29歳―。

それは、節目の30歳を目前に控え、誰もが焦りや葛藤を抱く年齢だ。

仕事や恋愛、結婚など、決断しなければならない場面が増えるにもかかわらず、考えれば考えるほど正解がわからなくなる。

白黒つけられず、グレーの中を彷徨っている彼らが、覚悟を決めて1歩を踏み出すとき、一体何が起こるのか…。

◆これまでのあらすじ

文乃(29)は、フランスへの留学をしたいと思っているが一歩が踏み出せない。そんな時、友人の真央とともにフレンチバルに訪れた際、そこで働く留学生のリュカと出会い、親しくなり留学への思いが遠退いていく…。

▶前回:「ダメってわかってるけど…」躾の厳しい両親に育てられた女が、変な男にハマるワケ



ジレンマの壁【後編】


「うわっ!文乃、髪の色変えたんだ!」

真央が駆け寄ってきて、文乃に声をかける。

「パーマもかけたんだね!すごく似合ってる!」

真央に褒められ、文乃は照れながらオレンジブラウンに染めた髪を撫でる。

「ホント?真央に言われると安心する」

昨日から、文乃は勤務先である銀行の連続休暇期間に入った。

休みが9日間あるため、そのあいだだけでもと髪の色を明るくし、緩めのパーマをかけてみたのだ。

文乃は、自分としては気に入ってはいたものの、人生初の試みで不安もあったため、真央の言葉に胸を撫でおろす。

「きっとリュカ君も気に入るんじゃないかな!」

「そ、そうかな?だといいんだけど…」

文乃は、これから真央とともに、リュカの働くフレンチバルを訪ねる予定だ。

― リュカ君、この髪気に入ってくれるかな。

実は、リュカの大好きなアニメ『ONE PIECE』に登場する、女性キャラクターの容姿に寄せて、文乃はイメージチェンジしてみたのだ。

店に着き、真央が入口のドアを開けると、早速リュカが出迎える。

「いらっしゃいませ…」

リュカと目が合う。

すると、その表情が一瞬曇ったように文乃は感じた。

― あれ…?気に入ってもらえなかったかな…。

「リュカ君!見てよ。文乃、すごく可愛いでしょう?」

真央に腕を引かれ、リュカの前に立つ。

顔を合わせると、リュカにいつもの柔和な笑顔が戻っている。

「うん。フミノさん、その髪とてもよく似合っています」

「でしょう!」

真央が嬉しそうにはしゃぐ横で、文乃は視線を落とす。

― 違う…。本心で言ってない。

文乃はどこか浮かれていた自分に、気恥ずかしさを感じた。


真央と別れ、文乃はいつも通り門限の23時までに自宅に戻る。

自分の部屋に入りスマートフォンを取り出すと、リュカからLINEが来ていたのですぐに開いた。

『今日はお店に来てくれてありがとうございました』

定型文のようなメッセージに、文乃は肩を落とす。

挨拶で終わらせたくなかったので、思い切って髪型について聞いてみることにした。

『私の髪、どうだったかな?本当は似合ってないと思ったでしょう?』

しばらくして、リュカからの返事が届く。

『そんなことないですよ。とても似合っていました。ただちょっとビックリしただけです』

― やっぱりリュカ君は優しいな…。

続けてLINEが入る。

『でも、少しもったいない気もしました』

『もったいない?どういうこと?』

『せっかく日本人らしいキレイな黒髪だったのに、わざわざ色を変えなくてもいいのかなとは思いました』

― そっか…。リュカ君は黒髪の女性のほうが好みなんだ。

『うん、気分転換に変えてみただけだから。すぐに戻すつもりだよ!』

明るい髪色が今だけであることをアピールする。

文乃は、姿見の前に腰をおろす。

自分の容姿を眺めながら、ひとつ溜め息をつく。

― 気に入ってもらえなかった…。



自分の殻を破ろうと、思い切った行動をとったことは、我ながら評価できるところだった。

だが、相手の好みにそぐわず、もとの状態に戻そうとしている。

結局、周りに合わせるばかりで、意思を貫き通せない自分に、苛立ちをおぼえる。

そこで、LINEの着信音が鳴る。

画面を見ると、相手はリュカではなかった。

― 拓海からだ。なんだろう…。

拓海は、文乃の元彼だ。

同じ銀行の本店営業部に勤めていて、同期として知り合い交際に至ったが、半年前に別れている。

『久しぶり!文乃休暇期間に入ったんだって?よかったら明日メシでも行かないか?』

拓海は、エリートコースを進んでいるせいか、性格に少々強引なところがある。

交際中、文乃は、彼の自分勝手な言動に振り回されることも多かった。

いわゆる“束縛するタイプ”でもあり、なにかと制限を設けられた。

友だちであっても男性と出かけることは許されず、女友だちとの外出も歓迎はされていなかった。

文乃が真央としばらく疎遠だったのには、コロナ禍であった以外にもそういう理由がある。

― 食事か、どうしようかなぁ…。

拓海と別れた理由は、束縛に耐え切れなくなってきたのに加え、ほかに女性の影が見え隠れするようになってきたからだった。

良い形で終わったわけではなかったため、文乃に再会を望む気持ちはなかった。

普段であれば、食事の誘いも断っていたに違いない。

ただ、ここ最近心に留まっているやるせない感情を吐き出したいという思いが、今の文乃にはあった。

― まあ、その相手として拓海が相応しいかどうかは別にして、このタイミングで連絡が来たのも何かの縁かもね。

文乃は、誘いを受け入れる返事を拓海に送った。



翌日。

