空港は、“出発”と“帰着”の場。

いつの時代も、人の数だけ物語があふれている。

それも、日常からは切り離された“特別”な物語が。

成田空港で働くグラホ・羽根田(はねだ)美香は、知らず知らずのうちに、誰かの物語の登場人物になっていく―。

▶前回:ロンドンから帰国した直後、女に予想外のトラブルが…



Vol.2 果歩の物語
ホノルル行きの機内でおこった、まさかの出来事


『1日目の夜は、どこで食事する?』

果歩は、弾む指先で航太にLINEを送る。

数日前に予約した彼とのハワイ旅行は、まだ1ヶ月以上も先だ。それなのに、今からこんなにも浮かれていていいのだろうかと果歩は思う。

けれど、コロナが流行り始めたころに付き合い始めた2人にとっては、これが初めての海外旅行なのだ。

「海外に行けるようになったら、まずはハワイがいいね」と話していたときは、いつそのときがくるのだろうと、どこか現実味がなかった。

それから3年。ようやく念願が叶うのだから、落ち着いていられるわけがない。

夢心地でスマホを胸の前に抱えていた果歩は、航太からの返事を待たずにポンポンと追いLINEを送った。

『“ビーチハウス・アット・ザ・モアナ”はどう?』

『でも、カバナ席がある“アズーア”も捨てがたいな』

数分後―。

“シュッ”

― あ、航太だ!

『どっちもいいね!2日目は果歩の誕生日だし、せっかくだから両方とも行こうよ』

このハワイ旅行は、果歩の29歳の誕生日に合わせて、彼が企画してくれたものでもある。

きっと最高の旅行になるに違いない。そう思った果歩は、ネットやSNSで話題のスポットを調べては、頬を緩めるのだった。

ところが、次の日の夜。

『ごめん、果歩…。7日、仕事でどうしても抜けられなくなった』

旅行の日程は、2月7日から6日間。

彼から送られてきたLINEに、絶頂だった果歩の気分は、どん底につき落とされたのだった―。


2020年1月。

デザイン会社に勤めていた果歩は、独立前最後の仕事として、あるイベントのポスターを制作していた。

広告代理店で働く3つ年上の航太とは、そのときに出会った。

旅行や美術館めぐりが趣味の2人は、すぐに意気投合。航太からの告白で、果歩がフリーのデザイナーになるのとほぼ同時期に、付き合い始めることになった。

ここまでは、すべてが順調だった。だが、それからほどなくしてコロナの流行が広がると、状況が一変した。

デザインを請け負っていたイベントがことごとく中止になり、仕事が激減。

そんなとき、航太は親身になって果歩の相談に乗ってくれた。

窮地を救われたことが、何度もある。

― 色々大変だったけど、航太がいてくれて本当によかった。

果歩は、分析力があって、視野も広い彼のことを、公私ともに尊敬している。

もうすぐ3年の付き合いになるが、大きなケンカもない。

こんなご時世でも2人で励まし合いながらやってこれたのは、航太とだったからだ。果歩はそう考えていた。

その先のハワイ旅行だった。

― …一緒に旅行、行きたかったなぁ。

スマホを手に取ると、ハワイにまつわる検索履歴がズラリと並ぶ。

それを視界の端に追いやりながら、果歩が航空券の予約をキャンセルしようとしたときだった―。



「もしもし、果歩?」

航太から、電話がかかってきた。

「本当にごめん」
「…ううん。仕事なら仕方ないよ」

航太に気づかれないように、電話口で小さく鼻をすする。

「出発の日はダメになっちゃったけど…。次の日からは、ちゃんと休みが取れるから。1日短くなっちゃうけど、ハワイ行こう?」
「え、本当?もちろん行くっ」

果歩は、仕事部屋のパソコンデスクの前で、勢いよく立ち上がった。

「じゃあ、僕が航空券を取り直すから、果歩は行きたいところとか決めておいてね」
「わかった!私は、とりあえず今の予約をキャンセルしておくね」

滞在日数は短くなってしまったけれど、旅行自体がキャンセルになったわけではない。むしろ果歩は、一度落ち込んだ分、これまで以上に気分が盛り上がるのを感じていた。



2週間後。

ハワイ出発まで、あと2週間となった週末。

「航太、こっち!」

待ち合わせをしたのは、恵比寿にあるイタリアンレストラン『イル バロンドーロ』。

テーブル席に向かい合って座り、「黄金リゾット」や「しらすとアンチョビ・トマトのスパゲッティ」をシェアして食べる。

そして、ひと通り食事が落ち着くと、人気メニューの「黒トリュフのスクランブルエッグ」とワインを前に、旅行の話になった。

「ハワイ行きの航空券なんだけどさ…」
「航空券がどうしたの?」

果歩は、言いにくそうな様子の航太を促す。

「うん。直行便の予約が取れなくて、仁川経由のフライトになった。果歩、それでも大丈夫?」
「なんだ〜!予約が取れなかったって言うのかと思って、ヒヤヒヤしたよ。全然、大丈夫。忙しいのにありがとう」
「よかった。あと、ホテルってどうしたんだっけ?」
「ホテルは、はじめに予約してたところ。日にちを変更してもらえたから、大丈夫だよ」

