きっかけは、1遍のエッセイだった―。

『私の、忘れられない冬』

ライターの希依(28)は、WEBエッセイに自身の過去を赤裸々に綴った。

その記事の公開日、InstagramのDMに不思議なメッセージが届く。

「これって、青崎想太くんのことですよね?LINE、知ってますよ」

平和だった希依の人生が、めまぐるしく変わっていく―。

◆これまでのあらすじ

「想太が彼女と別れた」と聞いた希依は、想太に会いに行った。その結果希依は、自分が想太のことをまったく忘れられていないことに気づいてしまう。

▶前回:「元カレとは、もうただの友達」既婚者になった女が、そう思って2人きりでお茶したら…



オムレツが美味しい恵比寿のビストロの、窓際席。

希依は、気まずい表情で咲を見つめていた。

― さっきから、咲の言葉数が少ないわ…。やっぱり、軽蔑されたのかな。

おととい希依は、咲にこんなLINEを送っていた。

『想太を忘れられない』

今日は、そのLINEを読んだ咲から「どういうこと?」と呼び出され、一緒にランチをする運びになったのだ。

咲の顔色をうかがいながら、到着したトリュフオムレツにナイフを入れる。

そのとき、咲が口を開いた。

「想太を忘れられないって…どういうことなの?説明して」

「うん。そのまんまの意味だけど、想太ともっと一緒にいたいって思っちゃったの」

「なんでなの?」

「想太との時間が、楽しくって、一緒にいると幸せだから…」

すると咲は、口元に乾いた笑みをうかべた。

「希依さ、既婚者でしょう?自分の立場、わかってる?」

咲は責めるような目でしばらく希依を見つめ、あきれ顔で食事に集中しはじめた。

咲はいつも、芸能人の不貞でさえかなり厳しく批判する。自分に厳しい反応を見せるのも当然だと、希依は思った。

「怒られるとは思ったけど、咲以外にしか話せないから相談してるの。だから咲、そんな顔しないでよ」

「…わかったわよ。でも相談ってなに?」

「私、どうしたらいいのかなって」

咲は、冷笑した。

「え?旦那さんのことも好きだけど、想太のことも好きだから、どうしたらいいかって?なんか希依、楽しそうでいいね」

嫌味っぽい言葉が、希依の胸をチクリと刺した。

「希依はどうしたいの?」

「…どうしたいのって?」

「つまり…旦那さんと離婚して一緒になろうとか、考えてるの?」


離婚というワードに動揺し、希依はフォークを手放してしまう。お皿にフォークがあたる鈍い音が、響いた。

「離婚は、考えてない。たぶん」

「…ないんだ。じゃあ言っとくけど、離婚する覚悟もないのに、想太のことで悩むべきじゃないよ」

咲はいつになく低い声で言った。

「これは親友からの忠告よ。もし想太と関わり続けたいのなら、もう旦那さんとは関係を切るしかない。逆もしかり。わかった?」

「そうだよね…」

「うん。今の希依は、自己中心的すぎるって。…想太がかわいそう」

希依は、自分がいかにおかしな相談を持ちかけてしまったのか、ようやく自覚した。



翌日の16時すぎ。

希依は、頭の中から想太を追い出す努力をしていた。

しかし、忘れようとすればするほど、余計に想太のことを考えてしまう。

結局、今朝正介を見送ってからこの時間まで、ずっと想太のことを考えている。

― いい加減、忘れなくちゃ。

気を取り直してキッチンに立ち、ディナーに出すブイヤベースの下ごしらえに取り掛かったそのとき、LINEが鳴った。



スマホの画面に「想太」という文字が見えた途端、心臓が跳ねる。

『想太:希依の本が、うちに6冊もあるんだ。アーヴィングとか。送っていい?』

― ああ、アーヴィング。なつかしい…。

想太と一緒にいた頃、想太の影響で頻繁に読んでいたことを思い出す。

しかし希依は、今や海外文学はほとんど読まなくなっていた。

読書系メディアからライターの仕事をもらっているので、国内の新刊を追うのに精一杯だ。

― 今は、送ってもらってもすぐには読めないだろうし…。迷惑じゃなかったら処分してもらおうかな。

希依はスマホにその旨を打ち込む。

しかし結局、送信する前に一気に消し、打ち直して送信した。

『希依:じゃあ、直接受け取ろうかな』

想太と会いたい気持ちに、勝てなかったのだ。

渡ってはいけない道に踏み込んでいることは、自覚していた。だから希依は、あわてて決意する。

― これで、最後にするわ。会うのは、あと1回だけ。

希依は「最後」と自分に強く言い聞かせ、罪悪感から逃れようとした。