文乃は、拓海に会うために、丸の内テラスにある『THE UPPER(アッパー)』を訪れた。



拓海の勤務地から近いので、交際中にも何度か来たことがあった。

すでに拓海は到着していて、文乃もテーブルにつく。

「同じのでいいよな?」

拓海が尋ねると、傍らに置いてあったボトルから、赤ワインをグラスに注ぐ。

「お前。なんか、ちょっと雰囲気変わったな」

拓海に見つめられ、文乃は髪を撫でながら目を伏せる。


「そう。休暇中だけ、髪の色を変えてみたの…」

拓海は関心を示す様子もなく、「ふ〜ん」と相槌を打つ。

「食べるものは、適当に頼んでおいたから」

「ありがとう」

注文した料理が運ばれてきて、テーブルの上に並ぶ。

肉料理をメインに、サラダやグラタンなどの料理を口にしながら近況を伝え合い、やがて本題へと入っていく。



「あのさ。俺たち、もう1度やり直さないか?」

拓海が復縁に向けた言葉を切り出す。

「俺も、いろいろ反省したし。直せるところは直すからさ」

文乃もある程度予想していた展開であり、冷静に判断するつもりだったが、やはりその気にはなれなかった。

拓海はひとりよがりの言動が多く、束縛を強いられていたころの自分本位のイメージは拭い切れない。

「あの、女の人は…どうしたの?」

文乃は、交際時に感じていた、女性の影を指摘する。

「ああ…。あれね。あれは…なんでもないよ。本当に」

具体的な関係は明かさず、曖昧にはぐらかす。

「別れて気づいたけど、やっぱりお前と一緒にいるほうが落ち着くし。好みも合うしさ…」

「好みなんて合わないよ…」

文乃はテーブルの上に視線を落とす。

「私、どっちかっていうと魚料理のほうが好きだし。ワインだって白のほうが飲みたい」

「そう…だっけ?」

「それに…。私、留学するの」

「留学…?どこに?」

「フランス…」

「フランス?え、仕事は…?」

「辞めるつもり…」

文乃の言葉を聞いて、拓海が鼻で笑う。

「いやいや…。似合わないことするなよ。仕事を辞めて留学?そんな攻めたことするタイプじゃないだろう。お前らしくないよ」

― 私らしくない?私らしさ…って、なに?

「ずっと組織のなかにいて、守ってもらって、そうやって生きていくほうがお前に合ってるよ」

「なに…それ。勝手に決めないでよ」

拓海はワイングラスを片手に、呆れた口調で続ける。

「それに、なんだよその髪。全然似合ってないぞ。早めに戻せよ」

投げやりな言い方をされ、文乃のなかで悔しさが込み上げる。

確かに、組織の一員に組み込まれ、守られながら安穏として生きてきたのは事実である。

― ヘアスタイルを変えたのも、リュカの好みに合わせようとしたからだし、自分らしいとは言えない。

でも、自分を少しでも変えたいと思って取った自発的な行動を、文乃は否定されたくはなかった。

「私らしさって…なに?勝手に決めないで」

「はあ…?」

「あなたに私らしさを決められたくない。自分らしさは、自分で決めるから」

文乃は怒りを込めた目で睨み、キッパリと言い切る。

拓海との決別が決定づけられた。

「すみません!」

文乃は赤ワインを飲み干すと、店員を呼び止めた。

「シャルドネもらえますか?あと、スモークサーモンも!」

決意を表明するかのごとく、声高らかに注文を告げる。



3日後。休暇期間も残りわずかとなったところで、文乃は再びリュカの働くフレンチバルを訪れた。

今回は、真央を伴わず、ひとりでの来店となる。

出迎えたリュカが、文乃の姿を見て目を丸くする。

「今日はまた、前回と雰囲気が違いますね」

文乃は、「そう?」と微笑んで返す。

髪色は変えず、ヘアスタイルもそのままにして、アイメイクまでバッチリ施してやって来た。

テーブルに案内されたところで、リュカに告げる。

「私、仕事を辞めてフランスに留学することに決めたの」



「ああ、そうなんですね」

「これから留学の準備をしたり、仕事の引継ぎをしたりで忙しくなるから、あまり会えなくなるかも…」

「それは残念です」

リュカがオーダーを受け、厨房へと向かう。

遠退いていく背中に、文乃は、心の距離も離れていくような感覚をおぼえた。

関係性も、単なる店員と客へと戻っていくようで、寂しさが押し寄せる。

― せっかく仲良くなれたけど、仕方ないよね…。

リュカの存在を言い訳にして、留学を縁のないものとして捉えようとしていた。

だが今は、留学を優先に考えるようになったことで、リュカが縁のない相手だったと思える。

拓海との再会で不愉快な思いをしたが、胸の奥にある淀んだ感情があぶり出された気がした。

それは言葉にすることで浄化され、明確な意志となって心に深く根をおろし、覚悟として定まった。

文乃の中に、もう迷いはない。

規制の網が張り巡らされた状況から抜け出し、自分の意思で、安全の確保されていない未知なる世界に踏み出すことを考えると、ワクワクさえする。

― そうだ。休み明けに出す退職届の準備をしないと…。

文乃はスマートフォンを取り出し、『退職届の書き方』を検索する。


▶前回:「ダメってわかってるけど…」躾の厳しい両親に育てられた女が、変な男にハマるワケ

▶1話目はこちら:「30歳になったら結婚しよう」かつて約束していた女が、目の前に現れて…

▶NEXT:2月16日 木曜更新予定
お金はあるのに…男があえてクラウドファンディングで資金を募るわけ