の景色を眺める。目の前には、とても美しい夕焼け空が広がっていた。

― これからは、綺麗な景色も、美味しい食事も、幸せな時間も、真帆とふたりで共有していきたい。

そんなことを考えていたら自然と笑みがこぼれ、真帆に会いたいという想いがどんどん湧き上がってくる。

ふとテーブルのほうを振り返り、その上に置かれたスマホを見やると、ちょうどLINEの通知らしきものが目に入った。

俺は急いでスマホを手に取り、画面をアンロックする。

このあと、膝から崩れ落ちるほどのショックを受けることになるとも知らずに。

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