正介が、また仕事に出た。そのタイミングに合わせ、土曜の15時から想太に会うことにする。

待ち合わせ場所の新宿へと向かうタクシーの中。

希依は相変わらず「最後」という言い訳を繰り返した。

― 本当に今日で最後にする。今日だって、本を返してもらいにいくだけだから、やましいことなんてない。

指定されたカジュアルなイタリアンカフェに入ると、想太は先に来ていた。

「お待たせ、想太」

「もう夕方だし飲んじゃおうか」とどちらともなく言い合い、ビールで乾杯し、他愛もない話をする。

昔のように、なんでもない会話のラリーがずっと続き、笑いが止まらない。

ワインに変えて、2杯目、3杯目と勢いにまかせて飲んだ。結果17時頃にはもう、希依の顔はぽっと熱くなっていた。

「大丈夫?結構酔ってきた?」


想太は、希依のために水をオーダーした。それから、思い出したように白い紙袋を手渡してくる。

「忘れないうちに、本返すね。ずっと持っててごめん」

「ああ、ありがとう。なつかしい…あれ、10冊もあったんだ」

袋を開きながら、希依はたずねる。記憶にない本が何冊か入っていたので、不思議だったのだ。

「それ、返すのが遅くなったおわび。オススメの本を何冊か入れておいた」

「うれしい」

「でも、返さなくていいし、感想もいらないからね」

「え?」

想太は、急に深刻な声になって言った。

「希依…こんなふうに会うのは、今日で最後にしよう。僕たちもう会わないほうがいいよ。旦那さんがどう思うか」

希依は固まる。

「最後にしよう」というのは、今日まさに希依から切り出すつもりだった話だ。

「…実はちょうど私も、言おうと思ってたの。最後にしようって」

「そうか。奇遇だね」

想太は、しんみりと言った。

「希依といることがすごく自然だったから、つい昔みたいに戻りかけてた。でも、希依には旦那さんがいる」

「悔しいけど、終わりだ」と笑った顔は、泣き出しそうに見えた。

想太も相当酔ってきていると希依は思う。今の想太は、希依への未練を、いつになくあからさまに表現していた。



気づけば18時近くなっていた。

― そろそろ帰って、正介にご飯を作らなくちゃ…。

「ごめん、私そろそろ」

想太は時刻を確認し、ハッとした様子で会計を済ませる。

「大丈夫?飲みすぎた?」

「心配ありがとう。大丈夫よ。気持ちいい」

言いながら、希依はひそかに絶望していた。

このまま別れることが、本当に名残惜しく思えたからだ。

― 想太との時間がこのままずっと続けばいいのに…。

そう思っていた希依は、店を出てから、ついつぶやいてしまう。

「最後なの…やだな」

「わかって、希依。仕方ないことだよ。タクシー止めるよ?」

「うん。でも、もうちょっとだけ歩こう。最後なんだから」

希依の懇願に、想太は観念したように「わかった」と言った。



酔っているうえに、慣れない新品のブーツを履いているせいで、足元がおぼつかない。

横断歩道を渡りきったとき、希依は道路の段差につま先をひっかけ、よろめいた。

想太が、サッと腕をとる。

― あ。

至近距離で、目が合った。

そして、想太の香りが一段と濃くなったと思った、その瞬間。希依は、想太にキスをされていた。

「はっ」

想太は我に返った様子で体を離す。

「ごめん。本当にごめん」

想太は、小声で何度も謝る。顔をそむけているので、その表情は希依からは読み取れない。

「ごめん。帰ろう」

想太は焦りきった様子で大通りまで歩き、希依のためのタクシーを止めた。

しっかりした別れの言葉もないまま、希依はタクシーに乗せられる。

「…バカなことした。ああ、本当にごめん」

泣きそうな顔の想太を残し、タクシーは走り出してしまった。

マンションに到着してからも、希依の唇にはまだキスの余韻が残っている。

誰もいない暗い部屋に、明かりをつけ、靴を脱いだ。

ルームシューズを履きながら、何気なくスマホの画面に目を移したそのとき。

血の気が引いた。

希依は、玄関にしゃがみこむ。

例の謎のアカウントから、久々のDMが届いていたのだ。その内容が、妙だった。

『これで、幸せになれましたね?』


▶前回:「元カレとは、もうただの友達」既婚者になった女が、そう思って2人きりでお茶したら…

▶1話目はこちら:「もう無理」と、イブに突然フラれた女。数年後、謎のDMが届いて…

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怪しいDMの送り主は?希依には、思い当たる人がいて…