ここまで聞くと、彼も安心したようだった。

「楽しみだね」

しかし、そう言って別れたあと。

言葉とは裏腹に、航太からの連絡はわかりやすく減っていったのだった。


― あれ?まだ返事がきてない…。

出発の日が近づき、水を得た魚のようにいきいきする果歩とは反対に、航太のテンションはグンと下がっているように感じられた。

『やっぱりラニカイ・ビーチは外せないよね!』

『レインボー・フォールズにも行っちゃう?ベタすぎるかな』

果歩が送ったLINEは、丸1日たっても既読にならない。やっと返事が送られてきたかと思ったら、「うん」「行こう」とか、スタンプだけだ。

心配になって電話をかけてみると、「あとでかけ直す」と言って忙しそうにしている。

結局、まともなやりとりもできないまま、あっという間に出発前日になってしまった。

『航太、仕事忙しい?体調とか大丈夫?』
『大丈夫だよ』

― もしかして…航太、あんまり行きたくないのかな。

『じゃあ、明日リムジンバスの乗り場でね』

不安な気持ちで送ったLINEは、すぐに既読になった。

今度は、スタンプすら送られて来なかった。

果歩のメッセージに、親指を立てたリアクションマークが付けられただけだった。



― うわ、航太…。すっごく疲れてそう。

東京シティエアターミナルにやってきた航太の顔を見て、果歩はギョッとした。

くっきりとしたクマができているうえに、目のまわりがくぼんでいる。

成田空港までは、1時間10分。

バスの座席に体をあずけた彼は「ごめん」と言って、ピクリともせず眠り続けた。

― やっぱり仕事が大変だったんだ…。誤解してたな、私。ハワイに着くまで長いけど、移動中にちょっとでも休めるといいよね。

疲れている彼に、執拗に話しかけないようにと口数を減らす。

成田空港でのチェックインも、率先して果歩が済ませた。

経由地のソウル・仁川空港に到着したのは、16時50分。ホノルル行きのフライトまで、乗り継ぎ時間は3時間45分だ。ビジネスクラス専用のラウンジに向かうと、そこで2人ははじめてホッと一息ついた。

「果歩、疲れてない?」
「ううん、大丈夫だよ。私、お水もらってくるね」

― うーん。何か胃がもたれちゃったみたい…。

大丈夫とは言ったものの、成田から仁川間で食べた機内食でお腹が苦しい。

「はい、これ航太の分」

果歩は航太に水を手渡したあと、胃のあたりをさすりながら椅子に体をうずめる。フーッと長く息を吐くと、少しはムカムカが和らぐようだった。



ようやくホノルル行きのフライトに搭乗。

果歩は、思いのほか体が疲れているのを感じた。

シートに身を委ねると、いつの間にかスッと眠りに落ちてしまう。

「果歩、果歩!」
「…ん?」

しばらく経って、航太に起こされる。果歩は「あっ!」と両手で口を押さえた。



果歩の前に運ばれてきたのは、みずみずしいフルーツの盛り合わせだった。

傍らには、メッセージカードも添えられている。

「果歩、誕生日おめでとう」
「これ、どうしたの?」

聞くと、航太は予約を取るときの一部始終を話してくれた。



航太「果歩に、喜んでもらいたくて…」


「はい、……航空成田空港支店でございます」

とにかく仕事が忙しかった航太は、ホノルルまでの直行便の予約を取ることができなかった。しかし、経由便だったらまだ空席があるだろうと考えた。

本来ならネットでの予約で済むところを、あえて電話予約にしたのは、確認したいことがあったからだ。

だが、予約センターに電話をするつもりが、うっかり成田空港の支店にかけてしまったことに気がつく。

「あ、もしもし。ホノルル行きのフライトの予約を取りたいんですけど、こちらでも大丈夫ですか?」

「はい、承ります。ご希望の日にちをうかがってもよろしいでしょうか?」

無事に予約が取れると、最後にこう切り出す。

「機内で記念日のケーキを出してもらえると聞いたことがあるんですが。予約できますか?」
「大変申し訳ございません。確かに以前は、ご希望のお客様にアニバーサリーケーキを提供させていただいていたのですが、少し前にサービスが終了してしまいました」

もともとの日程から1日遅れの出発ということは、果歩の誕生日は機内で過ごすことになる。

航太はケーキのサービスがあることをふと思い出したのだが、やっていないのなら仕方がないとあきらめた。

「そうですか。同行者がちょうど誕生日なので、何かそれらしいことができたらと思ったんですけど…すみません」

そう言って、電話を切ろうとしたときだったー。

「ご同行者様は、果物はお好きですか?」
「え?あ、はい。好きですね」
「あいにく、成田からのご用意はできかねるのですが、もし差支えなければ、仁川からホノルルまでの機内食をフルーツプレートでご用意させていただくことも可能です。華やかな感じにはなるかと思います」

― そういえば果歩、前に機内食が得意じゃないって言ってたよな。

「フルーツプレート…。それ、すごくいいですね!お願いできますか?」
「かしこまりました。では、羽根田が承りました」

― ハネダ…さん?成田空港なのに、ハネダさんってインパクトがあるな。



2月8日、ホノルル行きの機内。

果歩の前に置かれたフルーツの盛り合わせには、「Happy Birthday!」と書かれたメッセージカードが添えられている。

― これは多分、“ハネダさん”の計らいだろうな。

うれしい気づかいに感謝しながら、航太は、果歩の横顔を見た。

「最近、全然連絡できてなくてごめん。果歩と旅行に行きたくて、ちょっと仕事で無理しすぎてた。だけど、こうやって一緒に来られてよかったなと思ってる。ハワイ、楽しもう」
「ありがとう、航太…」

彼女の瞳から、涙がこぼれる。

ホノルルに到着するのは、朝の9時半。

日本との時差はマイナス19時間だから、現地でも果歩の誕生日を祝うことができる。

航太は、彼女に渡す“赤い箱”を鞄の中に確認する。それから、ふたたび果歩の横顔に視線を移すのだった。


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